合氣道 開祖 上芝 盛平

上芝 盛平
うえしば もりへい
1833年-1869年
~合気道の開祖~
弾丸を躱す反射神経とは
数々の伝説を残す達人の中でも、一際異彩を放つ達人中の達人が上芝盛平である。その社会的功績を讃えて紫綬褒章、勲三等瑞宝章などの叙勲を受けている。
大東流柔術を初めとする柔術や剣術などの武術修行による成果を大本教や神道などの精神思想で纏め上げ、「和合の精神」「万有愛護」を理念とし「合気道」を創設した。
身長156cmの躯体から繰り出される技は、正に神技と言うに相応しく、巨体の力士でも難なく投げ飛ばすほどの理合いの境地に達しており、老境に至ってもなお数々の伝説を残した。
幼少時には、病弱で内向的な少年であったが、心配した父親が近所の子供達と相撲をとらせたりして盛平の体力と覇気を養うように勤めた。20歳になる頃には、短躯ながら75kgの筋骨逞しい重厚な体になっていたと言う。
その後、陸軍に入隊する事となり、日露戦争勃発後の1905年頃には伍長に昇進していたが、父親の反対により職業軍人の道を断念する事となり、後の1915年頃に大東流柔術の武田惣角と出会い入門する。
それまでの鍛錬により、剛力を誇っていた盛平であったが、当時54歳で身長150cmにも満たない惣角(そうかく)の理合に満ちた多彩な技に圧倒され、筋肉による力の限界を知ったと言う。
また、その後の1919年頃には、日本神道界の巨人である宗教家の「出口王仁三郎」と出会い、その思想に大きく感銘を受けた。
その後、1924年頃になると布教活動を目的とする王仁三郎と共に満州へと渡り、軍の特務機関斡旋の元で諸事に奔走しながら激戦の中を潜り抜ける。

満州での銃撃戦では、敵の銃弾が実際に飛んでくる少し前に同じ軌道で「光のつぶて」が飛んでくるのが見えたと言い、その光のつぶてを避ける事で実際の銃弾を避ける事ができたのだと語っている。
幾度も死の危機に晒されながらも、それらの奇跡体験が重なり、盛平と王仁三郎は、無事に生き延びて帰国を果たす。
その後も、”光のつぶて”や光の太刀筋などが事前に現れる現象が続き、それらを見切ることで相手が実際に振り下ろす木刀や当て身を難なく躱す事ができたと言う。
そして極めつけは、かの有名な行水中の黄金体体験である。
井戸端で行水をしていると、「突如として大地が鳴動し、黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」感覚に飲み込まれ、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神にある」との確信を得たと同時に「気の妙用」なる武術の極意に達したのだと言う。
その後も、皇族から政界、財界、警察、武道家、学校関係などで指導を行い、幅広く社会に貢献する人生を歩む。
入門に際しては、身元の確認できる2人以上の保証人を条件とするなど技の悪用を避ける為、厳格な規律を設けていたと言う。
1969年、86歳でこの世を去った翌日、長年に渡る社会的功績を讃え日本政府より「正五位勲三等瑞宝章」が追贈された。
生まれ故郷である和歌山県田辺市の扇ヶ浜公園には、盛平の力強い覇気を感じる石造が建てられている。
上芝盛平 指導映像
上芝 盛平 演武
最後の実践合氣 塩田 剛三

塩田 剛三
しおだ ごうぞう
1915年-1914年
~不世出の武術家~
実践合気道の神髄
父親が小児科の医師をしていた事もあり、何不住の無い裕福な家に生まれ育った塩田は、小学校時代から柔道や剣道を習い、18歳頃には、講道館柔道三段を取得する程の腕前になっていたと言う。
1932年、通学していた学校長の紹介により、上芝盛平の道場を訪れた塩田は、初めて見る合気道に胡散臭さを感じて、その場で道場主の植芝に手合わせを申し込んだ。
内心では、事前の打合せでも無ければ、倒されることは無いだろうと鷹を括っていたが、いざ植芝と向き合うと足がすくむ様な威圧感があり、次の瞬間には身体ごと数メートルも吹き飛ばされていたと言う。
合気道の凄さを身をもって経験した塩田は、即座に入門を決意し、その後の内弟子期間を含めた8年間を植芝の下で修行した。
身長154cm、体重46kgと非常に小柄でありながら、後に不世出の達人、生きた伝説とまで形容されたその豪傑ぶりは、正に達人と呼ぶに相応しい数々のエピソードに彩られている。
当時の米国大統領、ケネディ夫妻が来日した際には、ケネディの護衛を務める巨漢のSPを瞬時にねじ伏せて強さを証明して見せた。
また、反射神経を鍛える訓練では、水槽を軽く叩いて瞬時に反応する魚の動きに合わせて身のかわし方を練習するなど特異な鍛錬を行っていた事でも有名である。
塩田は、スピードとタイミングが重要であると説明し、日常の生活が即そのまま武道に繋がっていると説明していた。
達人の境地に達した塩田の身のこなしは、一見すると遊んでいるかの様にさえ見える。しかし、警視庁の機動隊で合気道研修を受けた者達によれば、あれは、まやかしなどでは無く、人体の構造を理解した本当の技であると評したと言う。
生前の塩田は、「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と語り、護身術としての武道の意義を説いていたと言う。
塩田剛三 演武の映像
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