幕末最強の剣士 河上彦斎

河上 彦斎
かわかみ げんさい
1834-1872
~幕末の人斬り伝~
優しくも非情なる剣士
幕末の四大人斬りに数えられ、佐久間象山を斬り殺した事で知られている。
また、漫画「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心のモデルであるとされ、穏やかな見た目に反して激烈な気性を持つ意外性から有名な人斬りの中でも異色の存在感を放つ存在として知られている。
尊王攘夷派の熊本藩士であり、明治維新後も攘夷(じょうい)思想を強く持ち続けていた為、新政府から危険人物と目され斬首刑に処せられた。享年37歳。
1834年、肥後細川家熊本藩の下級藩士の家に生まれる。
16歳頃になると藩主邸の茶坊主(雑用係)として登用され、主君に仕える中で皇学や儒学、兵法術について学び、20代後半頃には幹部職へと昇進した。
身の丈は5尺前後(150㎝程度)と小柄であり、華奢な体躯に色白で淡泊な顔立ちであった事から、一見すると女性の様にも見えたと言う。
倒幕派、佐幕派、諸士入り乱れる動乱の幕末期において、岡田以蔵や中村半次郎らを含む四大人斬りの中でも特に恐れられた存在であった。
剣術は、我流(自己流)であったとされているが、一説には伯耆流(ほうきりゅう)居合術を学んでいたとも言われている。
逆袈裟(ぎゃくけさ)に斬り上げる居合の達人であり、左ひざが地面に着くほど大きく右足を踏み込ながら抜刀し、下から上へと斬り上げる特殊な刀法を用いたとされる。
熊本藩士として強固な尊王攘夷思想(天皇中心の排外主義)に身を固めていた彦斎(げんさい)は、20代後半の頃に池田屋事件で新撰組に討たれた同藩の朋友「宮部鼎蔵」の仇を打つべく、幕末の京都へと赴いた。
上京後に同じく尊王攘夷を掲げる長州藩の桂小五郎らとも親しくなり、後に彼ら倒幕派の政策にも参加する。

普段は礼儀正しく温和な人柄であったと言うが、意に沿わなければ平気で人を斬り殺す残忍性を併せ持ち、彦斎に睨まれたら逃げられないとの意味から「蝮蛇(ヒラクチ)の彦斎」の呼び名で人々から恐れられたと言う。
豪傑で鳴らした新撰組局長の近藤勇でさえ、たまたま京の町中で彦斎と出くわした際には、うつむいて目を逸らしたと伝えられている。
史実としては、佐久間象山殺害のみが注目されるが、日頃から頻繁に人を斬り殺しており、簡単に人命を奪う事を批判した勝海舟に対して「あなた方も畑の茄子や胡瓜は、頃合いを見てもぎ取るでしょう。」それと同じであり、話しても通じぬなら適宜、もぎ取るのが現実的であるとの意を述べたと言う。
また、ある酒席で仲間から横暴な役人の噂話を聞いていた彦斎は、黙って頷いてはいたが、唐突に立ち上がって店を出て行ったかと思うと暫くして血だらけになったその役人の首を抱えて戻り、また何事も無かったかの様に仲間たちと飲み直したという逸話が残されている。
彦斎が使用した刀は、肥後国(熊本県)の名工として名高い同田貫宗廣(どうだぬき むねひろ)だと言われているが、実際のところは定かではない。

同田貫とは、1500年代より続く肥後国を本拠とした刀工集団であり、初代藩主の加藤清正お抱えの刀工であった正国を始め、その流れを組む刀工の総称である。
刀身は、反りが浅く身幅が広く、肉厚で豪壮な体配を成しており、実践的な剛刀として知られている。
確かに写真の彦斎が帯刀している刀のフォルムも反りが浅い直刀に近い形状が見受けられる。
この様な刀を片手だけで抜刀して斬り上げていたとするなら、見かけに寄らず相当な腕力の持ち主だったのかも知れない。
多数の人間を躊躇なく斬り殺していたとされる彦斎であるが、その内面は人情に厚く、仲間思いで特に妻子にはとても優しかったと言う。
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