武 心 中山 博道

中山 博道
なかやま はくどう
1872-1958
~剣術家の眼差し~
武と競技の違いは心にあり
神道無念流剣術、杖術、夢想神伝流居合術範士。
大日本武徳会より、史上初の剣・居・杖の三道での範士号が授与された稀代の剣術家である。
旧加賀藩士の家柄で、現在の石川県金沢市に生を受ける。明治維新の混乱などで没落し、8歳にして商家へ丁稚奉公に出された。
働きながら剣術、柔術を学び18歳の時に神道無念流の道場に入門すると27歳で免許を取得、28歳で師範代を務めるまでになった。
その後、道場を継承した中山は、神道夢想流杖術及び、無双神伝英信流居合術を修め、大日本武徳会から前人未到の三範士号を授与を受ける。
道場の内弟子となった頃の中山は、身長160cm、体重60㎏足らずの貧弱な体格であったが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでと言う厳しい修行を行い、高度な技術を身に付けたという。
終戦後は、戦犯容疑者として収監を余儀なくされたが、その後は、剣道団体名誉職に名を留めた。
1957年、全日本剣道連盟より初の「剣道十段位」授与の打診を受けたが、十段位制度に反対した中山は受け取らなかった。
現代剣道に強い影響を与えはしたが、中山自身はスポーツ的な剣道には批判的であり、後年の全日本選手権大会を見て、「選手達の竹刀捌きは、私から見て器用につきてはいるが、所詮あれでは竹刀捌きであって、忌憚(遠慮の意)無く申し述べれば追第点をつけられる者は誰一人いない。よって、同大会を竹刀選手権と改称された方がよいとさえ存じている。」と手厳しく批判している。
また、「竹刀による競技でも差支えないと一部の人々は言うが、元来この二つは一つのものであり、二つに分けた事がそのもそもの誤りであって、武道に新古は無い」とも語り、「この区別は大変な誤りであり、竹刀剣道も古武道の形も皆一体となるのが当然であるが、今日の若い修行者は竹刀で修める稽古と形や居合の教えとは別ものであると考えているに相違ない。
これは、私等の重大な責任であると深く御詫び申しあげて置く次第である。」とも述べている。
また、居合については、競技的な勝敗を目的としない刺激の無い一人稽古の様式から、次第に慣れが生じ、ただ抜き切り差し納めるを繰り返すうち、自らの刀法が起用者然りとして漫じないまでも其れに近い考えとなる傾きが多い」と述べ、試し斬りにおいても単なる据え物斬りや曲芸斬りになることを批判している。
杖術、柔術、弓術などにも精通していた中山は、合気道創始者の植芝盛平とも親交があり、高弟を植芝の道場に派遣して剣術指導をさせるなどもした。
また、本土に伝わった頃の唐手を低俗な武道と見なす武道者が多い中、中山はいち早く唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による剣術である」と評価したと言う。
弟子への指導は大変に厳しく、範士や教士であっても打ち据えて叱咤したと言われ、門弟に対しては褒める事は滅多に無いが、門外の者には甘く、よく褒めたと言う。
道場内での衛生面には非常に気を使い、白色の稽古着、袴を採用した。白は汚れが目立つため頻繁に洗濯する者が増え、衛生状態が良くなったという。
当時、白袴は神官が履くものであり、剣道家が履くのは奇異とされたが、その後に普及し、現在でも皇宮警察の剣道家は白道着、白袴を正装としている。
中山 博道 演武の映像
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