元祖 破戒坊主 武田 物外

武田 物外
たけだ もつがい
1795-1867
~不遷流柔術開祖
元祖 破戒坊主伝説
不遷流柔術の開祖とされ、幕末の曹洞宗の僧侶であると同時に武術家としても勇名を馳せた破天荒な人物として知られている。
その剛拳をゆえに「拳骨和尚」と渾名された。
幼少の頃より、頭抜けた怪力の持ち主であった物外は、後に各地を遍歴しながら多くの伝説を残し、晩年は、長州の「勤王の志士」達とも交流し、第一次長州征伐の調停役として活躍したと言う。
寛政7年(1795年)伊予松山範士の家に長男として生まれ、幼名は寅雄と言った。
5歳になると松山の龍泰寺の小僧となったが、この頃から手の付けられない暴れん坊であったと言う。
時は流れ文化3年(1806年)、12歳の時に伝福寺の和尚に引き取られ、弟子となって広島に移り住む。
この頃より、道場通いに励み、数多くの武術を習得したと言われる。
次第に名前が知られ渡るようになり、仲間同士の口論から地雷なども使用した大掛かりな合戦を計画するほどの豪傑となる。
その後の調べで、物外が一方の首謀者である事が判明し、寺から勘当を言い渡され放逐の身となった。
翌年には、大阪に出て托鉢修行をしながら儒教を学び、その後は雲水(禅宗の僧侶)となり諸国を遍歴する。
不遷流(ふせんりゅう)を称する物外の武術は、各流の武術を習合させたものであり、鎖鎌は山田流、槍は宝蔵院流、馬術は大坪流であったとされ、中でも最も得意としたのは鎖鎌であると言う。
諸国を巡る中、行く先々で様々な武術に出会い修行を重ねたと推測されるが、面白いエピソードも数多く残されている。
寺に居た頃、ある朝、誰の仕業か寺の釣鐘が下ろされていた。
このままでは朝夕の鐘を鳴らす事が出来ないため、寺の者達が総出で吊り直そうとしたが鐘はびくともしない。
困り果てたところに物外がやって来て、「うどんをご馳走してくれたら上げてやる」と申し出た。
僧侶達が了承すると物外は一人で鐘を持ち上げて元の位置に吊り下げたと言う。
むろん鐘を降ろした犯人は物外であり、その後もうどんが食べたくなると釣鐘を降ろしていたという。
他には、寺の柱を持ち上げて柱の下に藁草履を履かせる悪戯をしたり、またある時は古道具屋で見付けた碁盤を買おうとしたが持ち合わせが無く、金を工面して戻るまでは取り置きしてほしいと店主に頼んだが、何か手付がほしいと言われたので、それならばと碁盤を裏返して殴りつけ、「これでよかろう」と言うので見てみると、分厚い碁盤には物外の拳骨の跡がくっきりと残されていたと言う。
物外は、この拳骨の跡が付いた碁盤を何枚か残している。
また、興味深いエピソードとしては、新撰組の近藤勇と立ち合ったと言うものまである。
明治37年発刊「物外和尚逸伝」によると、京の町を托鉢していた物外が新撰組の道場を覗いていたところ隊士らに見つかり、からかい半分で道場に連れ込まれたが、物外は手にした如意(棒状の法具)で隊士達をたちまちに叩き伏せたと言う。
すると「やめろやめろ。君たちの手に負える坊様じゃないぞ」と局長の近藤勇が出てきた。
近藤は、名乗りをして竹刀での立ち合いを求めたが、物外は坊主に竹刀は似合わんので、この椀でお相手つかまつろうと言い、ずだ袋から二つの木椀を取り出した。
新撰組の近藤の名を聞いても尚、この反応にムッとした近藤は、それならばと槍を取り出した。
抜き身の槍を目の当たりにしても一向に怖気づく気配の無い物外を見て、怒気が上がった近藤は、エエイッと大喝して槍を突き出したが、ひょいと身をかわした物外に槍の首元を木椀で挟み込まれた。
すると近藤が引こうが突こうがびくともせず、慢身の力を込めて引っ張ったところ、隙を見た物外に木椀を外され、近藤は勢い余って後方に吹っ飛ばされ尻餅をついたと言う。
大東流合気柔術 武田惣角

武田 惣角
たけだ そうかく
1859-1943
~上級武士の武術~
大東流合氣柔術 中興の祖
陸奥国(むつのくに)現在の福島県にて会津藩士の家に生まれた。
父親の惣吉は、宮相撲の力士であり、剣術にも秀でていたと言う。
幼少の頃より、相撲、柔術、宝蔵院流槍術、小野派一刀流剣術などを学び、13歳の時に上京して直心陰流剣術(じきしんかげりゅう)の道場に入門し内弟子となる。
その後、各派の剣術道場に出向いて他流試合を重ね、剣術の他には棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、手裏剣術、弓術など一通りの武技に精通していた。
10代の後半には、兄の急逝に伴い武田家を継ぐために呼び戻されたが、西南戦争に参戦するため直ぐに家を飛び出し、西郷隆盛軍に身を投じようとするが叶わず、九州各地を巡る武者修行の旅に変移した。
惣角は、道場を持たず請われれば何処へでも出かけて行って大東流合気柔術を指南したと言うが、いつどこで誰に何を教授したかの詳細な記録を残すと供に諸国を巡る中で様々な他流試合や野試合を敢行し、大東流合気柔術の実戦性を証明して見せた。
1904年頃、北海道を拠点として東北六県から関東まで広域に勢力を伸ばしていた博徒組織「丸茂組」を、単独で制圧したとする逸話が残されている。
幼少の頃は、寺子屋に行くのを嫌い「自分は一生字を書かない、人に書かせる立場になる」と誓ったため字が書けなかったと言われるが、後年その思いは実現する事になる。
裁判官、警察署長、軍高官などの社会的地位が高い人物らが次々と惣角の弟子や後援者となった為、それら弟子達に代筆させていたと言う。
猜疑心が強く、隙を与える事を嫌い、食事は相手が毒見するまで食べなかったとさえ言われている。
また、ある時に手裏剣術を教えている惣角を見て足の不住な生徒が笑った。「何が可笑しい」と惣角が問うと、その生徒は、「その様に尖っているものは、突き刺さって当然だ」と言い、おもむろに硬貨を取り出し、柱に投げつけたところ硬貨が柱に突き刺さった。
それを見た惣角は、以後は手裏剣述を教えなくなったと言われているが、これは創作話であろう。
また多数の門人の中には、合気道開祖として知られる上芝盛平もいた。
幼少時より、柔術剣術と各流派での修行を積み、剛力で鳴らしていた上芝であったが、惣角(そうかく)の多彩な決め技の前にねじ伏せられ、入門を決意したと言う。
惣角の外見は、羽織袴に高下駄を履いた出で立ちで頭には高山帽を被り、手には門人が寄贈した150cm程の鉄杖をつき、腰には脇差を差していたと言う。
柔道の鬼 牛島 辰熊

牛島 辰熊
1904-1985
~狂気の猛稽古~
異端の最強柔道家に迫る
明治神宮大会3連覇を初め、数々の武勇伝が語られると供に、その並外れた気性の荒さから「鬼の牛島 」と恐れられた。
柔道史上最強と言われる「木村政彦」の師匠であるが、牛島自身も木村に負けない実績を持つ強豪中の強豪である。
熊本県に生まれた牛島は、元々は剣道をしていたが、兄の影響で肥後柔術三道場の一つとされる扱心流(きゅうしんりゅう)柔術体術の道場に入門した。
この頃の熊本では技術体系が整備された講道館よりも、まだまだ古流の柔術が盛んであったと言う。
当時の対抗戦は、正に戦場を想定した苛烈な戦いであり、判定ではなく「参った」などの敗北宣言のみで勝敗を決していた。
時には、短刀に模した木刀を腰に差し、投げて組み伏せた相手の首元を木刀で掻き切る動作をして一本勝ちとなるルールさえあったと言う。
これは、古流柔術が、あくまで戦場での戦闘術であるとの考えに基づいている。
1929年、皇室の記念行事である「展覧試合」に参加した牛島は、予選は全て一本勝ちで進んだが、決勝戦で栗原民夫十段に判定で敗れた。
雪辱を誓った牛島は上京し、皇宮警察、警視庁、学習院などの師範を勤めながら猛稽古に励む。
あちこちへと出稽古に出かけ1日40本以上もの乱捕りを行なうなど猛稽古を重ね、稽古後は消耗しきって階段さえ登れなくなる程であったと言う。
食事も粥しか喉を通らずといった状態になるまで、さらに翌朝には硬直して動かない指を湯に漬けて少しづつ伸ばす必要があったさえ言うほどの凄まじい稽古であった。
これらの稽古で超人的な実力を身につけた牛島は、1931年、1932年と全日本柔道選手権を2連覇する。
しかし、1934年の皇太子生誕記念の展覧試合に出場した際は、敢え無く予選敗退となった。
寄生虫感染症により、体重が9kgも減って衰弱しきっていた牛島は、試合前の1ヶ月の間、洞窟に篭って座禅を組んだと言うが、体が動かぬのを精神力で補おうとした悲壮感には、如何にも牛島らしい姿が表われている。
結果は、敗北する事となったが、体調が万全であれば間違いなく彼が優勝していたと言われている。
しかし、武術家にとって「負けは死と同義である」と公言していた牛島は、即座に引退を決意し、以後は、木村政彦ら後進の指導に専念する事となる。
特に寝技を得意としていた牛島は、「柔道はあくまで武術であって、戦場で矢折れ刀尽きた時、最後は寝技によって生死を決するのだ 」と常々、口にしていたと言う。
その荒々しさ、性格の豪胆さを指して対戦相手からは鬼の牛島と恐れられ、畏敬の念を集めていた。
また、一面では思想家としての顔も持ち、石原 莞爾らといった当時の一流どころとも親交があり、戦争を止めさせる為に東条英機暗殺を企て逮捕される一幕もあった。
後に極真空手の大山倍達は、牛島を非常に慕うようになるが、牛島の柔道の強さだけに惹かれた訳ではなく、思想家としての生き様にも感銘を受けていたからとも言われている。
戦後の武道の衰退を嘆き、国際柔道協会としてプロ柔道を旗揚げしたが次第に行き詰まって潰れてしまう。
そして団体が消滅した後も、講道館は牛島にプロの烙印を押したままであった。
晩年になっても、その力は衰える事が無く、50代にして現役エース級の選手を相手に子ども扱いしていたと言う。
亡くなる前年の1984年には、講道館100周年を記念して九段に昇段しており、その実績からしても最高位十段でも不思議では無いと言われたが、異端視されていたためか柔道殿堂には入っていない。
武道の本質は勝つ事であると実直な思いを貫いた牛島の生き様は、今も多くの柔道家に語り継がれている。