世界武者修行の旅 前田 光世

前田 光世
まえだ みつよ
1978-1941
~講道館柔道七段の豪傑が世界を戦い巡る~
青森県中津軽郡の出身で、少年時代は野球をしていたが、上京し早稲田中学(後の高校)を経て東京専門学校(後の早稲田大学)に柔道場が新設された事をきっかけに講道館に入門し、柔道に打ち込むようになる。
その後、メキメキと頭角を現し、講道館昇段審査の際には、館長である加納治五郎から前田のみ15人抜きを命ぜられるほどであったが、これを見事に完遂したと言う。
四段位にあった1904年頃、柔道使節団の一員として渡米し、滞在費を稼ぐ為と柔道普及の両立を兼ねて異種格闘技戦を断行した。
アメリカ各地を巡りながら、数多くのボクサーやプロレスラー、拳法家などとの対戦に明け暮れる中、ある日、親日家として有名なフランクリン・ルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウス官邸にて試合を行う事となった。
同行していた講道館 四天王の一人である富田常次郎が体重160kgの巨漢選手に敗れる姿を目の当たりにした前田は、柔道の威厳を示すべく雪辱を誓い、一人アメリカに残る決意を固める。
自らの首に1000ドルの懸賞金を掲げて挑戦者を募り、アメリカ中を駆け巡って行く先々で数多くの対戦を重ねたが、そのことごとくを退けた。
その後もメキシコやヨーロッパ諸国を戦い巡り、最後はブラジルの地へと辿り着いた。その間、柔道着を着用した試合では、1000試合を超えるほどになっていたが無敗のままであったと言う。

ブラジルでは、ガスタオン・グレーシーと出会い、その息子であるエリオ・グレーシーとカーロス・グレーシーに柔術を教えた。
彼らは、前田から伝授された柔術に改良を加えて技術体系化し、後にグレーシー柔術として広く世間に知られる事となる。
1930年頃には、「オタービオ・ミツヨ・マエダ 」と言う名前も得て、ブラジルに帰化した。
前田光世と言えば、コンデ・コマの名で有名であるが、これはスペイン語で「伯爵」を意味するコンデという単語に金欠で困っていた時にふと思いついた「前田コマル」のコマだけをとって付け足したと言うエピソードがある。
そして1941年、入植先のアマゾンにて、その長きに渡る戦いの生涯を閉じる。死後80年を経過した今でも、前田光世を史上最強の柔道家として讃える者は少なくない。
前田光世 模範演武