捨身の心 鉄門海上人

恵眼院 鉄門海上人
えがんいん てつもんかいしょうにん
1759-1830
即身仏となった暴れん坊
鉄門海上人は、山形県鶴岡市大綱に位置する真言宗智山派の寺院「注連寺」に安置されている即身仏である。
即身仏(そくしんぶつ)とは、仏教における民間信仰の一種で、後世に渡って永遠に衆生(世の人々)の救済を目的とした僧侶のミイラである。
即身仏になるには、長期に渡る肉体の調整が必要であり、何十年もかけて食事制限を行い、体脂肪や体内の細菌などを減らす事で腐敗しにくい体を造る。
五穀断ち、十穀断ち(穀物を断つ)と言われる苛酷な制限を課すうちに食べる物が無くなり、最後は、松の木の皮などを食すようになると言う。
また、漆(うるし)や丹生(にう/水銀)といった防腐効果のある物質を飲む事で、よりミイラ化に適した肉体造りを行った。
そうして体の準備が整えば、いよいよ土中に入定する。
入定(にゅうじょう)とは、つまり生き埋めであり、3m程の深さの穴(石室)に入り、地上から竹筒を通した空気穴だけが設けられる。
そして、上から石蓋をし、後は埋めてしまうのである。

新潟県村上市 観音寺 仏海上人の石室
https://bukkaisamanokannonji.com/info/大悲山観音寺HPより
行者は、その中で完全な断食行に入り、手に持った鈴を鳴らしながら死ぬまで読経を続ける。
一切衆生と全ての命が成仏するよう祈願を続け、やがて鈴の音が止むと人間としての行者の命が尽きる。
そのまま3年3カ月間残置され、再び掘り起こした時にミイラ化していれば、即身仏が成就したものと判定される。
しかし、生前の肉体調整の不備で腐敗していたり、朽ちていた場合は即身仏が成就したとは認められない。
ましてや中途挫折で脱出を試みたり、救助を要請した場合には、外部から空気穴を塞がれたり、内部に土を流し込んで本当に生き埋めにされたりといった凄惨なペナルティが課せられる事もあったと言う。
また、全てが完全に成功していたにも関わらず、3年間で忘れられていたり、発掘する人手不足などの理由により、そのまま放置されている人達も少なからず存在すると言われる。
修行者の生前の人気度や社会状況などの運にも左右された訳である。
現在、確認されている即身仏は、日本全国に17体が存在し、その多くが山形県に集中している。
関西や関東にも僅かに存在しているが、その殆どが東北の地である。
ミイラ化に適した気候、または修験道の地である出羽三山に伝わる山岳信仰、弘法大師を始めとする密教系の思想などに由来するのかも知れない。

湯殿山瀧水寺大日坊 真如海上人
確認されている最古の即身仏は西暦1003年、直近のものでは、1903年となっている。
明治時代に禁止令が出されて以降、現在でも自殺と解釈されるため、下準備などの手助けを行う者は、自殺幇助に問われてしまう。
このように自分の命を諦めてまで、他者の救済を願う究極の修法とされた即身仏であるが、その中に鉄門海上人と言う人がいる。
鉄門海上人は、宝暦9年(1759年頃)山形県鶴岡市に生まれ、若い頃は、川越人足をしていたと言う。
川越人足とは、対岸の川岸まで人を渡らせる仕事である。
俗名を「砂田 鉄」と言われたそうたが、比較的に気性が荒い突破な性格であったと言う。
諸説あるが、恋仲であった遊女との関係或いは、人足の仕事関係で士族(武士)と争いになり、その相手を殺害してしまう。
発覚すれば死罪を免れないため、真言宗智山派の寺院「注連寺」へと駆け込んだ。
駆け込み寺とは言われたもので、当時は、トラブルの被害者が避難したり、逆に罪人であっても人生を仏門に捧げて社会奉仕するならば、ある程度は大目に見て匿ってあげようと言う風潮が存在した。
注連寺で仏門に入った‶鉄″は、次第に仏の道に深く入り込み、二千日の木食行(穀断ち)に始まる本格的な修行を開始する。
その頃、噂を聞きつけて、かつての恋人であった遊女が寺を訪れた。
鉄は、よりを戻して欲しいと寂しそうに語る彼女を不憫に思い、切り取った自分の性器を手渡して、これを自分だと思って堪えてくれと頼んだと言う。
俗世と隔絶した心境を示したのであろうが、余りにも壮絶な意思表示である。
また、悪質な眼病が流行しているのを見るにつけ、短刀で自らの左目をえぐり取って山岳信仰の習合神とされる湯殿山の大権現に捧げ、鎮静化を固く祈願したと言われる。
この功績により、恵眼院(えがんいん)の号が授けられた。
自らの肉体を損傷してまで行うその本気度は、常人がいくら本気で思いつめても、実行不能な究極の精神状態が窺える。
その後も、各地を巡って多くの人助けや社会奉仕を行い、いよいよこの世の絶対的な救済を実現するべく、即身仏となる決意を固めた。
即身仏は、視点を変えると、たとえ罪人でも一発逆転で聖人となれる敗者復活戦的な要素があったと揶揄する向きもあるが、普通に償うよりも遥かに難易度が高く、長時間かけてジワジワと死んでゆく苦痛は単なる名誉欲だけで耐えうるものでは無い。
価値観も違うため、現代の視点から当時の行者の心境を推し測るには無理があるが、彼らが実践した自己犠牲の観念は、人間が持つ精神の進化の可能性を示していたようにも思える。
鉄門海上人は、文政12年(1829年)12月に71歳で入定された。
入定に際しては、今後、「私に祈願する者は、どんな願いでも叶えよう」との力強い言葉が残されている。
極めて断定口調である事から、既に何らかの手応えを得ていたのであろうか。
尚、即身仏に似た言葉に「即身成仏」(そくしん じょうぶつ)があるが、この2つは意味が異なる。
即身成仏は、人は、この身のままで生きながらにして仏になる事が可能であると説いた「弘法大師」の思想である。
しかし、その弘法大師自身も即身仏のパイオニアであり、承和2年(西暦832年)62歳で高野山奥之院大師御廟にて入定されたと伝えられている。
近年、自分ファーストで不寛容、自己責任と言った価値観が常識化されつつあるが、かつて自らの命を投げ打ってまで他者に尽くそうと考えた人達が存在した事を今一度、思い返してみる価値はある。
即身仏となった僧侶達は、今も深い瞑想の中で我々の救済を祈願してくれている。
大阪の豪商伝 淀屋辰五郎

淀屋 辰五郎
よどや たつごろう
1684-1718
~江戸時代の豪商~
資産200兆の大金持ち
淀屋は、現在の大阪市の中心部、北浜に実在した江戸時代の豪商である。
淀屋の歴史は古く、初代 淀屋常安(よどや じょうあん)に遡る。
1500年代後半の人物で、山城国岡本荘(現:京都府宇治市)の武家の出身であったが、後に商人を志すようになり、出身地の岡本に因んで岡本三郎右衛門と名乗った。
商魂たくましい三郎右衛門は、京都、伏見城の土木工事を受注すると、敷地内に散在する巨石の撤去を他業者の10分の1と言う安値で引き受けてしまう。
しかし、そこには秘策があった。巨石を運び出すのでは無く、その場に深く掘った穴に石を滑り落として埋めてしまうという奇策により、巨石撤去?の大仕事を見事に成功させる。
この時点で既に卓越したビジネスセンスが窺える。
その後も、大阪の中之島一帯の開発工事を手掛けるほか、材木商を営むなどして莫大な利益を得たと言う。
1614年に迎えた江戸幕府と豊臣家との戦い「大坂冬の陣」では、徳川家の支持に回り、陣屋(屋敷)や兵士達の食事などを提供した。
この功績が認められた三郎右衛門は、徳川家より故郷の山城国に領地を拝領すると共に苗字帯刀が許された。
と同時に合戦が終了した戦場の後片付けを申し出ると、戦死した兵士建の供養塔を立てる一方で散在した大量の武具を販売する事でも大きな利益を得たと言う。
その後、淀屋は二代目の淀屋言當(よどや げんとう)、三代目の箇斎(かさい)、四代目の重當(じゅうとう)へと受け継がれ、最後となる五代目の淀屋廣當(こうとう)通称、「辰五郎」は、莫大な財産と共に家督を引き継いだ。
時代は、1700年代の初頭、辰五郎が14歳の頃である。
現在の価値にして約200兆円とも言われる超莫大な資産を受け継いだ辰五郎は、正に天下無双の大金持ち少年であった。
唸るほど金が有り余っていた辰五郎は、日頃から贅沢の限りを尽くし、夏場になると「夏座敷」と称して部屋の天井をガラス張りにし、そこに水を浸して金魚を泳がせていたと言う。
また、自宅前の川を遠回りして渡るのが邪魔くさいとの理由から自費で自宅前に橋を渡した。

淀屋橋(重要文化財指定)大阪市北区中之島1丁目~同市中央区北浜3丁目
橋長53.5m、幅員36.5m
現在の大阪市役所前に架かる「淀屋橋」の由来である。
その無尽蔵とも言える資金力の背景には、天才的な商才を発揮した四代目(げんとう)により創設された全国の米相場を左右する米市の利権があった。
また、他人に金を貸すのが大好きだったと言われる辰五郎は、諸大名に対して莫大な融資を行っていた。

貸しても貸しても無くならない、貸してあげれば有難うと感謝される。なんだか解るような気もする。
200兆円と言えば日本の国家予算の2倍に相当する金額であり、仮に100年で使おうとした場合、毎年2兆円、毎日55億円づつ使う必要があり、帝愛グループの兵藤会長でも無理がありそうだ。
現代の大富豪として知られるテスラのイーロン・マスク氏やAmazonのべゾス氏ですら総資産は、20兆円ほどである。
その10倍にも相当する凄い金持ちが、かつてこの日本に存在した事にロマンさえ感じてしまう。
同じ日本人として誇らしくも思うので、親しみを込めて「辰っちゃん」と呼ぶ事にしよう。
22歳になった辰っちゃんは、江戸幕府から「町人の分を超えた贅沢な暮らしが目に余る」との言いがかりを付けられ、数百万両の金員に加えて大阪北浜の土地や各地の別邸、船舶や美術品など殆どの財産が没収される闕所処分(けっしょ)が命じられた。
闕所(けっしょ)とは、財産没収刑であり大阪所払い(他府県に追いやられる)を意味する。
一説には、100兆円にも上る借財を重ねていた諸大名らの策謀によって陥れられたとも言われるが定かではない。
まぁ早い話が幕府による恐喝である。
いかに大金持ちの辰っちゃんでも、強大な軍隊を率いている徳川には勝てない。力こそ正義なのだ。
だが、歴代の淀屋の党首達は早い段階から闕所処分の匂いを感じとり、頭の切れる四代目(じゅうとう)は、闕所の事前に淀屋の番頭(牧田仁右衛門)に暖簾分けする事で一部の資産と利権をオフショア(国外退避)に置いていた。
辰っちゃんは、江戸幕府によるカツアゲで敢え無く撃沈してしまったが、その傍流として伯耆国(ほうきのくに)現在の鳥取県に逃れていた牧田家に引き継がれた淀屋の血脈は、牧田淀屋と改称され生き残っていた。

その後、牧田淀屋の三代目、五郎右衛門の時代になって大阪の地へと舞い戻り、五郎右衛門は淀屋清兵衛と名乗り、大坂淀屋と商号を改めると再び大阪の地に淀屋を再興した。
さらに時代は流れて1800年代中盤、明治の足音が聞こえ始めると五代目淀屋清兵衛は、倒幕運動に奔走するなど数々の功労を収めたのち、自らの財産を朝廷に寄付すると共に淀屋300有余年の歴史に幕を下ろした。
幕末最強の剣士 河上彦斎

河上 彦斎
かわかみ げんさい
1834-1872
~幕末の人斬り伝~
優しくも非情なる剣士
幕末の四大人斬りに数えられ、佐久間象山を斬り殺した事で知られている。
また、漫画「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心のモデルであるとされ、穏やかな見た目に反して激烈な気性を持つ意外性から有名な人斬りの中でも異色の存在感を放つ存在として知られている。
尊王攘夷派の熊本藩士であり、明治維新後も攘夷(じょうい)思想を強く持ち続けていた為、新政府から危険人物と目され斬首刑に処せられた。享年37歳。
1834年、肥後細川家熊本藩の下級藩士の家に生まれる。
16歳頃になると藩主邸の茶坊主(雑用係)として登用され、主君に仕える中で皇学や儒学、兵法術について学び、20代後半頃には幹部職へと昇進した。
身の丈は5尺前後(150㎝程度)と小柄であり、華奢な体躯に色白で淡泊な顔立ちであった事から、一見すると女性の様にも見えたと言う。
倒幕派、佐幕派、諸士入り乱れる動乱の幕末期において、岡田以蔵や中村半次郎らを含む四大人斬りの中でも特に恐れられた存在であった。
剣術は、我流(自己流)であったとされているが、一説には伯耆流(ほうきりゅう)居合術を学んでいたとも言われている。
逆袈裟(ぎゃくけさ)に斬り上げる居合の達人であり、左ひざが地面に着くほど大きく右足を踏み込ながら抜刀し、下から上へと斬り上げる特殊な刀法を用いたとされる。
熊本藩士として強固な尊王攘夷思想(天皇中心の排外主義)に身を固めていた彦斎(げんさい)は、20代後半の頃に池田屋事件で新撰組に討たれた同藩の朋友「宮部鼎蔵」の仇を打つべく、幕末の京都へと赴いた。
上京後に同じく尊王攘夷を掲げる長州藩の桂小五郎らとも親しくなり、後に彼ら倒幕派の政策にも参加する。

普段は礼儀正しく温和な人柄であったと言うが、意に沿わなければ平気で人を斬り殺す残忍性を併せ持ち、彦斎に睨まれたら逃げられないとの意味から「蝮蛇(ヒラクチ)の彦斎」の呼び名で人々から恐れられたと言う。
豪傑で鳴らした新撰組局長の近藤勇でさえ、たまたま京の町中で彦斎と出くわした際には、うつむいて目を逸らしたと伝えられている。
史実としては、佐久間象山殺害のみが注目されるが、日頃から頻繁に人を斬り殺しており、簡単に人命を奪う事を批判した勝海舟に対して「あなた方も畑の茄子や胡瓜は、頃合いを見てもぎ取るでしょう。」それと同じであり、話しても通じぬなら適宜、もぎ取るのが現実的であるとの意を述べたと言う。
また、ある酒席で仲間から横暴な役人の噂話を聞いていた彦斎は、黙って頷いてはいたが、唐突に立ち上がって店を出て行ったかと思うと暫くして血だらけになったその役人の首を抱えて戻り、また何事も無かったかの様に仲間たちと飲み直したという逸話が残されている。
彦斎が使用した刀は、肥後国(熊本県)の名工として名高い同田貫宗廣(どうだぬき むねひろ)だと言われているが、実際のところは定かではない。

同田貫とは、1500年代より続く肥後国を本拠とした刀工集団であり、初代藩主の加藤清正お抱えの刀工であった正国を始め、その流れを組む刀工の総称である。
刀身は、反りが浅く身幅が広く、肉厚で豪壮な体配を成しており、実践的な剛刀として知られている。
確かに写真の彦斎が帯刀している刀のフォルムも反りが浅い直刀に近い形状が見受けられる。
この様な刀を片手だけで抜刀して斬り上げていたとするなら、見かけに寄らず相当な腕力の持ち主だったのかも知れない。
多数の人間を躊躇なく斬り殺していたとされる彦斎であるが、その内面は人情に厚く、仲間思いで特に妻子にはとても優しかったと言う。