天使の笑顔に阿修羅の心 大西 政寛

大西 政寛
おおにし まさひろ
1923-1950
‶最恐の極道″
血塗られた悪魔のキューピー伝説
一見すると可愛らしい顔立で、笑うとまた何とも言えない愛嬌があったと言う「悪魔のキューピー」こと大西政寛は、その穏やかな外見に反して激高すると夜叉の如く恐ろしい形相へと変貌し、敵対者を必ずと言って良いほど血の海に沈めた事から、戦前戦後のヤクザ史上でも最も恐れられたヤクザの一人である。
目撃者の証言によれば、怒気が上がった途端にそれまでの愛くるしい笑顔からサッと血の気が引き、青ざめた般若の様なその容貌は、痙攣した眦(まなじり)が吊り上がり、眉間から額にかけて深く長い縦ジワが幾本も刻まれていたと言う。
この世のものとは思えぬ恐ろしい形相を目の当たりにした者は、気付いた時には手遅れであり、そうなってしまうと必ず血しぶきを上げてのた打つ結果となった。
敵対する者達も荒くれ者であり、大なり小なり修羅場を潜った強者達であったが、大西の突出した恐ろしさを前に金縛りの如く硬直し、次に気が付いた時には、体から分断された手足が転がっているのを見るか或いは、地面に横たわる自分の姿を少し高い位置から眺める事となった。
大正12年(1923年)、広島県賀茂郡(現在の呉市)に生まれた大西は、幼少期に両親が離婚し、その後、直ぐに父親が他界した。
父方の祖母宅に身を寄せるが後に祖母も他界してしまい、最終的には、別の場所で再婚していた母親に引き取られた。
幼少期から激高すると手が付けられない狂暴な性質であった大西は、近所の子供や大人達からも奇異の目で見られ、モルヒネ中毒で他界した実父の事や複雑な家庭環境をなじられ、イジメの対象となっていた。
幼い大西は、大人が相手でも理不尽なイジメに立ち向かい、その都度、狂暴な性格に磨きがかけられた。
勉強は得意では無かったが、絵には天賦の才能を見せ、数々の絵画コンクールで優勝又は入賞を果たしたと言う。
尋常小学校を卒業した大西は、昭和11年(1936年)小学校高等科1年(中学校)に進学する。
この頃すでに激烈な性格が完成していた大西は、同年、絵が得意な事を面白半分にペンキ屋と揶揄した教師の頭を文鎮で叩きのめし、即日、退学処分を受けた。
その後、義父の紹介により呉市の博徒組織が運営する鉄鋼関係の職人となるが、数年後、別の鉄鋼関係の若衆らと喧嘩になり、組織同士の抗争へと発展した。
後日、両組織の代表者が市内の料亭で和解に向けた話し合いをしている最中、大西は拳銃を携えて乱入し、危うく流血沙汰となりかけたが、双方が和解を望んでいる事を理解すると拳銃を納めた。
これを切欠に他組織との交流を広げた大西は、同じ呉市内に本拠を置く有数の博徒組織の親分達と親密な関係となり、その縁から義兄弟の盃を交わした。
昭和18年、徴兵令を受けて中国大陸戦線へと派兵されていた大西は、3年後の昭和21年(1946年)中国から無事に帰還した。
幅員後まもなく、第一次広島抗争と呼ばれるヤクザ組織の大規模な抗争が勃発する。
第二次、第三次へと続いたこの抗争は、他府県の組織が介入するほど大規模な抗争へと発展し、戦後のヤクザ史上でも特に凄惨を極めた抗争事件として知られている。
その全容は、後に深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」として描かれ、空前の大ヒットを記録した。

大西は、その初期の中心人物として、高密度に凝縮された短くも激動の人生を駆け抜けて行く。
従軍先では、捕虜の首を幾度となく日本刀で跳ね飛ばしたと言う大西は、以前にも増して人命を軽視する傾向が進んでいた。
自分が嫌な役を引き受ける事で他者が助かるとの思いから率先して行っていたと言うが、その時の心境について「斬られる者よりも斬る者の方が何倍も辛い」との言葉を残している。
だからこそ、せめて捕虜が苦しまない様にと一撃で斬首する事に拘っていたと言う。

それらの戦争体験を経て更なる修羅の心が極まった大西は、敵対組織との抗争でも、日本刀を用いて幾本もの腕を切り落とした。
そして、競馬利権の問題から騎手を滅多打ちにし、或いは地元の有力者からの依頼で傍若無人に闊歩する町の不良連中を事あるごとに叩きのめして廻った。
物腰も柔らかく優しそうな外見の大西を見くびった者達は、ことごとく血の海へと沈んで行った。
地元の有力組織で若頭という要職に就いていた大西は、その後も多数の抗争事件で暴れまわり、1947年5月、ついに警察に逮捕されるところとなった。
何よりも束縛を嫌い自由を求める大西は、送られた呉市の拘置所の中で脱出する為の奇抜なアイデアを思い付く。
それは自ら体調不良になる事で執行停止処分を受け、正規のルートで脱出すると言う荒業であった。
拘置所内にある理髪室から密かに剃刀を持ち出した大西は、自らの腹部を横一文字に20㎝ほど掻っ捌き、内臓がこぼれ出るほどの重症を負った。
狙い通り執行停止処分を受けた大西は、腹部から飛び出た内臓を抱えながら外部の病院へと緊急搬送される。
病院で手術を受け、後は治療に専念し、回復した頃を見計らって逃走するという筋書きであった。
後日、自分の内臓を抱えて歩く心境について、「腰が抜けるほど重たかった」と述べている。
他人に対して苛烈な暴力を振るう大西であるが、自分自身もその対象から免れる事は出来なかった。
その後、病院からの脱出に成功した大西は、地元へと舞い戻り、再び抗争の中心に身を投じて行く。
敵味方が入り乱れ、血て血を洗う激しい抗争が展開された当時の呉市内は、さながら修羅界の如く様相を呈していた。
そんなある日、大西は妻と歩いているところを数人の不良グループに囲まれてしまう。
不良達は、大西の弱そうな外見に鷹を括り、妻にちょっかいを出すなど悪態を付き始めた。
この時、多数の事件で警察から追われる身となっていた大西は、穏便にやり過ごそうと心に決め、低姿勢で対応していた。
しかし、男の一人が大西だと名乗り、更なる悪態をつき始めた時、自分の名をかたる無礼者を前に大西の笑顔は阿修羅へと変貌した。
その姿を見た不良達は震え上がって退散するが、「ワシの名を騙るなど許せん」と息巻く大西は、後日、男達の居場所を突き止めると愛用のモーゼル32口径を持って乗り込み、自分の名を騙った男を問答無用で射殺した。

モーゼルHSc 32口径 7.65㎜弾 装弾9発
射殺された男は、偶然にも実際に大西姓であり、その事がこの両名の不幸の始まりであった。
この事件を切欠にいよいよ業を煮やした警察署による大西逮捕の大捜査網が敷かれる事となった。
1950年1月、潜伏先に潜んでいた大西は、ついに数十名の警官隊に包囲される。
炬燵(こたつ)の中に潜んでその時を待ち構えていた大西は、踏み込んできた警察官と銃撃戦になり、数名を射殺する。
しかし、次第に追い詰めら屋根づたいに逃れようとしたところを複数の警官から一斉射撃を受け、その場に昏倒した。
享年27歳。
古今、恐ろしいと評されたヤクザ渡世人や剣豪、武術家など実に様々な伝説が残されてはいるが、大西ほど外見と中身のギャップが乖離していると言われる者も珍しい。
昆虫界や植物界でも、毒を持つ者は奇抜な色彩や形状により、その危険性を外部に知らせる事で自らの命を守ろうとするものである。
自由奔放に生き、保身の考えを持たず、純粋過ぎたが故に自らの人生に翻弄され続けた修羅の物語は、今なお伝説の極道として語り草になっている。
- 関連記事
-
-
初代アメリカ皇帝 ジョシュア ・ ノートン 2021/07/29
-
幕末最強の剣士 河上彦斎 2021/06/25
-
天使の笑顔に阿修羅の心 大西 政寛 2021/07/19
-