華麗なるファイター シュガーレイ・ロビンソン

シュガー ・ レイ ・ ロビンソン
1921-1989
オールタイム~
パウンド・フォー・パウンド
史上最高の天才ボクサー
アメリカ、ミシガン州デトロイト出身のプロボクサーで、世界ミドル級、世界ウェルター級王者。
本名を、「 ウォーカー・スミス・ジュニア 」と言い、全期間、全階級を通じて最高のボクサーと称される“オールタイム・パウンド・フォー・パウンド”の評価を受けた。
1940年当時、現代のボクシング技術と比較しても遜色の無いリズミカルなフットワークに加えて、ジャブからダブル、トリプルのフック、ストレートへと繋げるコンビネーションなど高い技術を有しており、現代風ボクシングのパイオニアと言われる。
ミドル級では、5度に渡り王座を獲得し、過去から現代までのボクシングの歴史の中で並ぶ者が無いとさえ言われる。
少年時代に、デトロイトのスポース施設で「褐色の爆撃機」ことジョー・ルイスと出会い、彼の鞄持ちなどをしていたが、両親の離婚に伴って、ニューヨークのハーレム「ヘルズキッチン」へと移住した。
生活の為に映画館前で「タップ」を踏んで小遣い稼ぎなどをしていたが、13歳の時に警察署のジムでボクシングを始めると、その抜群のセンスに周囲から注目を受けた。
15歳になるとアマチュアの試合に出場し、180cmの長身と高い技術力で各上の年長者を終始圧倒したと言う。
その姿を観戦していた1人の記者が、「なんと“スウィート”(素晴らしく華麗な)なボクサーなんだ」 と感嘆の声を発したところ、その声を聴いた彼のトレーナーは「そう、シュガーのようにスウィートさ」と答え、かくして「シュガー・レイ・ロビンソン」の名が誕生する。
その後は、アマチュアボクシング界での快進撃が始まり、1939年にフェザー級、1940年には、ライト級のゴールデングローブを獲得し、アマチュアでの戦績は、85戦全勝、69KOと言う大記録を打ち立てた。
1940年には、ライト級でプロデビューを果たし、世界チャンピオンとなっていたジョー ・ルイスのトレーニングキャンプに参加する。
プロデビュー以来40連勝と言う途轍もない記録を打ち立てた後、世界ウェルター級王座に輝いた。
その後も世界の強豪を次々となぎ倒し、1950年には、ウェルター級王座を保持したまま、ペンシルベニア州ミドル級王座決定戦に出場すると見事勝利した。
後の防衛戦で欧州へと遠征に向うロビンソンは、豪華客船の一等船室の殆どを借り切り、マネージャーやトレーナーのみならず、スパーリングパートナーとその家族、通訳、コック、理髪師、マッサージ師や歌手までも引き連れた華々しい旅団となり、その姿はまるでマハラジャの様であったと言う。
翌年の1951年には、シカゴにてNBA(後のWBA)世界ミドル級王座に挑戦し、壮絶な死闘を制して王座を獲得する。
2度目の防衛に成功した後、3階級制覇を目指してミドル級王座を返上すると、同年、世界ライトヘビー級王座に挑戦したが、13回TKO負けを喫してしまい、試合後に引退を表明した。
しかし、1955年にカムバックを果たしたロビンソンは、復活を賭けて鬼気迫る進撃を開始する。
世界ミドル級王座に挑戦すると2ラウンドKO勝ちを収め、34歳にして通算3度目の王座に返り咲く。
その後、2度に渡って王座から陥落するも、1958年、実に5度目の王座獲得を成し遂げ、同年の「 リングマガジン ・ ファイト・オブ・ザ・イヤー 」に選出された。
その後、防衛戦を行なわない事を理由として、NBA( WBA )より王座を剥奪され、既に40歳となっていたロビンソンは、往年の華々しさに陰りが見え始めていたものの、再び世界王座に挑戦した。
しかし、6度目の王座獲得には至らなかった。
全盛期の派手な散財と事業の失敗などが重なり、40歳を超えても尚、生活の為にリングに上がり続けるしかなかったロビンソンに対して、評論家達は引退すべきだと酷評したが、ロビンソンは、「彼らは私に一杯のコーヒーも奢ってくれたことは無い、私は彼らの為にでは無く、私自身の生活の為に戦うのだ 」と反論した。
その後は、連敗続きとなり、1965年、無冠のままリングを去った。

同年、ニューヨークのマディソンスクエアガーデンにおいて、純白のガウンに身を包んだロビンソンは、かつての4人のライバル達が見守る中、リングに上がると四方に向って礼をした。
詰めかけた大観衆は惜しみない拍手を送り彼の偉業を讃え、史上最高のボクサーの名に相応しい引退セレモニーは閉幕した。
後年、ウェルター級で“スーパーエクスプレス”と形容された超天才ボクサー「シュガー・レイ・レナード」は、憧れのロビンソンにあやかって、シュガー・レイの名を冠した。
<生涯戦績>
200戦 175勝 109KO 19負 6分
Sugar Ray Robinson
永遠のチャンプ 大場政夫

大場 政夫
おおば まさお
1949-1973
青春を駆け抜けた永遠のチャンプ~
東京都出身のボクサーであり、第25代WBA世界フライ級王者。
5度の防衛に成功したが、不慮の事故により逝去した。
現役世界王者のままこの世を去ったため「永遠のチャンプ」と讃えられている。
ギャンブル好きの父親の影響で家計が苦しく極貧の環境下で育ったという大場は、父がプロボクシングファンであった事もありプロボクシングの世界王者となって母に家をプレゼントする事を人生の目標に定めていたと言う。
1965年、義務教育を終えると直ぐに有名ボクシングジムに入門し、翌年には、KO勝ちでデビューを飾るとその後も国内外の強豪選手を相手に激戦を繰り広げた。
心身共に成長して実力を付けた大場は、1970年、WBA世界フライ級タイトルに挑戦すると見事に王座を獲得した。
その強烈な右ストレートは、当時のアメリカのロケット弾に準えて「オネスト・ジョン」と呼ばれた。
そして、自らのファイトマネーで購入した一軒家を両親にプレゼントするという目標も叶え、5回の防衛も継続中で順風満帆、追い風を受けて快走中であった1973年、愛車のシボレー・コルベットを運転中に事故に遭い23歳の若さでこの世を去った。
怒涛の如く駆け抜けた大場政夫の伝説は、永遠のチャンプとして今も日本ボクシング界の語り草となっている。
プロボクシング戦績
38線 35勝 16KO 2負 1分
大場政夫VSチャチャイ・チオノイ
捨て身の連打 ピストン堀口

ピストン堀口
1914-1950
日本ボクシング伝説の男
脅威の176戦~
82KOを誇った拳聖の足跡
栃木県出身のボクサーで、父親は警察署長をしていた。
本名である堀口恒夫が選手名であり、一般的に知られる「ピストン堀口」は、正式なリング名でもなく、そのファイトスタイルがピストン戦法と呼ばれていた事により、いつの間にかピストン堀口の名が定着するようになった。
日本ボクシングの象徴とも言われ、拳聖と讃えられるほど戦いの連続であった。
日本及び東洋フェザー級、日本ミドル級王座を獲得しており、4人の兄弟達も皆ボクサーであったと言う。
中学時代には、柔道部の主将を務めるなど県下でも有名な強豪選手であった堀口は、同じ中学の先輩であり“日本ボクシングの父”と讃えられた渡辺裕次郎から度胸と才能を買われ、上京すると渡辺が主催する日本拳闘倶楽部に入門した。
入門から僅か半年後の初試合でKO勝ち収めると翌年にはプロデューを果たし、その後も次々と試合を重ね実に47連勝という大記録を打ち立てた。
かくして東洋チャンピオンとなった堀口は、世界クラスの実力を備えていたが、太平洋戦争などの影響もあり世界王座を獲得する機会には恵まれなかった。
対戦相手をロープ際に追い詰めて休まぬ左右の連打を浴びせるラッシュはピストン戦法と名付けられ、10分間の連続ミット打ちでも息切れしないほどの驚異的なスタミナを有していたと言う。
対戦相手が放つ無数のパンチを顔面に被弾しながらも一向に気にする事なく、ひたすら前に出て捨身のラッシュを相手に浴びせる闘争心むき出しのスタイルが観客達を熱狂の渦に巻き込んだ。
一説には、この堀口もまた、漫画「あしたのジョー」のモデルではないかと言われている。

日本では熱狂的な人気を得たピストン戦法であったが、1936年にハワイで行った試合では、フットワークやディフェンスを主体としたアメリカのボクシングに比べると野蛮であり、ボクシングと呼べるものではないとの酷評を受けた。
これを切欠に攻撃中心の戦法からディフェンスや精神面の修養を行う様になり、合気道の植芝盛平の道場を訪ねるなど武道における理合(りあい)を学んだ。
戦後は、ボクシングの他に探偵業などもしていたが、ボクシングを引退した直後の1950年、泥酔して線路上を歩いていたところを貨物列車に跳ねられ命を落とした。
神奈川県茅ヶ崎市の海前寺にある堀口の墓碑には、「拳闘こそ我が命」との力強い文字が記されている。
プロボクシング戦績
176戦 138勝 82KO 24負 14分
唄/ピストン堀口 リングの王者