拳の道 中村日出男

中村 日出男
なかむら ひでお
1913-2013
人知を超えた希代の武人
~脅威の正拳垂木切り
幼少の頃から武道家であった叔父に手解きを受け、武道の道を志す様になったと言う。
生涯をかけて空手道の真髄を探求するべく研鑽に励み、人知を超えた数々の絶技を習得した。
1930年、高等学校への入学と同時に武道専門学校にも入学する。
その後、武道専門学校で空手指導員を務める様になり、1943年、大日本武徳会より空手道六段錬士の称号が授与された。
その鍛錬法は苛烈を極め、拳や手刀の徹底した部位鍛錬(角材や砂の入った麻袋などに手足を叩き付ける)により、手足の武器化を目指した。
その”武器”を用いた実践演武の数々は、見る者を驚愕させ、人間の持つ攻撃力の可能性を示した。
中村の実践演武の中でも有名なのが「垂木切り」である。
垂木(たるき)とは、一辺が5センチほどの正方形に切り出された角材であるが、これを正拳や手刀を用いて切断すると言うものである。
普通なら折るという表現になるところを、中村のそれは切るという表現が相応しいほど角材の切断面が平らになるのが特徴である。
人間の手で叩いて角材を水平に切断する事など考えられないが、それを実現してしまうところに中村の凄さがある。
その様な非化学的な現象を起こせるに至った背景には、中村独自の拘りと壮絶な修行の日々があった。
数百キロの砂を詰めた砂袋への打拳、家の柱ほどもある太い木材の角部分に手刀を叩きこむ等の動作を幾万回と繰り返す事で、拳や脛(すね)を硬質かつ高密な肉塊に変化させると言う“部位鍛錬”と呼ばれる荒行である。
そうして造られた高密かつ硬質な部位を、武道の理合いに通じた打撃法によって高速で叩きつけた時、折れるのではなく切る事が可能になるのかも知れない。
また、私生活でも荒々しいエピソードが伝えられている。
タバコが人体に与える悪影響を知る為にニコチンやタールの含有量が多いタバコを1日に200本以上吸っていたところ、咽頭ガンを発症したという。
医者から手術の提示を受けたが、それを断り独自の方法で治療することを考えた。
中村曰く、先端を小さく折り曲げた針金を真っ赤になるほど高温に熱し、それを喉の奥に通してガン細胞を焼き切ったと言うのだ。
それを何度か繰り返すうちに咽頭ガンが完治するところとなり、周囲を驚かせたという。
武道家としての偉業も去ることながら、その発想の壮大さに驚愕するエピソードである。
強さと技の追求のみに重きを置いたとされる中村は、生涯において自流(流派)を立てず、共に研究する者が集まる会派としての道を選んだ。
スタイルや理論など形骸的なものを嫌い、ただ強さのみを求め続けた中村の姿勢は、正しく武人と言うに相応しいと言えるだろう。
垂木切りの演武
武器化した達人による試割
一撃で屠る一本拳 本部 朝基

本部 朝基
もとぶ ちょうき
1870-1944
~琉球王家の秘伝~
日本傳流兵法 本部拳法
にほんでんりゅうへいほう もとぶけんぽう
琉球の名門、本部家に生まれた朝基(ちょうき)は、20代の頃から伝説的な強さを誇り、実践空手術における最強の使い手と讃えられた。
その身の軽さから、本部御殿の猿御前(サーラーウメー)と呼ばれ、御殿は王族が住む邸宅であると同時に王族への尊称でもあった。
本部御殿(もとぶ うどん)とは、本部王子朝平を元祖とする琉球王族であり、国王家の分家として日本の宮家に相当する地位にあった。
また、本部御殿は代々、本部間切(現・本部町)を領する大名であり、琉球王国最大の名家でもあった。
幼少の頃から武道を好み、首里手(しゅりてい)の大家、糸洲安垣(いとすあんこう)を家庭教師に招き、長兄の本部朝勇と供に師事した。
朝基は、「武こそは我」と言うほどに唐手の稽古に打ち込み、兄の朝勇が学ぶ「御殿手」の稽古を盗み見ては、叱責を受けたと言う。
御殿手(うどんでい)とは、琉球王家の長男のみに継承される秘伝の武術である。
しかし、兄の朝勇も晩年には、御殿手の技の幾つかを朝基に伝授したと言われている。
朝基は、稽古だけでは飽き足らず、当時の遊郭街に出かけては「掛け試し」と称した喧嘩に明け暮れていたが、敗れた事は一度も無かった。
朝基の唐手(空手)術は、膨大な基本稽古と巻きわら突きで養われた剛拳であり、後に巨漢のロシア人ボクサーを一撃で倒した拳打は、正拳と同じだけの全力で一本拳を叩き込むと言う凄まじいものであった。
“一本拳”とは、、唐手術における必技の一つであり、拳を形成する際に中指の第二関節のみが突出するように鋭角に突き立てて拳を握る事から「中立ち一本拳」とも呼ばれる。
指その物の鍛錬は勿論のこと、強力な握力も必要となる為、正拳と同じだけの力で突き込むとなれば相当な修行を要する。
それゆえ叩かれた相手は決して無傷ではすまない、正に殺人的な技となる。
後に、本部御殿手(もとぶ うどんでぃ)の上原清吉も、朝基との稽古が一番苦しかったと述懐している。
1921年、朝基は来阪し、その時にたまたま立ち寄った京都でボクサー対柔道家の興行試合を目にするや飛び入り参加を申し出た。
参加が承認されると対戦相手の外国人ボクサーを一撃の元に倒し、観客を驚かせた。
当時、52歳で行ったこの試合の模様が雑誌「キング」に掲載されると、日本出版史上初の100万部を突破すると共に朝基の武名と沖縄の唐手術の存在が一躍全国に知れ渡る事となった。
1927年、朝基は上京して唐手の指導を行った。東京では、船越義珍の門弟であった大塚博紀(後の和道流創始者)から、「本部さんは文句無しに強い人です」との評価を受け、空手道場「大道館」を設立する。
また、この頃、フェザー級の東洋チャンピオンであった不世出のボクサー、ピストン堀口が大道館を訪れた。
朝基は、堀口に対して「遠慮なく掛かってきなさい」と言うと、堀口のパンチをすべて捌ききり、堀口の眉間スレスレの所で突き込んだ正拳を止めて見せた。
堀口は、「駄目だ、全く歯が立たない、参りました」と一礼し、構えを解いたと言う。
1937年、朝基は、更なる唐手研究の為に帰郷する。
晩年になっても、武術に対する研究心は衰えず、技に対する意見が少しでも食い違えば即座に立ち合いを求めるなど、実践に重きを置いた姿勢は最後まで変わる事が無かった。
朝基は、掛け試しなど数多くの武勇伝による粗暴なイメージとは異なり、実際は、とても温厚な人柄であったと言われ、琉球王族であり、沖縄大名でもあった家柄によるものか、むしろ汪洋(おうよう)として度量の深い人物であったと言う。
朝基の唐手は、嫡子、本部朝正が宗家をつとめる本部流をはじめ、今も朝基ゆかりの弟子達の流派に脈々と受け継がれている。

本部朝基ナイハンチ型 スライド映像
東海の殺人拳 水谷 征夫

水谷 征夫
稀代のアウトロー空手家
その決闘の行方は
東海の殺人拳と形容されるアウトロー的武術家であり、当時、異種格闘技戦などで華々しく活躍していたプロレスラーのアントニオ猪木氏に対して、「格闘技世界一と言うなら俺と1億円賭けて決闘しろ」との挑戦状を送りつけた稀代の空手家である。
そのやり取りも秀逸で、水谷が鎖鎌で戦うと言えば、対する猪木は、ならば竹藪の中で戦うと返したとされるが、水谷は猪木に限らず当時の日本国中の武道家やプロの格闘家に対して同様の挑戦状を送っていたところ、アントニオ猪木氏のみが返事を返して来たのだと言う。
猪木は、この現代にまだ命掛けの決闘を行おうとする者が存在する事に驚き、水谷に敬意が芽生えたと言い、一方の水谷も猪木ほどの有名人が自分の様な無名の空手家との命掛けの戦いに応じて来た事に侠儀を感じたと言い、最後には、お互いを認め合って不戦の和解に至り、両者の名前を掲げた空手道の新流派を創設したと言う。