伝説のギャングスタ- ラッキ- ・ルチアーノ

ラッキー ・ ルチアーノ
1897-1962
~シチリアの晩祷~
ゴッド・ファーザーの眼差し
本名は、サルヴァトーレ・ルカーニアと言うが、サルヴァトーレの名を"サリーちゃん"と揶揄われた事からチャールズ・ルチアーノと名乗るようになった。
若き日に対立組織に捕まり、凄惨な拷問を受けて生死の挟間を彷徨ったが、奇跡的な生還を果たしたことでチャールズ・ラッキー・ルチアーノと呼ばれるようになる。
顔面を刃物で切り刻まれるという凄惨な拷問により、右瞼が垂れ下がるなど多くの傷跡を残したが、後年、ルチアーノに面会した者によると写真で見るよりも遥かにハンサムで気品があり、洗練された身のこなしと知性に富んだ言動から強烈なカリスマ性が感じられたと語っている。
イタリアンマフィア四大組織の一角を成すコーサ・ノストラの最高幹部であり、古くから続くマフィア組織の伝統に縛られる事なく、ビジネス主体のクライムシンジケートとして再編した組織改革者であり、いわゆるボスの中のボスと称されるゴッド・ファーザーに相当する人物であった。
コーサ・ノストラとは、古代シチリア語で「我々のもの」との意味を持ち、主にアメリカにおけるイタリア系犯罪組織が集結した連合組織体である。
この連合組織体の上部には、コミッションと呼ばれる中央幹部会が組織され、参画組織のトップ達がコミッションの構成員となる事で合議制に基づいた裁決を下す。
マフィアの世界では、古くからボス達が集まって会合を開く習慣があったが、ルチアーノは、これをより先鋭化させた近代的な組織へと昇華させた。
カステランマレーゼ戦争に代表される数々の抗争を生き抜いた経験から、マフィア同士の抗争が不毛な悲劇しか生まず、ビジネスの大きな支障となる事に危惧したルチアーノは、5つの主要組織(五大ファミリー)から成るコミッションを組成し、その筆頭格となる事でアメリカ裏社会の掌握に成功した。
マフィアの歴史を振り返ると17世紀頃に遡り、元来は、外敵の侵略から農地を守る為に武装した農地管理人(ガベロット)が起源であるとされている。彼ら武装管理人は、領主に雇われて農場を守る一方で小作人農家を支配下に置き、利用する立場にあった。

古代シチリア ガベロットの肖像
マフィア発祥の地とされるシチリア島も、数世紀に渡り外国から支配を受けた歴史がある。
古代ギリシャ時代は、領土紛争の対象地となり、ローマ時代には、ローマの属州となり農作物の生産地として支配され、中世に入ると東ローマ戦争を経てシチリア王国を樹立させるも1200年代に入るとスペイン王国による支配が始まり、その後もフランス、オーストリアの王族達による支配と搾取の歴史が続いた。
そうして18世紀後期に入り、ようやくイタリア王国に統合されるに至るが、長らく外国の支配下にあった影響で国内に入り乱れた様々な思想が国政に介入し、利権の争奪を繰り返す不安定な政権となっていた。
これに不信感を抱いた地主や領民達は、時の政権を信用せず、自力救済によって治安と財産を守るべく結社したのが、近代マフィアの始まりと言われている。
“マフィア”の語源には諸説あり、かつて支配を受けた国々に対する憎悪の言葉に由来する説、或いは、古代ギリシャ語で「名誉ある男」を意味する“マフィオーソ”などが知られている。
名誉ある市民、名誉ある社会などの思想は、古くからシチリア島に来歴する土着の気風であり、またマフィアの行動原理の一つが「名誉」である事からマフィオーソ説が有力視されているが定説ではない。
![]() シチリア最初のゴッド・ファーザー |
組織内で何らかの主張や行動を行う際には、必ずコンシリエーレを経由する必要があり、個別の関係性が生まれないよう制御する事で全体の動向が掌握できるよう統制されている。
全てにおいて現実主義かつ実力主義を貫く彼らの社会では、自分に都合の良い曖昧な憶測や思い込みが死に直結する事も多い為、他者に疑念を生じさせる行動を慎み、裏表が無く、一貫した行動に見える事が重要となる。
また、組織内の絶対的なルールとして、血の掟「オメルタ」と呼ばれる規約がある。
全10条からなるこの規約に反した者は、死を以て償う事とされている。組織に加入する際は、手のひらにマリア像など小さな聖人の模型を紙に包んで乗せ、オメルタの条文を朗唱すると共に火を付ける。
掌上で燃える聖人の模型を見つめながら、もし、オメルタに違背すれば、その聖人と同様に炎に焼かれるという誓いのイニシエーションである。
組織に対する絶対的な服従と忠誠心、そして“名誉”を重んじる傾向が色濃く表れたオメルタの規約には、窃盗を働いてはいけない、妻を大事にする等の基本的な倫理に基づくことの他、第三者が同席する場合を除いて他組織の構成員と1人で面会してはならないとの条項がある。

裏切りはおろか、その手前の疑念を生じさせる行為自体にも厳罰を処すという極端な現実主義である。
常に一寸先が闇である彼らの世界観では、性悪説を前提とする思考が生き延びる為の最善策である事が窺える。
オメルタの規約により抑制された組織体制は、マフィアと言うよりも秘密結社に近いという指摘もある。
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ラッキー・ルチアーノは、1897年、シチリア島パレルモ県の農村で貧しい労働者家庭に生まれた。
生活に苦しむ家族は、アメリカに行けばシチリア島の年収を1日で稼げるとの甘言に魅せられ、一家全員でニューヨークへと移住する。しかし、行き着いた先には、噂話には程遠い、不衛生で極貧極まりない地獄の生活が待っていた。
スラム街で悪夢の様な日々を送る少年ルチアーノは、次第に悪の道へと足を踏み入れて行く。

イタリア系の少年ギャング団に加入すると同じスラム街で暗躍するユダヤ系やアイルランド系移民の少年ギャング達との親交を深めた。
![]() シカゴのボス アル・カポネ | ![]() 最高幹部で親友のランスキー |
後年、シカゴのボスに君臨するアル・カポネを始め、生涯を共にするマイヤー・ランスキー、その弟分で後に砂漠のど真ん中にラスベガスを創り上げるベンジャミン・シーゲルらとも、この頃に知り合っていた。
![]() ラスベガスを創った男 | ![]() ラスベガス初のカジノホテル |
少年時代に出会った彼らが、後にアメリカ全土を席巻するほどの強大な犯罪組織コーサ・ノストラの最高幹部にまで上り詰めるサクセスストーリーは、多くの小説や映画の題材となり、後年、広く世間に知れ渡る事となる。
イタリアンマフィアは、大きく分けると四大組織に分類されるという。
イタリア南部の都市ナポリを拠点とするカモッラ、同じく南部カラブリア州を拠点とするンドランゲタ、南部プーリア州を拠点とするサクラ・コローナ・ウニータ、そしてアメリカニューヨーク州を拠点とするコーサ・ノストラである。
コーサ・ノストラ・シチリアーナとも呼称される事から、シチリア島に系譜を持つイタリア系マフィア組織であるとされているが、ルチアーノの親友で最高幹部であるランスキーやベンジャミン・シーゲルは、元々は、ユダヤ系のギャングであった。
1900年代初頭のニューヨークのスラム街では、ドイツ系やイタリア系を始め、ユダヤ系、アイルランド系といった移民達が多く暮らす居留区となっていた事もあり、ルチアーノ達の世代では、古いマフィア社会が持つ閉鎖的な感情を払拭し、現実的でグローバルな組織形成が行われた。
コーサ・ノストラの存在は、1960年代に入るまでアメリカ当局でさえ認識しておらず、血の掟オメルタを破って裁判の公聴会で証言したジョゼフ・バラキ、トンマーゾ・ブシェッタ、モンタナ・ジョー(衛藤健)等の構成員の証言により初めて明かされることとなった。
ブシェッタは、当初、コーサ・ノストラに協力する人物として、イタリアの政治家ジュリオ・アンドレオッティの名を挙げていたが、その後、多数の関係者に関する証言を断念したと言う。
それは、その者達の名前を聞いても誰も信じないし、自分が気狂い扱いされるだけだからと語っている。
![]() 元イタリア首相 |
証言台を降りた彼らは、組織の報復から逃れる為にアメリカ当局が用意した証人保護プログラムによって戸籍や顔を変え、終生、警察の保護下で暮らしたという。
元々は、外敵から身を守る為に組織されたマフィアが、1930年代のアメリカでは、莫大な財力を背景に闇の権力を掌握し、警察権力ですら及ばない強大な組織へと変貌を遂げた。
10代の頃より、無類の商才を発揮していたというルチアーノは、成長するに従って暗黒街でもメキメキと頭角を現し、30代前半にして年間2000億円以上を稼ぎ出す超大物になっていた。
マンハッタンの高級ホテル、ウォルドルフ・アストリアを住居として政界、財界、芸能界など多数の著名人達と親交を持ち、彼らに多額の資金提供を行う闇の投資家として強大な権力を有していた。
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毎晩の様に美女達を引き連れて夜の社交場に現れる姿は、栄華を極めた青年実業家さながらの華やかさがあったと言う。
後年、ある社交場にて、裏で献金していた政治家が笑みを浮かべながら次から次へと握手を求めにやって来た時は、経済力の凄まじさを思い知ったと語っている。
![]() 元ニューヨーク州知事 トマス・デューイ |
そんな絶頂期にあったルチアーノを“公共の敵”と定め、検挙に燃える野心家の検事、トマス・デューイにより、ルチアノーの犯罪が、次々と白日の下に晒される事となった。
デューイの執拗な追求により、麻薬や殺人など多数の犯罪を認めざるを得なかったルチアーノであるが、強制売春だけは神に誓ってやっていないと証言した。
しかし、当局は、ことさら名誉を重んじるマフィアのイメージダウンを図ることで、世論を味方に付けたいとの思惑があった。
多数の証言をもとに禁固50年の有罪判決を受けたルチアーノは、刑務所に下獄する身となる。
刑務所では、ラジオを聞いて新聞を読み、労働のない快適な生活を送りながら外部に指示を出していたルチアーノであったが、もう生きて出獄する事は無いと思われていた。
しかし1941年、第二次世界大戦を切欠に転機が訪れる。

港湾におけるスパイ監視などの諜報戦には、ニューヨーク港を支配下に置くマフィアの力が必要であると考えた軍部は、収監中のルチアーノのもとを訪れ、協力を要請した。
これをチャンスと見たルチアーノは、その対価として刑期短縮などの司法取引を持ち掛ける。軍部が要求に応じると直ぐさま配下に命令を下し、諜報戦の裏方を担う事となった。
そして、終戦を迎えた1945年、この功績が認められたルチアーノは、50年の刑期が10年に短縮され、晴れて釈放される身となる。
だが、米国市民権の復権までには至らず、イタリアへの強制送還が条件となった。
1946年2月、豪華客船の船内に最高幹部らが集まり、ルチアーノの盛大な送別会が開催された。
ルチアーノを乗せた客船は、永年の仲間達に見送られながらニューヨークを出港し、生まれ故郷のシチリア島パレルモへと向かった。
図らずも、帰郷を果たしたルチアーノは、その後もイタリア国内外を転々としながらマフィア組織の統制と各種の事業に精力を注いだ。
スカラ座のバレリーナを愛人とし、毎日のように趣味の競馬観戦と高級ホテルで暮らす優美な生活を送りながら、世界中に張り巡らされた麻薬の生産拠点及び搬送ルートを掌握する麻薬王として君臨する。
1957年、かねてからのルチアーノの呼びかけが実を結び、シチリア島とアメリカを拠点とする主要なマフィア組織のトップが一同に集まるマフィアトップ会議が開催された。
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シチリア島パレルモの高級ホテル「パルメ」にて4日間に渡り行われたこの会議は、それまでフランスマフィアが独占していたマルセイユ経由でアメリカに運ばれる麻薬ルート「フレンチ・コネクション」に対抗するべく、シチリアからアメリカ経由で欧州各地に麻薬を供給する新ルートの確立が裁決された。
その後の1962年、極貧から立ち上がり、幾多の死線を乗り超えながら巨大組織を作り上げた希代のギャングスターに最後の時が訪れた。

自身の半生を描く自伝映画の製作者を空港まで出迎えに行く途中に倒れ、64年の生涯を閉じた。
コーサ・ノストラは、オメルタに反するとしてルチアーノの映画製作に猛反対していたと言われるが、後年、多数のマフィア映画が製作され大ヒットを記録した事は周知の通りである。
送還当初は、直ぐにアメリカに帰れると考えていたルチアーノであったが、生きて再びアメリカの地を踏む事は無かった。
伝説のギャングスターは、今もニューヨークセントジョーンズ墓地に眠っている。

ルチアーノの墓標
ニューヨーク/セントジョーンズ墓地
カリブの女海賊 アン・ボニー

アン ・ ボニー
1700-1782
~カリブ海に輝く女海賊の伝説~
アイルランド共和国の最南端都市であるコーク県にて、弁護士をしていた父親とメイドとの間に私生児(父母が婚姻関係にない子)として産まれる。
父親は、不貞を犯した事への贖罪の思いから妻子と別れ、アンと母親を連れてアメリカサウスカロライナ州チャールストンに農場を購入し移り住んだ。
勝気で男勝りな性格へと成長したアンは、退屈な農場生活に嫌気がさして三流海賊のジェームス・ボニーと恋仲になり、父親の反対を押し切って西インド諸島バハマへと駆け落ちする。
そうして辿り着いたニュープロビデンス島の都市、ナッソーは、当時海賊共和国と呼ばれるほど無法者の拠点となっている町であった。
当初は、夫ジェームズと共に居酒屋を経営するなどして生計を立てていたが、ある時、店にジョン・ラカムと言う男がやって来た。
ラカムは、国の特赦により陸に上がっていた海賊であった。
アンはラカムの颯爽とした男っぷりに一目惚れし、ラカムもアンの美貌と勝気な性格が気に入り、二人は恋仲になってゆく。

ジョン・ラカム(キャリコ・ジャック)
アンは、夫に手切れ金として店の権利を譲り、海賊業を再開すると言うラカムに連れられ、にカリブの海へと船出する。
当時の掟では、女性は海賊にはなれず、乗船が認められていなかったため、アンは常に男装して誤魔化していたが、海賊仲間の間では女性である事は広く知られていた。
元来、勝気で男勝りな性格のアンは、屈強な海賊達に混じって大海原を駆け回った。
ある時、アンは、ラカムが襲った船の乗組員で新た手下に加わった者の中に美しい顔立ちの美少年を発見した。
アンはその少年がとても気に入り誘惑しようとしたが、それは自分と同じく男装して船に乗り込んでいたメアリー・リードであった。
美少年が女であった事実にアンはひどく落胆したが、ならば仕方が無いと割り切ると恋心はやがて友情へと変わり、それまで以上に強い絆で結ばれるようになった。
ほどなくアンとメアリーの異常に近い関係を怪しんだラカムは、メアリーに銃を向けるとアンとの関係を問いただした。
するとメアリーは、洋服の胸をはだけて自分も女である事を示しラカムを納得させた。
むしろ二人の関係を面白がったラカムは、特に問題ともせず、その後も変わりなく海賊業に勤しんだ。
かくして、大勢の荒くれ男達の中にただ2人の女海賊となったアンとメアリーは、友情を超えた深い絆で結ばれるようになり、共に助け合いながら男達よりも勇猛果敢に活躍した。
アンは大柄で戦闘力に優れた銃の名手であり、メアリーは剣技に秀でていたと言う。

メアリ・リード
ラカムの海賊団は、小さな商船などを専門に襲う比較的に小規模なグループであった。
それゆえに逃げ足も速く、大掛かりな掃討作戦では、なかなか捕まえられずにいた。
1720年、ついに業を煮やしたバハマ総督により派兵された捕縛船団は、ラカム海賊団を捉えるために八方からの総攻撃を仕掛ける。
この時、ラカムを含めた男達は、皆酒に酔って志気が下がっており、バハマ船団の急襲に怖気づいて、そそくさと船倉へと逃げ込んでしまった。
しかし、アンとメアリーの2人は、勇猛果敢に戦い最後まで抵抗したが、ついに捕らわれの身となった。
当時の海賊は、捕まれば縛り首と相場が決まっていたが、例外なく裁判でも死刑が言い渡された。
アンとメアリーが妊娠している事を主張すると処刑により胎児を死なせてはならない法律に基づき、刑の執行は出産終了後まで延期されることになった。
その後、彼女達の刑が執行された記録が無く、釈放されたのかどうなったのかは解らない。

ジャマイカの切手
一説によると、アンは有力者であった父親の助力を得て放免され、サウスカロライナに戻って再婚し、多くの子宝にも恵まれ長寿を全うしたとも言われている。
カリブの女海賊として、今なお語り継がれる彼女達の伝説は、未だ多くの謎に包まれたままである。
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