幻の王者 森 寅雄

森 寅雄
もり とらお
1914-1969
∼早すぎた天才剣士∼
アメリカ剣道連盟会長
剣道八段範士
群馬県桐生市に生まれ、北辰一刀流四天王の一人として高名な森要蔵を曽祖父に持ち、幼少の頃より母方の伯父である講談社創業者「野間清治」の家で育つ。
中学の剣道部に入部すると腕前はめきめきと上達し、中学校全国大会で優勝、明治神宮体育大会剣道競技では個人優勝を果たした。
1934年、天覧試合(皇室の記念行事である武道試合)の予選に出場するが、1回戦で敢え無く敗退する。
対戦相手は、寅雄の従兄であったが、一説には従兄に華を持たせる為に故意に勝ちを譲ったのではないかと言われている。
三年後の1937年、新天地を求めてアメリカ合衆国へと渡った寅雄は、その地でフェンシングに出会う。
当初は片手間に嗜んでいたものの、試合に負けた事から真剣に練習する様になり、翌年、南カリフォルニアフェンシング選手権に出場すると見事に優勝。
続いて、カリフォルニア代表選手として出場した全米フェンシング選手権では、準優勝を果たした。
決勝戦では、排他的な人種差別主義者である審判員の判定により敗れたとも言われ、実際には、誰の目から見ても寅雄の勝利は明らかであったと言われている。
判定に負けたとは言え、わずか6カ月間の練習で実質的な全米チャンピオンになった事は、フェンシング界を驚愕させると共にその強さと名前に由来した「タイガー ・モリ」の名で呼ばれ、多くの人々から絶大なる賞賛を受けた。
1940年に予定された東京オリンピックでは、寅雄のメダル獲得が期待されていたが、第二次世界大戦の影響により開催が中止され、出場は叶わなかった。
類まれな才能を持ち、トップクラスの実力を備えながらも時の事情により、選手としての栄光を手にする事は出来なかったが、その後1960年からローマ、東京、メキシコへと続いたオリンピック3大会では、アメリカフェンシングチームのコーチを歴任した。
自身のメダル獲得こそ叶わなかったが、その本物の実力と功績を称え「幻の王者」との異名で親しまれ、剣道界、フェンシング界に於けるその教えは、今なお後進の人々によって受け継がれている。
その後のオリンピック大会において日本人のフェンシング選手がメダルの獲得を果たすのは、寅雄のメダル獲得が期待された時から実に60年後の事であった。
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