ソビェトの赤い妖星 リュドミラ・バウリチェンコ

リュドミラ・バウリチェンコ
1916-1974
~ソビエトの赤い妖星~
最強の女性スナイパー
旧ソビェト連邦の軍人であり、ドイツ軍兵士309名を射殺した伝説の女性スナイパー。
ロシア帝国時代のウクライナの首都キエフ近郊の街に生まれる。
14歳の頃に家族でキエフ市内に移り住むと町のスポーツセンターの射撃部に入部した。この頃すでに後の活躍の片鱗を伺わせる才能を見せていたという。
キエフ国立大学へと進学したバウリチェンコは、勉学の傍ら射撃の訓練にも精を出し、腕前はメキメキと上達していった。
1941年、第二次世界大戦下においてドイツ軍やイタリア軍らによるソ連領への進行(バルバロッサ作戦)が開始されると、24歳の大学生であったバウリチェンコは、赤軍事務所に赴いて狙撃手としての入隊を志願する。
適正試験に合格すると直ぐに特別志願女子二等兵として狙撃兵団に配属された。
入隊後の射撃訓練でも抜群の成績を収めたバウリチェンコは、正式な狙撃手として選抜され、軍より支給された4.0倍スコープ装着のモシン・ナガンM1891狙撃用ライフルを手に戦地へと向かった。

モシン・ナガンM1891/30
7.62×54mmR弾 装弾5発
防衛戦線で初陣を果たしたバウリチェンコは、初めての戦闘で敵のドイツ兵2名を射殺し、周囲から一目置かれる存在になったと言う。
その頃、スターリンによる大粛清の影響で多くの指揮官が失われた赤軍は、軍の指揮系統が麻痺してしまい、ドイツ軍の進行に抗えない状態となっていた。
所属する連隊も撤退を余儀なくされたが、バウリチェンコら狙撃手達はそのまま最前線に残置される事となり、自軍の速やかな撤退を援護する為に迫り来るドイツ兵を狙撃で食い止め、進行を遅延させよとの命令が下った。
狙撃手達は身体に周到な迷彩偽装を施して待ち伏せし、敵の指揮官や通信兵を最優先に狙撃した。
自軍にも多くの犠牲を出したが、彼ら狙撃手達の働きにより、見事にドイツ軍の進行を食い止める事に成功する。
バウリチェンコは、枯れ草に偽装した姿で地下の陣地に潜んで敵が通り過ぎるのを待ち、数百メートルの距離を置いた背後から次々に狙撃する手法で多くの戦果を上げたという。

次第に対抗狙撃戦(対狙撃手)でも、多くの戦果を上げるようになり、2カ月半の間に狙撃手を含めた187名のドイツ兵の射殺に成功する。
この働きにより飛躍的な進級を遂げたバウリチェンコは少尉へと昇進した。
この頃、愛用のモシン・ナガン銃からトカレフM1940半自動銃に取り替えた。
ボルトアクション式で撃つ度にレバーを引いて弾丸の装填が必要なモシン・ナガン銃とは異なり、セミオート式のトカレフでは、スコープから目を離さずに連続射撃が可能となった事で更なる戦果へと繋がった。

M1940(SVT-40)セミオート
7.62×54mmR弾 装弾9発
その後、激戦地であるクリミア半島に派兵されたバウリチェンコは、降り注ぐ猛火の中をかい潜り、数カ月に及ぶ激闘の末、狙撃数が257名にも達する大きな戦果を上げて階級は中尉へと昇進した。
しかし、ドイツ軍の1300門(大砲の数)もの自走式迫撃砲による徹底的な砲撃を受け、地下陣地の殆どは壊滅状態となり、バウリチェンコ自身も砲弾の破片を受けて負傷してしまう。
傷の治療を終えて戦線に復帰した後も活躍を続けていたが、既にソビエト全土に知れ渡るほど有名になっていた事もあり、英雄を失い士気が低下する事を恐れた国家指導部により、狙撃隊の教官になるよう命令が下った。
公式記録では、ドイツ軍兵士309名を射殺、うち狙撃手36名となっており、最終階級は少佐となっていた。
前線を離脱したバウリチェンコは、外交宣伝に任命され、当時の同盟国であったアメリカへと派遣される。
ソビェト連邦の軍人として史上初となるホワイトハウスにてアメリカ大統領との面会を果たしたバウリチェンコは、フランクリン・ルーズベルト夫妻から歓待を受け、記念品としてコルト社製の自動小銃を受け取った。
その後、1943年に帰国し、ソビェト連邦英雄の称号を受けると共に切手の肖像画にもなった。
ソ連国家指導部はバウリチェンコの名を利用して2,000名にも及ぶ女性スナイパーを養成して戦地に派兵したと言われるが、そのほとんどが戦場で命を落とし、生きて帰った者は数少ないと言われる。
1945年、終戦により除隊したバウリチェンコは、元のキエフ国立大学の学生へと戻った。
大学で戦史などを学んだ後に海軍の戦史課に就職すると勤務を続けたという。
リュドミラ・バウリチェンコ
撃破王 ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
1936-1912
~出撃こそ我が人生~
撃破王の伝説
第二次世界大戦中のナチスドイツの空軍大佐であり、三度の食事よりも出撃が大好きという希代の出撃マニアとして知られている。
その常軌を逸した出撃回数と類稀なる戦果により"撃破王"と称えられた。
戦車などの地上兵器に対する"急降下爆撃"を主な任務としていたが、空中戦で敵の戦闘機を撃墜する事もあった。
公式記録には、出撃回数2,530回、撃破した戦車519両、装甲車両800台、戦艦1隻、駆逐艦2隻、上陸艦艇70隻以上、戦闘機9機を撃墜とあり、もはや人間業とは思えない驚くべき戦果が記録されている。
そのあまりの戦力を恐れたスターリンから"ソ連人民最大の敵"と名指しされ、ルーデルの首には、当時としては破格の10万ルーブル(現:数億円)もの懸賞金が賭けられていたと言う。
その病的とも言える出撃マニアぶりが伺える逸話が残されている。
「朝起きて出撃して戻って朝飯食って牛乳飲んだら出撃して、昼飯食って牛乳飲んだら出撃して、夕飯食って牛乳飲んだら出撃して帰ってシャワーを浴びたら寝るを毎日繰り返していたら、いつの間にか戦車500両を撃破して10個以上の勲章をもらって、撃破王と呼ばれていた」と言うものである。
初戦で獲得した「二級鉄十字章」に始まり、ナチスドイツのほとんどの勲章が授与されたが、それでもルーデルの働きに見合わないとして、ついに「黄金柏葉剣付ダイアモンド騎士鉄十字勲章」なる無理やり感に溢れた特別な勲章が授与された。
この勲章は便宜上、複数個が製作されたがルーデル以外に手にした者は無く、事実上ルーデル限定の勲章であったと言われている。

英雄となったルーデルの死が敵国の宣伝に利用される事を恐れたヒトラーは、彼に地上勤務を命じた。
命令に従い、やむ無く一度は地上に降りたルーデルであったが、いてもたっても居られず、外部に知られないよう密かに出撃を繰り返していたと言う。
その"隠密出撃"による戦果は、他者の記録として偽装されていた為、ルーデルの実際の戦果は公式記録を遥かに上回るものであったと言われている。
その後、地上勤務が解かれたルーデルは、例の‶黄金付″の特別な勲章を受ける代わりとして、二度と地上勤務を命じないとの約束まで取り付けている。
また、敵の戦車や艦艇を撃破するだけでなく、自らも度々、撃墜されている。
ある時に対空砲火を浴びて撃墜され、同乗していた相棒のガーデルマン曹長と共に野戦病院へと運び込まれた。

その後、戦争も終盤に差し掛かった頃、またも対空砲火を浴びたルーデル機は、今度は40㎜砲弾の直撃を受けてルーデル自身の右足が吹き飛ばされてしまった。
後部座席のガーデルマン曹長に足が無くなった事を報告したが、足が無くなってそんなに冷静でいられるはずがないと一笑に付されたと言う。
しかし、実際に右足は無くなっていた。
やむを得ず病院で緊急手術を受ける事になったが、怪我が治るまでしばらくソ連の戦車が破壊できないと言って悔しがっていたと言う。
2カ月後には義足をつけて戦線への復帰を果たし、以前と変り無く”撃破”の日々を送っていいたが、間もなくして終戦が訪れた。
これにより、4年余りに及んだルーデルの戦いも終わりを告げ、ようやく地上に落ち着く事となった。
最終階級は大佐であった。
終戦後は、アルゼンチン政府からの要請を受け、アルゼンチンへと渡航する。
空軍士官学校の教官として操縦法などを教える傍ら、武器の販売や軍事コンサルタントなどの事業でも成功したと言う。
また、義足であるにも関わらずテニスや水泳、スキーなどのスポーツでも活躍し、アルペンスキーでは南米選手権で優勝するほどの腕前であったと言う。
そして、趣味の登山では、南米の最高峰を含むアンデス山脈の数々を登頂して廻った。
アルゼンチン政府との契約終了を機に西ドイツに帰国したルーデルは、その類稀なる戦闘経験から爆撃機の設計顧問として軍需企業に招かれた。
そして、大戦に散った多くの将兵達の鎮魂の意を込めた記念碑の建立にも力を注いだ。

JU87型航空機「通称シュトゥーカ」
後年、何故あれほどの出撃が可能だったのかとの質問に対して、「私には、これと言う秘訣はなかった」と述べており、前代未聞の驚異的な戦果を成し遂げたルーデルとガーデルマン曹長が搭乗した急降下爆撃機JU87型航空機は、急降下を目的する特性から機体が重い上に速度も遅く、操縦が困難とされる機体であった。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
不死身の分隊長 舩坂 弘

舩坂 弘
ふなさか ひろし
1920-2006
~生きた英霊~
アンガウルの戦闘
不屈の精神力と類まれな武術の資質を合わせ持ち、剣道六段、居合道錬士、銃剣道錬士、特別銃剣徽章並びに特別射撃徽章を受けるなど、剣術、射撃術には、一通り習熟していた。
第二次世界大戦の中でも激戦中の激戦と言われたアンガウルでの戦いを生き抜き、奇跡的な生還を果たした事から生きた英霊と称えられた。
白兵戦における絶大な戦果により、「戦史叢書せんしそうしょ」(防衛省公刊の戦史書)に唯一、個人名で記されている。
栃木県の農家の三男として生まれた舩坂は、幼い頃から近所でも有名なガキ大将であったと言う。
義務教育を終えた後も早稲田講義録などで独学を続け、満州国開拓を推進する専門学校に入学する。その後、1941年頃に陸軍宇都宮第36部隊に現役入隊すると程なく満州へと渡り、歩兵師団に配属された。
この時すでに剣道と銃剣術では秀でた存在であり、上官からもお墨付きを得るほどの腕前であったと言う。入隊以来、30回以上の賞状や感状を受け、射撃と剣術においては無類の才能を発揮していた。
1944年、戦況の悪化により、ついに舩坂の所属する部隊にも南方戦線への動員命令が下る。この時の舩坂は除隊を目前に控えていたが、戦況の急はそれを許さず、パラオ諸島の一つであるアンガウル島に向かう事となった。
15名の兵士を率いる舩坂は分隊長を務め、中隊の中でも一目置かれる存在であり部下からの人望も篤かった。
アンガウルの戦闘は、太平洋戦争におけるパラオ、マリアナ戦役最後の戦いであり、当時23歳の舩坂は、この戦いで多大な戦果を上げる事となる。
最終的には、1万人を超える米兵が駐屯するアンガウル島で、僅か1500名足らずの日本兵による無謀とも言える攻撃が開始されると、舩坂は、迫撃砲の筒身が真赤になるまで絶え間なく打ち続け、200人以上の米兵を殺傷したと言う。
しかし、水際作戦での激戦に次ぐ激戦により、中隊は次々と壊滅していった。負傷を負っていた舩坂も、大隊の残存兵らと共に島の洞窟へと逃れ、以降はゲリラ戦へと移行するより手立てがなかった。
僅かな武器と満身創痍の身体を引きずりながら戦闘を続けていた舩坂であったが、米軍の苛烈な攻撃を受けるに至り、ついに大腿部に重度の裂傷を負い動けなくなってしまう。
数時間後にようやくやって来た軍医は、船坂のあまりに酷い傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を置いて立ち去ったと言う。
舩坂は、重症を負いながらも、ひも状にした日章旗で大腿部を縛り上げて止血し、夜通し這いながらやっとの思いで洞窟陣営に帰りついたと言う。
通常では、まず助からない程の深い傷を負っていた舩坂であったが、翌日には、足を引きずりながらでも歩けるようになり、その後も幾度となく瀕死レベルの傷を負うも不思議と翌日には回復していたと言う。
後に舩坂は、生まれつき傷が治りやすい体質であった事に助けられたと語っている。
絶望的な状況に陥ってもなお舩坂は鬼神の如く戦い続けた。重症の身でありながらも、銃剣で1人の敵を倒すと同時に引き抜いた銃剣を直ぐさま、もう一方の敵に投げて突き刺すなど神憑り的な強さで修羅場を潜り抜けていた。
しかし、食糧も水も無い中での戦いは、次第に日本兵達を追い詰めるに至り、洞窟豪の中は重症を負った者が自決用の手榴弾を求める呻き声に溢れ、さながら地獄絵図と化していた。舩坂自身も腹部盲貫銃創の重傷を負い、もはや這う事しか出来なくなっていた。
盲貫銃創(もうかんじゅうそう)とは、弾丸が貫通せずに体内に残っている状態であり、速やかな摘出を要する一刻の猶予も許さない危険な状態である。
これまで幾度となく修羅場を潜り抜け、瀕死の状態からでも不屈の精神と体力で乗り越えてきた船坂も、自らの傷口から蛆虫が這い出る様子を見て、もはやこれまでと手榴弾のピンを抜いて自決を図る。
しかし、幸か不幸か手榴弾は爆発しなかった。自決失敗と言う現実に落胆した船坂は、なぜ自分だけ死ねないのかと深い絶望感を味わったと言う。
中隊、大隊ともに壊滅状況にある中、追い詰められた舩坂は、最後の力を振り絞って米軍司令部への単身斬り込み自爆攻撃を決行する。
手榴弾六発を体に括り付け、拳銃一丁を持って数夜を這い続ける事で、ついに敵の警戒ラインの突破に成功し、4日目には米軍指揮所のテント郡の手前20mの地点にまで潜入していた。
この時の舩坂は、大腿部裂傷、腹部盲貫銃創2カ所、胸部盲貫銃創1カ所、関節脱臼、打撲傷に加えて全身には無数の砲弾の破片が食い込んだ血まみれの重体であり、さらに長距離を匍匐前進(ほふく)していた為、軍服はボロボロに擦り切れ、さながら地獄の亡者か亡霊の様な姿であったと言う。
舩坂は米軍指揮官が指揮所テント内に集合する時に突入すると肚に決めていた。
総勢1万人もの米兵が駐屯するテント群を目前に手榴弾を握り締めた船坂は、静かにその時を待った。そして将校を乗せたジープが次々と司令部に乗り付けるのを確認すると、いざこの時と全力を振り絞って立ち上がり、指令部テントに向かって渾身の力で突撃した。
突如として現れた狂人的な風貌の人物に米軍兵士達は驚きのあまり啞然として立ち尽くしていたと言うが、直ぐさま銃撃を受けた船坂は、その場に昏倒した。
数日後に気が付くと野戦病院らしきベッドの上に寝かされており、決死の覚悟で突撃したにも関わらず、温情を掛けられて助けられた事に怒りを覚えた船坂は、周囲の医療器具を破壊して暴れま回った。
駆けつけた兵士が、船坂に銃口を向けて警告したが、向けられる銃口に自らの身体を押し当て「早く殺せ!殺すんだ!」と鬼気迫る形相で叫んだ。
この奇妙な日本兵の行動は、米軍兵士達の中で瞬く間に話題となり伝説となった。舩坂の捨身の行動は、多くの米兵を恐れさせたが、その勇気を称え勇敢なる兵士として畏敬の念を抱く者も大勢いたと言う。
その場に居合わせた米軍兵士の一人であり、後にマサチューセッツ大学の教授となるロバート・E・テイラーは、戦後、舩坂に宛てた一通の手紙の中で「あなたのあの時の勇敢な行動を私達は今も忘れられません。あなたの様な人がいる事は、日本人全ての誇りとして残ります。」と賛辞の言葉を述べている。
その後、アンガウルの野戦病院からペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移された舩坂は、ここで監視の目をかい潜り、収容所からの脱出に成功する。
この頃、「勇敢なる兵士」の噂は、ペリリュー島にまで伝わっており、所属部隊の身元を偽装する為に「グンソーフクダ」と名乗っていた舩坂は、要注意人物の筆頭格として警戒されていた。
捕虜となっても、いまだ闘志は衰えず、人知れず収容所から脱出した舩坂は、数キロもの距離を潜行して日本兵の遺体に辿りつき、遺体が持つ弾丸から抜き取った火薬を使って米軍弾薬庫の爆破に成功する。
その後、もと来た道を辿って収容所へと戻り、この爆破事件は、MPによる調査の甲斐も虚しく舩坂の犯行であることが発覚する事は無かった。
その後も2度に渡り、米軍基地の飛行場爆の爆破作戦を試みるが、事前に発覚したため未遂に終わる。そして、グアム、ハワイ、アメリカ本土の収容所などを転々とした後、1946年に帰国を果たした。
アンガウル島では、全軍が玉砕したとの広報が伝わっていたため、舩坂がボロボロの姿で生家に戻ると周囲の人々は動揺した。幽霊ではないかとの噂が飛び交うほど、暫くの間は疑いの目で見られていたと言う。
舩坂は、1944年のアンガウル玉砕の公報から帰国するまでの間、戸籍上では死亡した事になっていた為、故郷に帰って最初に行った事は、自らの墓標を引き抜くことであったと言う。
幾多の死線を潜り抜け、何度でも死の淵から這い上がった船坂は、帰国後も冷めやらぬ闘志を日本の復興に向けたいとの思いに駆られる。
戦地で体験したアメリカの先進性を学ぶ事が、今後の日本国の発展に繋がるとの思いを抱き、人々に多くの知識を広める為にと書店の経営を思いつく。
当初は、わずか1坪程度の他店に間借りした小さな店であったが、書店経営を通じて社会に貢献したいとの熱い思いがあった。
この舩坂の書店は、後に本のデパートと形容され多くの人に親しまれる大盛堂書店の創設へと繋がって行く。
また書店経営と並行して、剣道の修行も続けていた。剣道を通じては、作家の三島由紀夫との親交も生まれ、度々、意見を交わす間柄でもあったと言う。三島の愛刀として有名な「関の孫六」は、舩坂から贈られたものである。
舩坂は生涯の使命として、自らが体験した戦記などの多数の本を出版し、本の印税と読者から寄せられた義援金の助力も得て、アンガウル島や周辺の島々に散った将兵達への鎮魂を意とした慰霊碑を次々に建立した。
そして、どれほど多忙であっても、毎年の収骨慰霊を欠かさず、パラオ諸島の原住民に対する援助や戦没者遺族達との平和活動にも精力を注いだ。
出版で得た印税も自らに使うことが無く、全額を国際赤十字社に寄贈している。
生まれ持った強靭な肉体と精神力を盾に幾多の死線を戦い抜いた舩坂であるが、その背景には、人知を超えた何らかの超自然的な力が働いていた様にさえ感じられる。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
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