伝説のギャングスタ- ラッキ- ・ルチアーノ

ラッキー ・ ルチアーノ
1897-1962
~シチリアの晩祷~
ゴッド・ファーザーの眼差し
本名は、サルヴァトーレ・ルカーニアと言うが、サルヴァトーレの名を"サリーちゃん"と揶揄われた事からチャールズ・ルチアーノと名乗るようになった。
若き日に対立組織に捕まり、凄惨な拷問を受けて生死の挟間を彷徨ったが、奇跡的な生還を果たしたことでチャールズ・ラッキー・ルチアーノと呼ばれるようになる。
顔面を刃物で切り刻まれるという凄惨な拷問により、右瞼が垂れ下がるなど多くの傷跡を残したが、後年、ルチアーノに面会した者によると写真で見るよりも遥かにハンサムで気品があり、洗練された身のこなしと知性に富んだ言動から強烈なカリスマ性が感じられたと語っている。
イタリアンマフィア四大組織の一角を成すコーサ・ノストラの最高幹部であり、古くから続くマフィア組織の伝統に縛られる事なく、ビジネス主体のクライムシンジケートとして再編した組織改革者であり、いわゆるボスの中のボスと称されるゴッド・ファーザーに相当する人物であった。
コーサ・ノストラとは、古代シチリア語で「我々のもの」との意味を持ち、主にアメリカにおけるイタリア系犯罪組織が集結した連合組織体である。
この連合組織体の上部には、コミッションと呼ばれる中央幹部会が組織され、参画組織のトップ達がコミッションの構成員となる事で合議制に基づいた裁決を下す。
マフィアの世界では、古くからボス達が集まって会合を開く習慣があったが、ルチアーノは、これをより先鋭化させた近代的な組織へと昇華させた。
カステランマレーゼ戦争に代表される数々の抗争を生き抜いた経験から、マフィア同士の抗争が不毛な悲劇しか生まず、ビジネスの大きな支障となる事に危惧したルチアーノは、5つの主要組織(五大ファミリー)から成るコミッションを組成し、その筆頭格となる事でアメリカ裏社会の掌握に成功した。
マフィアの歴史を振り返ると17世紀頃に遡り、元来は、外敵の侵略から農地を守る為に武装した農地管理人(ガベロット)が起源であるとされている。彼ら武装管理人は、領主に雇われて農場を守る一方で小作人農家を支配下に置き、利用する立場にあった。

古代シチリア ガベロットの肖像
マフィア発祥の地とされるシチリア島も、数世紀に渡り外国から支配を受けた歴史がある。
古代ギリシャ時代は、領土紛争の対象地となり、ローマ時代には、ローマの属州となり農作物の生産地として支配され、中世に入ると東ローマ戦争を経てシチリア王国を樹立させるも1200年代に入るとスペイン王国による支配が始まり、その後もフランス、オーストリアの王族達による支配と搾取の歴史が続いた。
そうして18世紀後期に入り、ようやくイタリア王国に統合されるに至るが、長らく外国の支配下にあった影響で国内に入り乱れた様々な思想が国政に介入し、利権の争奪を繰り返す不安定な政権となっていた。
これに不信感を抱いた地主や領民達は、時の政権を信用せず、自力救済によって治安と財産を守るべく結社したのが、近代マフィアの始まりと言われている。
“マフィア”の語源には諸説あり、かつて支配を受けた国々に対する憎悪の言葉に由来する説、或いは、古代ギリシャ語で「名誉ある男」を意味する“マフィオーソ”などが知られている。
名誉ある市民、名誉ある社会などの思想は、古くからシチリア島に来歴する土着の気風であり、またマフィアの行動原理の一つが「名誉」である事からマフィオーソ説が有力視されているが定説ではない。
![]() シチリア最初のゴッド・ファーザー |
組織内で何らかの主張や行動を行う際には、必ずコンシリエーレを経由する必要があり、個別の関係性が生まれないよう制御する事で全体の動向が掌握できるよう統制されている。
全てにおいて現実主義かつ実力主義を貫く彼らの社会では、自分に都合の良い曖昧な憶測や思い込みが死に直結する事も多い為、他者に疑念を生じさせる行動を慎み、裏表が無く、一貫した行動に見える事が重要となる。
また、組織内の絶対的なルールとして、血の掟「オメルタ」と呼ばれる規約がある。
全10条からなるこの規約に反した者は、死を以て償う事とされている。組織に加入する際は、手のひらにマリア像など小さな聖人の模型を紙に包んで乗せ、オメルタの条文を朗唱すると共に火を付ける。
掌上で燃える聖人の模型を見つめながら、もし、オメルタに違背すれば、その聖人と同様に炎に焼かれるという誓いのイニシエーションである。
組織に対する絶対的な服従と忠誠心、そして“名誉”を重んじる傾向が色濃く表れたオメルタの規約には、窃盗を働いてはいけない、妻を大事にする等の基本的な倫理に基づくことの他、第三者が同席する場合を除いて他組織の構成員と1人で面会してはならないとの条項がある。

裏切りはおろか、その手前の疑念を生じさせる行為自体にも厳罰を処すという極端な現実主義である。
常に一寸先が闇である彼らの世界観では、性悪説を前提とする思考が生き延びる為の最善策である事が窺える。
オメルタの規約により抑制された組織体制は、マフィアと言うよりも秘密結社に近いという指摘もある。
![]() |
ラッキー・ルチアーノは、1897年、シチリア島パレルモ県の農村で貧しい労働者家庭に生まれた。
生活に苦しむ家族は、アメリカに行けばシチリア島の年収を1日で稼げるとの甘言に魅せられ、一家全員でニューヨークへと移住する。しかし、行き着いた先には、噂話には程遠い、不衛生で極貧極まりない地獄の生活が待っていた。
スラム街で悪夢の様な日々を送る少年ルチアーノは、次第に悪の道へと足を踏み入れて行く。

イタリア系の少年ギャング団に加入すると同じスラム街で暗躍するユダヤ系やアイルランド系移民の少年ギャング達との親交を深めた。
![]() シカゴのボス アル・カポネ | ![]() 最高幹部で親友のランスキー |
後年、シカゴのボスに君臨するアル・カポネを始め、生涯を共にするマイヤー・ランスキー、その弟分で後に砂漠のど真ん中にラスベガスを創り上げるベンジャミン・シーゲルらとも、この頃に知り合っていた。
![]() ラスベガスを創った男 | ![]() ラスベガス初のカジノホテル |
少年時代に出会った彼らが、後にアメリカ全土を席巻するほどの強大な犯罪組織コーサ・ノストラの最高幹部にまで上り詰めるサクセスストーリーは、多くの小説や映画の題材となり、後年、広く世間に知れ渡る事となる。
イタリアンマフィアは、大きく分けると四大組織に分類されるという。
イタリア南部の都市ナポリを拠点とするカモッラ、同じく南部カラブリア州を拠点とするンドランゲタ、南部プーリア州を拠点とするサクラ・コローナ・ウニータ、そしてアメリカニューヨーク州を拠点とするコーサ・ノストラである。
コーサ・ノストラ・シチリアーナとも呼称される事から、シチリア島に系譜を持つイタリア系マフィア組織であるとされているが、ルチアーノの親友で最高幹部であるランスキーやベンジャミン・シーゲルは、元々は、ユダヤ系のギャングであった。
1900年代初頭のニューヨークのスラム街では、ドイツ系やイタリア系を始め、ユダヤ系、アイルランド系といった移民達が多く暮らす居留区となっていた事もあり、ルチアーノ達の世代では、古いマフィア社会が持つ閉鎖的な感情を払拭し、現実的でグローバルな組織形成が行われた。
コーサ・ノストラの存在は、1960年代に入るまでアメリカ当局でさえ認識しておらず、血の掟オメルタを破って裁判の公聴会で証言したジョゼフ・バラキ、トンマーゾ・ブシェッタ、モンタナ・ジョー(衛藤健)等の構成員の証言により初めて明かされることとなった。
ブシェッタは、当初、コーサ・ノストラに協力する人物として、イタリアの政治家ジュリオ・アンドレオッティの名を挙げていたが、その後、多数の関係者に関する証言を断念したと言う。
それは、その者達の名前を聞いても誰も信じないし、自分が気狂い扱いされるだけだからと語っている。
![]() 元イタリア首相 |
証言台を降りた彼らは、組織の報復から逃れる為にアメリカ当局が用意した証人保護プログラムによって戸籍や顔を変え、終生、警察の保護下で暮らしたという。
元々は、外敵から身を守る為に組織されたマフィアが、1930年代のアメリカでは、莫大な財力を背景に闇の権力を掌握し、警察権力ですら及ばない強大な組織へと変貌を遂げた。
10代の頃より、無類の商才を発揮していたというルチアーノは、成長するに従って暗黒街でもメキメキと頭角を現し、30代前半にして年間2000億円以上を稼ぎ出す超大物になっていた。
マンハッタンの高級ホテル、ウォルドルフ・アストリアを住居として政界、財界、芸能界など多数の著名人達と親交を持ち、彼らに多額の資金提供を行う闇の投資家として強大な権力を有していた。
![]() |
毎晩の様に美女達を引き連れて夜の社交場に現れる姿は、栄華を極めた青年実業家さながらの華やかさがあったと言う。
後年、ある社交場にて、裏で献金していた政治家が笑みを浮かべながら次から次へと握手を求めにやって来た時は、経済力の凄まじさを思い知ったと語っている。
![]() 元ニューヨーク州知事 トマス・デューイ |
そんな絶頂期にあったルチアーノを“公共の敵”と定め、検挙に燃える野心家の検事、トマス・デューイにより、ルチアノーの犯罪が、次々と白日の下に晒される事となった。
デューイの執拗な追求により、麻薬や殺人など多数の犯罪を認めざるを得なかったルチアーノであるが、強制売春だけは神に誓ってやっていないと証言した。
しかし、当局は、ことさら名誉を重んじるマフィアのイメージダウンを図ることで、世論を味方に付けたいとの思惑があった。
多数の証言をもとに禁固50年の有罪判決を受けたルチアーノは、刑務所に下獄する身となる。
刑務所では、ラジオを聞いて新聞を読み、労働のない快適な生活を送りながら外部に指示を出していたルチアーノであったが、もう生きて出獄する事は無いと思われていた。
しかし1941年、第二次世界大戦を切欠に転機が訪れる。

港湾におけるスパイ監視などの諜報戦には、ニューヨーク港を支配下に置くマフィアの力が必要であると考えた軍部は、収監中のルチアーノのもとを訪れ、協力を要請した。
これをチャンスと見たルチアーノは、その対価として刑期短縮などの司法取引を持ち掛ける。軍部が要求に応じると直ぐさま配下に命令を下し、諜報戦の裏方を担う事となった。
そして、終戦を迎えた1945年、この功績が認められたルチアーノは、50年の刑期が10年に短縮され、晴れて釈放される身となる。
だが、米国市民権の復権までには至らず、イタリアへの強制送還が条件となった。
1946年2月、豪華客船の船内に最高幹部らが集まり、ルチアーノの盛大な送別会が開催された。
ルチアーノを乗せた客船は、永年の仲間達に見送られながらニューヨークを出港し、生まれ故郷のシチリア島パレルモへと向かった。
図らずも、帰郷を果たしたルチアーノは、その後もイタリア国内外を転々としながらマフィア組織の統制と各種の事業に精力を注いだ。
スカラ座のバレリーナを愛人とし、毎日のように趣味の競馬観戦と高級ホテルで暮らす優美な生活を送りながら、世界中に張り巡らされた麻薬の生産拠点及び搬送ルートを掌握する麻薬王として君臨する。
1957年、かねてからのルチアーノの呼びかけが実を結び、シチリア島とアメリカを拠点とする主要なマフィア組織のトップが一同に集まるマフィアトップ会議が開催された。
![]() |
シチリア島パレルモの高級ホテル「パルメ」にて4日間に渡り行われたこの会議は、それまでフランスマフィアが独占していたマルセイユ経由でアメリカに運ばれる麻薬ルート「フレンチ・コネクション」に対抗するべく、シチリアからアメリカ経由で欧州各地に麻薬を供給する新ルートの確立が裁決された。
その後の1962年、極貧から立ち上がり、幾多の死線を乗り超えながら巨大組織を作り上げた希代のギャングスターに最後の時が訪れた。

自身の半生を描く自伝映画の製作者を空港まで出迎えに行く途中に倒れ、64年の生涯を閉じた。
コーサ・ノストラは、オメルタに反するとしてルチアーノの映画製作に猛反対していたと言われるが、後年、多数のマフィア映画が製作され大ヒットを記録した事は周知の通りである。
送還当初は、直ぐにアメリカに帰れると考えていたルチアーノであったが、生きて再びアメリカの地を踏む事は無かった。
伝説のギャングスターは、今もニューヨークセントジョーンズ墓地に眠っている。

ルチアーノの墓標
ニューヨーク/セントジョーンズ墓地
初代アメリカ皇帝 ジョシュア ・ ノートン

ジョシュア・ノートン
1818-1880
~アメリカ皇帝の物語
人の真価はその行動にあり
アメリカ合衆国の帝位請求者にしてメキシコの庇護者。
実在したアメリカ合衆国の皇帝であるが、アメリカには皇位も王位も存在しない。
しかし、彼は紛れもなく皇帝であった。
イギリスはロンドン、デプトフォード・ケンティシュの町で裕福なユダヤ人家庭に生まれたノートンは、幼い頃に家族と共に南アフリカ共和国へと移住した。
母親は裕福なユダヤ人商家の娘であり、資産家の両親のもと南アフリカの地で何不住の無い生活を送っていた。
1849年、30歳になったノートンは、単独でアメリカ西海岸サンフランシスコへと移住する。
父親の遺産を元手に始めた数々の投資事業に成功し、多額の資産を持つ若き青年実業家として社会に躍り出た。
しかし、ある時、大規模な米の投機事業に失敗し、全財産を失うと共に自らも正気を失ったと言う。
破産申請を行い、邸宅を出たきり行方不明となったノートンは、その1年後「自発的亡命」が終了したとの理由により、再びサンフランシスコの町に姿を現した。
世俗的な思想を捨て、マインドの更新が完了したノートンは、アメリカの共和制や連邦主義に著しい欠点がある事を指摘し、絶対君主制の導入による理想的な社会を実現するべく、自ら帝位請求者として名乗りを上げた。
41歳になっていたノートンは、サンフランシスコの各新聞社に手紙を送り、我こそが、「アメリカ合衆国初代皇帝」である事を宣言した。
突然の即位宣言をジョークとして捉えた新聞社が面白半分に掲載した記事により、合衆国皇帝ノートン1世の存在が世間に知られる事となった。

新聞社宛に投書と言う形で皇帝勅令(ちょくれい)を発したノートンは、アメリカが絶対君主制に移行した事実と以降は皇帝の親政が開始される為、合衆国議会は即時に解散せよとの命令を下した。
しかし、勅令を無視する議会に業を煮やしたノートンは、反逆罪を適用した上で陸軍司令官ウィンフィールド・スコット少将に対して、直ちに議会を制圧するよう最重要の命令を発するが、陸軍も動かなかった。
それならばと翌年には、連邦制の廃止を命じる勅令を発したが、相変わらず議会と軍部には、無視され続けた。
なかなか従わない議会主義者達をなし崩し的に容認する形にはなったが、ノートンは皇帝としての活動を開始する。
一見、世迷い事にしか思えない皇帝勅令であったが、その中身は、鋭い観察眼からなる高尚な論理で武装されており、社会発展に必要な合理的で先見性に富んだアイデアで溢れていた。
しかし、国連の設立や海峡を渡すベイブリッジの建設などは、当時としては極めて先鋭的な発想であり、時代が追い付くまでには、まだ多くの時間が必要であった。
その一方で、身近な生活面にも目を光らせ、街路灯の増設と照度を高める命令を発すると犯罪率が低下し、犬の散歩時の糞尿の後始末を怠った者には、罰金刑を課すなど街の衛生面にも気を遣った。
更に宗教間紛争の禁止、奴隷の解放を命じるなど、リンカーンよりも早い時期から人権や社会問題に取り組んでいた。
すると次第に彼を信奉する者達が増え始め、社会的な“皇帝”として認知される様になった。
陸軍将校より寄贈された金モール付の本物の軍服を身に纏い、シルクハットに羽飾り、手にはステッキを携えたノートンは、彼なりに街の様子や彼の臣民(市民)達を気に掛け、公共施設の整備状況や人々の暮らしぶりなどを偵察して廻った。

不備があれば、その場での指導に加え、皇帝勅令として新聞社に報じさせる事で社会の健全な発展に力を注いだ。
そんなある日、彼の精神状態を危惧した警察官から逮捕される事態が起こる。
しかし、この逮捕を不服としたのは彼自身では無く彼が日頃から気に掛けていた臣民(市民)達と新聞社であった。
世間からの猛抗議を受けた警察署長は、彼を即座に釈放し、彼もまた皇帝を誤認逮捕した警察官に特赦を与えた。
この事件を切欠に街で皇帝に出会った警官達は、必ず彼に敬礼する様になったと言う。
議会はさて置き、社会と一般大衆は、彼を当然に皇帝と認め、最大の敬意を払うようになっていた。
ノートンは、金銭を殆ど所持していなかったが、しばしば一流レストランで食事をとり、彼が訪れた店は「合衆国皇帝陛下御用達」の金看板を店前に飾る事が許された。
また、とある鉄道会社が食堂車で食事をしたノートンに料金を請求したところ、世間からの強いバッシングを受け、慌てて終身無料のゴールドパスを献上する一幕もあった。
社会的な皇帝として認知されていたノートンは、1870年の国勢調査の統計表にも、「職業=皇帝」と記されていたと言う。
サンフランシスコ市からも、その権威が認められていたノートンは、しばしば少額の債務を弁済する目的で独自の紙幣を発行した。
ノートンの紙幣は、地域社会では完全に通貨として承認されていたと言う。

かくして“アメリカ皇帝”として広く世間に浸透するうちに本物の皇帝なんじゃないのかとの噂も流れ始めた。
ナポレオンの血を引く皇位継承者説、実際に文通していたヴィクトリア女王との関係、本当は大富豪だが人々に寄り添う為に身をやつして仮の姿を演じているなど噂が独り歩きするうちに本物の皇帝と誤認する者まで現れ始めた。
自ら街頭視察を行い、勅令を実行した者には感謝状を贈り、次々と難問を解決してくれるノートンの姿に世間は本物以上の皇帝を見たのかも知れない。
そして、1881年1月、突然に崩御の時が訪れた。
科学アカデミーの講義に向かう道中で倒れ、そのまま息を引き取った。享年62歳。

翌日の新聞の一面は、「皇帝崩御」の見出しに始まり、彼に対する深い敬意と感謝の言葉で埋め尽くされていた。
崩御の知らせは、広く他州にも報じられ、ニューヨークタイムズは「誰の命も奪わず、略奪せず、追放せず、彼と同じ地位にあって彼と同じ事を成した者はいない」との追悼記事を掲載した。
経済的には、極貧状態にあった彼の遺品は、現金8ドルとヴィクトリア女王と交わした書簡、全く無価値の株券だけであったと言う。
遺産だけでは貧民墓地への埋葬しかできない為、地元のビジネスクラブが資金を募り、最終的には厳粛な大喪で見送られる事となった。
葬儀の参列者は3万人を超え、老若男女、犯罪者から聖人まで、経済の格差に分け隔て無く全ての人々が皇帝との別れを惜しんだ。
墓石には、「ノートン1世 合衆国皇帝 メキシコの庇護者」と刻まれた。

人の真価は、その行動に表れると言うが、ノートンの生涯は、経済力がモノを言う実存主義の社会にあって金銭を持たずして謳歌した。
金銭が最も重要である事は確かだが、金銭では成し得ないものが存在する事もまた事実である。
たとえ無一文であったとしても、社会から認められ受入れられる生き方が出来たなら、それはそれで勝ち組と言えるのかも知れない。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
天使の笑顔に阿修羅の心 大西 政寛

大西 政寛
おおにし まさひろ
1923-1950
‶最恐の極道″
血塗られた悪魔のキューピー伝説
一見すると可愛らしい顔立で、笑うとまた何とも言えない愛嬌があったと言う「悪魔のキューピー」こと大西政寛は、その穏やかな外見に反して激高すると夜叉の如く恐ろしい形相へと変貌し、敵対者を必ずと言って良いほど血の海に沈めた事から、戦前戦後のヤクザ史上でも最も恐れられたヤクザの一人である。
目撃者の証言によれば、怒気が上がった途端にそれまでの愛くるしい笑顔からサッと血の気が引き、青ざめた般若の様なその容貌は、痙攣した眦(まなじり)が吊り上がり、眉間から額にかけて深く長い縦ジワが幾本も刻まれていたと言う。
この世のものとは思えぬ恐ろしい形相を目の当たりにした者は、気付いた時には手遅れであり、そうなってしまうと必ず血しぶきを上げてのた打つ結果となった。
敵対する者達も荒くれ者であり、大なり小なり修羅場を潜った強者達であったが、大西の突出した恐ろしさを前に金縛りの如く硬直し、次に気が付いた時には、体から分断された手足が転がっているのを見るか或いは、地面に横たわる自分の姿を少し高い位置から眺める事となった。
大正12年(1923年)、広島県賀茂郡(現在の呉市)に生まれた大西は、幼少期に両親が離婚し、その後、直ぐに父親が他界した。
父方の祖母宅に身を寄せるが後に祖母も他界してしまい、最終的には、別の場所で再婚していた母親に引き取られた。
幼少期から激高すると手が付けられない狂暴な性質であった大西は、近所の子供や大人達からも奇異の目で見られ、モルヒネ中毒で他界した実父の事や複雑な家庭環境をなじられ、イジメの対象となっていた。
幼い大西は、大人が相手でも理不尽なイジメに立ち向かい、その都度、狂暴な性格に磨きがかけられた。
勉強は得意では無かったが、絵には天賦の才能を見せ、数々の絵画コンクールで優勝又は入賞を果たしたと言う。
尋常小学校を卒業した大西は、昭和11年(1936年)小学校高等科1年(中学校)に進学する。
この頃すでに激烈な性格が完成していた大西は、同年、絵が得意な事を面白半分にペンキ屋と揶揄した教師の頭を文鎮で叩きのめし、即日、退学処分を受けた。
その後、義父の紹介により呉市の博徒組織が運営する鉄鋼関係の職人となるが、数年後、別の鉄鋼関係の若衆らと喧嘩になり、組織同士の抗争へと発展した。
後日、両組織の代表者が市内の料亭で和解に向けた話し合いをしている最中、大西は拳銃を携えて乱入し、危うく流血沙汰となりかけたが、双方が和解を望んでいる事を理解すると拳銃を納めた。
これを切欠に他組織との交流を広げた大西は、同じ呉市内に本拠を置く有数の博徒組織の親分達と親密な関係となり、その縁から義兄弟の盃を交わした。
昭和18年、徴兵令を受けて中国大陸戦線へと派兵されていた大西は、3年後の昭和21年(1946年)中国から無事に帰還した。
幅員後まもなく、第一次広島抗争と呼ばれるヤクザ組織の大規模な抗争が勃発する。
第二次、第三次へと続いたこの抗争は、他府県の組織が介入するほど大規模な抗争へと発展し、戦後のヤクザ史上でも特に凄惨を極めた抗争事件として知られている。
その全容は、後に深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」として描かれ、空前の大ヒットを記録した。

大西は、その初期の中心人物として、高密度に凝縮された短くも激動の人生を駆け抜けて行く。
従軍先では、捕虜の首を幾度となく日本刀で跳ね飛ばしたと言う大西は、以前にも増して人命を軽視する傾向が進んでいた。
自分が嫌な役を引き受ける事で他者が助かるとの思いから率先して行っていたと言うが、その時の心境について「斬られる者よりも斬る者の方が何倍も辛い」との言葉を残している。
だからこそ、せめて捕虜が苦しまない様にと一撃で斬首する事に拘っていたと言う。

それらの戦争体験を経て更なる修羅の心が極まった大西は、敵対組織との抗争でも、日本刀を用いて幾本もの腕を切り落とした。
そして、競馬利権の問題から騎手を滅多打ちにし、或いは地元の有力者からの依頼で傍若無人に闊歩する町の不良連中を事あるごとに叩きのめして廻った。
物腰も柔らかく優しそうな外見の大西を見くびった者達は、ことごとく血の海へと沈んで行った。
地元の有力組織で若頭という要職に就いていた大西は、その後も多数の抗争事件で暴れまわり、1947年5月、ついに警察に逮捕されるところとなった。
何よりも束縛を嫌い自由を求める大西は、送られた呉市の拘置所の中で脱出する為の奇抜なアイデアを思い付く。
それは自ら体調不良になる事で執行停止処分を受け、正規のルートで脱出すると言う荒業であった。
拘置所内にある理髪室から密かに剃刀を持ち出した大西は、自らの腹部を横一文字に20㎝ほど掻っ捌き、内臓がこぼれ出るほどの重症を負った。
狙い通り執行停止処分を受けた大西は、腹部から飛び出た内臓を抱えながら外部の病院へと緊急搬送される。
病院で手術を受け、後は治療に専念し、回復した頃を見計らって逃走するという筋書きであった。
後日、自分の内臓を抱えて歩く心境について、「腰が抜けるほど重たかった」と述べている。
他人に対して苛烈な暴力を振るう大西であるが、自分自身もその対象から免れる事は出来なかった。
その後、病院からの脱出に成功した大西は、地元へと舞い戻り、再び抗争の中心に身を投じて行く。
敵味方が入り乱れ、血て血を洗う激しい抗争が展開された当時の呉市内は、さながら修羅界の如く様相を呈していた。
そんなある日、大西は妻と歩いているところを数人の不良グループに囲まれてしまう。
不良達は、大西の弱そうな外見に鷹を括り、妻にちょっかいを出すなど悪態を付き始めた。
この時、多数の事件で警察から追われる身となっていた大西は、穏便にやり過ごそうと心に決め、低姿勢で対応していた。
しかし、男の一人が大西だと名乗り、更なる悪態をつき始めた時、自分の名をかたる無礼者を前に大西の笑顔は阿修羅へと変貌した。
その姿を見た不良達は震え上がって退散するが、「ワシの名を騙るなど許せん」と息巻く大西は、後日、男達の居場所を突き止めると愛用のモーゼル32口径を持って乗り込み、自分の名を騙った男を問答無用で射殺した。

モーゼルHSc 32口径 7.65㎜弾 装弾9発
射殺された男は、偶然にも実際に大西姓であり、その事がこの両名の不幸の始まりであった。
この事件を切欠にいよいよ業を煮やした警察署による大西逮捕の大捜査網が敷かれる事となった。
1950年1月、潜伏先に潜んでいた大西は、ついに数十名の警官隊に包囲される。
炬燵(こたつ)の中に潜んでその時を待ち構えていた大西は、踏み込んできた警察官と銃撃戦になり、数名を射殺する。
しかし、次第に追い詰めら屋根づたいに逃れようとしたところを複数の警官から一斉射撃を受け、その場に昏倒した。
享年27歳。
古今、恐ろしいと評されたヤクザ渡世人や剣豪、武術家など実に様々な伝説が残されてはいるが、大西ほど外見と中身のギャップが乖離していると言われる者も珍しい。
昆虫界や植物界でも、毒を持つ者は奇抜な色彩や形状により、その危険性を外部に知らせる事で自らの命を守ろうとするものである。
自由奔放に生き、保身の考えを持たず、純粋過ぎたが故に自らの人生に翻弄され続けた修羅の物語は、今なお伝説の極道として語り草になっている。