最強の努力家 マッスル北村

マッスル北村
1960-2000
~アジア最大のバルク~
伝説のボディビルダー
アジア人としては規格外の肉体を持ち、近代の日本ボディビルディング界では、一際異才を放った存在として知られている。
その壮絶なるトレーニングと共に勉学にも励んだ人生は、常人では計り知れない超絶的な努力の上に成り立っていた。
アジア選手権で優勝、太平洋世界選手権では総合優勝を果たすなど、数多くの権威あるコンテストにおいて優勝又は入賞の実績を持つ一方で、二度に渡って最難関大学への入学を果たすなど、エリート中のエリートと言って差し支えのない頭脳も併せ持っていた。
幼少の頃より、「人は何の為に生まれてくるのか。生まれてきたからには何かの目標に向かって自分の限界まで挑戦したい。」とのアイデンティティを追求する信念を持ち、肉体や精神を鍛え抜く事で自らの人生が切り開けるとの思いがあったと言う。
その思いは成長と共に大きく膨らみ続け、「自分には時間がない」と口癖のように語りながら、何事にも徹底して追及する性分であったと言う。
小中高の一貫校として都内でもトップクラスの進学校に通学していた北村は、中学生頃になると、大学には進学せずに競輪選手になりたいとの思いを抱く様になり、独自の猛練習に励んでいた。
峠道などの厳しい難所を含む200kmにも及ぶ道程を自転車で走破する計画を立てると、所持金1,000円と1ℓの牛乳パック1本をリュックに入れ、帰宅時間から逆算した前日の深夜に自宅を出発したという。
常に限界に挑む習癖があると語る北村は、スタートからゴールまでノンストップで走り続けることを前提に必要時間を算出していた為、高低差の激しい山道であるにも関わらず、飲まず食わずの16時間ぶっ通しでペダルを漕ぎ続けた。
極限状態でも休まず走り続けていた為にゴール目前にして極度の脱水症状に陥る。
命の危険を感じた北村は、咄嗟にリュックから牛乳を取り出すと一気に飲み干したと言う。
しかし、夏場の常温で16時間を経過した牛乳は完全に腐っていた。直後から身体に異変が起こり始め、激痛と共に意識が遠のき、その場に昏倒してしまった。
次に目が覚めると病院のベッドで寝ており、心配そうに覗き込む家族の顔が見えたと言う。この時の事を「今思えば、本当に危ない状態だったのね」と後年、ニコニコしながら他人事の様に語る氏の姿は印象的である。
その後、競輪選手達と共に練習する機会に恵まれたが、選手達の走行技術の高さとスタミナに脱帽し、自分には超えられない壁を感じた事で競輪選手への道を断念する。
その一方で勉学に対しても超絶的な努力で挑んでいた北村は、初の大学入試において防衛医科大学及び早稲田大学理工学部に現役合格を果たした。
しかし、東京大学に目標を定めて浪人生活に入った北村は、ある時、予備校に向かう道中で立ち寄った古本屋でボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」を目にする。
東大を受験する為の予備校生活とはいえ、今一つ将来のビジョンが浮かばず悶々としていた北村の脳裡に劇画の主人公"矢吹ジョー"が命を懸けて完全燃焼する姿が鮮烈に焼き付いた。
まだ若く血気盛んな年頃であった北村は、自分もボクシングに人生を賭けてみたいと思い立ち、直ぐさま自宅近くのボクシングジムの門を叩いた。
この時の心境について、まずボクシングで世界チャンピオンになって一旗揚げた後に勉強でも何でもやれば良いとの考えがあったと言う。
ジムに入門した北村は、持ち前の探求精神を遺憾なく発揮し、チャンピオンを目指して猛練習に励んだ。
それまで続けていた独自のトレーニングが功を奏してか、入門当初からパンチ力が非常に強いとの高評価を受けると益々やる気に拍車がかかった。
本人も、何故だか解らないけどパンチ力が強かったと回想しており、その余りの強打により、ゲームセンターのパンチングマシン2機を故障させた経験もあるという。
しかし、それほどのパンチ力を備えていながら、思いがけない理由でプロボクサーへの道を断念する事になる。
視力0.01という極度の近視であった北村は、視力の問題があったのは確かであるが、それ以前の肝心な部分として対戦相手が殴れないとの優しい性格が障壁となっていた。
「相手を殴る時は気を使ってねー、顔は殴れないし、当たったら痛かろうなと考えたら殴れなかったのね。だから殴られた数を覚えてね、同じ数なら殴り返しても良いかなとか考えたり・・サンドバッグと人間では僕にとっては違い過ぎたのね」と無邪気に語る姿には、強靭なフィジカルとはアンバランスほど慈愛に満ちた豊かな精神性が感じられる。
そんなボクシング経験もしながら2年間の浪人生活を終え、ついに念願の東京大学理科Ⅱ類への入学を果たした。
が、授業は始めの1週間ほど通ったきりとなり、それ以降に出席した記憶は無いと言う。
それは、この東京大学で後のライフワークに繋がるボディビルディングに出会った為でもあった。
先輩の指示のもと早々にボディビルディング学生選手権に出場するも、身長173㎝、体重50㎏程度の体格では、他の選手達に太刀打ちする術もなく、泣きそうになるぐらい惨めな思いをしたという。
勉強する時も、1冊の本の中身を全て覚えるまでは帰宅しないし食事もしないと言って外出したきり、本当に帰ってこなかったと家族が証言する様に非常な努力家であった北村は、この時の経験からボディビルに全身全霊で打ち込む決意を固め、雪辱を晴らすべく壮絶なトレーニングを開始する。
まずは、体重の増加に取り組んだという。通常の食事以外に生卵30個、牛乳3リットル、サバ缶3つ、プロテイン300gを大量の消化剤と共に接種する事を繰り返し、わずか1年足らずで40㎏もの増量に成功する。
その他に生の鶏肉を使用した独自のスムージーも考案した。
冷凍した生の鶏ささ身肉20本程に水とノンカロリーシュガー、バニラエッセンスを加えてミキサーでペースト状にしたものを1日5食の合間に2回ほど摂取するという驚くべき間食である。
その上で見る者が気絶しそうなほど壮絶なトレーニングを続けた結果、2年後の関東学生選手権では、圧倒的な実力で優勝を果たした。
しかし、その間、授業には一切出席していなかった。「東大の近くまでは行くんだけど、ある道を曲がれは東大で真っ直ぐ行けば公園があってね。で、僕は真っ直ぐ行って公園でトレーニングしちゃうのね」と回想する姿にも、一途な人柄が表われている。
ボディビルでは、それなりに満足する結果を得るも大学をドロップアウトして将来が見えない北村の脳裡にふと「自分の人生は、どうあるべきなのか」という幼少期に覚えたアイデンティティを追求する思いが蘇った。
自分のあるべき姿について、今一度考えた北村は、「そうだ僕は人の役に立ちたい。医者になって世の中に貢献しよう」と思い立ち、以前に使用していた参考書を引っ張り出すと、再び猛勉強の日々を送る。
その結果、一発で東京医科歯科大学医学部への入学を果たした。
「初めは簡単に合格できそうな気がしたけど、実際の試験は難しくてね。最後は、神様なんとか合格させて下さいってすがる様な思いだったのね」と軽妙に語る姿にも、普通人なのか天才なのか判別が付きにくいユニークさが垣間見える。
しかし、苦労の末に掴んだ医者への道もボディビルへの情熱には遠く及ばなかった。時間が経過するにつれ「やはり自分はボディビルを極めたい」との思いが強くなり、またもや中退してしまう。
将来性のある難関大学を2度に渡って中退したことに激怒した父親との確執が深まる中、もはや北村にはボディビルダーとしての成功以外は全て余事となっていた。
人生の道をボディビル一本に定めた北村の追求は更なる加速を生み苛烈さも増して行く。
究極的な北村のエピソードの中でも特に有名なのが、1985年のアジア選手権での凄まじい減量である。
社会人選手権で優勝した北村に急遽アジア選手権への出場オファーが舞い込んだ。
しかしアジア選手権までは4日間しか無い。先の大会での過酷なトレーニングと極度の減量で体は疲弊しきっていた。
焦りを覚えた北村は、筋肉に張を持たせようと高カロリー食事をするも歯止めが効かなくなり、僅か2日間で体重が13㎏も増加してしまった。
アジア選手権までは残り2日間しかない。13㎏以上の減量に迫られた北村は、電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅まで走って帰る超長距離マラソンに挑戦する。
結果、120㎞の道のりを15時間かけて走り抜き、14㎏の減量に成功した事で見事にアジア選手権ライトヘビー級で優勝し、ボディビルコンテストの最高峰、ミスター・ユニバースへの切符を手にした。
しかし、身長173㎝、体重115㎏というアジア人としては規格外の肉体を誇っていた北村は、ボディビル連盟より筋肉増強剤(アナボリックステロイド)の使用を疑われて出場停止の勧告を受ける。更に、そのトラブルが元で同連盟を脱会する事態にまで陥った。
筋肉を大きくする為ならどんな努力も惜しまないと語っていた北村であるが、彼の物事に対する尋常では無い努力とひた向きな姿勢からは薬物使用のイメージは浮かばない。
自著の中でも、薬物使用を完全否定すると共に陰謀めいた疑惑に巻き込まれた事も明かしている。
専業のボディービルダーとして、国内での活動の道を閉ざされた北村は、次第に芸能界へと足を踏み入れてゆく。
書籍の出版や技術的な指導を含めテレビ出演や雑誌などでも周知される一方、海外コンテストに活動の場を見出した北村は、更なるトレーニングと研鑽の日々を送っていた。
そして時は流れて2000年8月、その幕引きは突然に訪れた。
ボディビル世界選手権に出場するべく、20㎏にも及ぶ極度の減量に成功した北村は、異常な低血糖状態に陥り、急性心不全を引き起こして帰らぬ人となった。
短くも高密度な人生は、突如として終わりを告げた。一説には、体脂肪率が3%を切っていたとさえ言われている。
事故の数日前にも救急搬送された経緯があり、極限状態にあっても飴玉一粒ほどのカロリーでさえ拒むほど強固な意志を貫き通した姿がそこにあった。
強靭なフィジカルと卓越した知力、他者を思いやる慈愛に満ちた心と自らを律する強固な意志、全てにおいて一般人を遥かに凌ぐ能力を備えていた氏は、戦うべき本当の敵を自らの心の中に見出していたのかも知れない。
限界まで行うトレーニング
朝食作り
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