元祖 太極拳伝説 張 三豊

張 三豊
ちょう さんぼう
1200年代
太極拳創始者の伝説
元・民の時代を生きた道教の導師であり仙人。内家拳の始祖であり太極拳を創始したとされる伝説的人物である。
幼少の頃より才知が抜群で、経典・歴史に精通しており、一度目を文章は、直ぐに暗唱する事ができたと言う。
1314年67歳の時に"火龍真人"と言う仙人から剣術や道教を学び、不老長寿の術を得たとされる。
1327年77歳となった張三豊は道教の聖地として名高い武当派剣法の総本山である武当山(ウーダンシャン)に上がる。
武当山とは、中国湖北省にある標高1600mの山と中腹にある道教の寺院である。
かの地で大極剣を極めると供に万物の根源である太極と陰陽五行からなる両儀四象(陰と陽の2つの力)の妙用により、太極拳を創造し、これにより仙人となった。
130歳なった張三豊は、一度息を引き取るも埋葬する段階で蘇る。
張三豊の名声が朝廷に伝わると1385年、明の洪武帝(朱元璋)は、137歳であった張三豊を招聘(しょうへい)するも辞退される。
さらに1417年に永楽帝が168歳になった張三豊を招聘するがまたも辞退された。
張三豊を題材とした小説やドラマ、映画など数多くの作品が作られている。
太極 張三豊
絶技 猛虎硬爬山 李 書文

李 書文
り しょぶん
1864-1934
八極拳の創始者
一撃で絶命させる拳打
中国、河北省出身の拳法家で李氏八極拳の創始者であると同時に"神槍"と称えられるほどの槍の名手でもあった。
貧しい農民に生まれ、生活苦から劇団に入ったが、練習中の怪我により家に戻された。
その後、武術家になる事を決心した李書文は、昼夜を問わず激し稽古に打ち込み、次第に誰からも一目置かれる存在になったと言う。
練習する際には、誰に対しても容赦がなく、常に対戦相手に怪我を負わせたり、死亡させてしまう事さえあった為、“李狼子”と呼ばれ恐れられていたと言う。
小柄で細身の体形であったが、見た目に似合わぬ怪力の持主であったと言う。
ある時、町一番の力自慢が李書文に力比べを申し込んだところ、李書文は長さ三尺(約1m)の鉄の棒を壁に突き刺し、これを抜いてみろと言った。
男は半日かけて棒と格闘したが、抜く事は出来なかったと言う。
また、李書文の得意技として知られる猛虎硬爬山(もうここうはざん)の鍛錬では、重さ100kg以上もある石製の農耕機具を2m以上も高低差のある畑の上段に投げ上げていたと言われる。
真剣勝負では負け知らずであり、山東省で行われた"鉄頭王"呼ばれる武術家との果し合いでは、「あなたは、私を三度打って良い、その後に私は一度だけ打つ」と言い放ち、怒気が上がった鉄頭王は渾身の力で書文を三度打つもびくともせず、次に書文が鉄頭王の脳天に強力な掌打を叩き込むと頭が胴まで沈み込んで即死したと言う。
当時、その比類なき強さを称えた“李 書文に二の打ちいらず”と言う、唄い文句が流行るほど、広く世間に知れ渡っていた。
また、数多く行った果し合いでは、初めの牽制の一撃で対戦相手を殺してしまう事さえあったと言う。
そして、"神槍"とまで讃えられた槍術は、六合大槍(長さ3m以上もある槍)を用いて、壁にとまった数匹のハエを壁を傷つける事なく全て突き落として見せたと言われている。
中国拳法大家による八極拳の指導
五祖拳の拳法家による壮絶な部位鍛錬
秘技 少林無影脚 黄 飛鴻

黄 飛鴻
ウォン・フェイフォン
1847-1924
~秘技 少林無影脚~
清朝末期の英雄伝説
中国最後の王朝・清朝末期の時代に活躍した武術家であり、中国近代史では、英雄として扱われる。
父親は"広東十傑"(広東の十人の達人)の一人に数えられた「黄麒英」(ウォン・ケイイン)であり、父親から南派少林拳の一派である"洪家拳"(こうかけん)を叩き込まれた。
洪拳とは、民の時代に西安に始まり、紅拳を元に様々な流派の技を組み入れて創始されたと言われている。
清朝において反政府組織であった洪門(三合会)として、少林寺に学んだとされる。
黄 飛鴻の一つに影が映らない程の速さで連続して蹴る"無影脚"(むえいきゃく)がある。
父親の厳しい教えのもと少年時代で既に師範クラスの腕前を持っていたと言われる。
自宅で漢方薬局を営む傍ら憲法道場も運営していた父親の後を引き継ぎ、清朝末期の治安が乱れた街中を自警団を率いて警護にあたっていたと言う。
彼を題材とした書物や映像作品は数多く作られており、余りにも伝説的な存在とされているため事実と相違する面も多分に見られるが、今なお近代中国史上最大の英雄の一人として人気を博している。
黄 飛鴻を題材にした映画