最強の漢 木村 政彦

木村 政彦
きむら まさひこ
1917-1993
~真の強者は飾らない~
純粋に強さを求めた漢の伝説
全日本柔道選手権大会で13年連続優勝、皇室の記念祭典として行われる「天覧試合」での優勝を含め、15年間無敗のまま引退した伝説の柔道家である。
曰く、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と称えられるほど柔道史上最強との呼び声が高い。
また、その荒々しい試合運びから「鬼の木村」の異名で恐れられていた。
熊本県の出身で、幼少の頃より父親の職業であった砂利取り作業を手伝い、強靭な足腰を養成したという。
10歳で竹内三銃流の柔術を学び、猛烈な鍛錬を重ねた結果、高校生の時点で講道館柔道四段位を取得するほどの実力であった。
大将として参戦した全国大会では、圧倒的な強さで優勝を果たし、「九州の怪物」との異名を全国に知らしめた。
1935年「鬼の牛島」こと、牛島辰熊の門下生となり、1日10時間以上の猛稽古に励み、さらなる強さに磨きをかけた。
1937年から全日本選手権大会3連覇、さらに1940年の皇室祭典、起源二千六百年奉祝展覧武道大会に出場した際には、全試合一本勝ちの圧倒的な強さで優勝を果たした。
その後、第二次世界大戦の兵役で柔道から遠ざかるが、1949年の全日本選手権では、以前と変わりなく圧倒的な強さで優勝を果たし、その後、実に13年間無敗と言う、驚異的な記録を打ち立てた。
その超人的な強さの背景には、常識離れした激越な猛稽古があった。
日中は、拓殖大学での稽古に始まり、その後に警視庁や皇宮警察の道場に出向いての稽古を行い、夜には、大木に巻きつけた帯を両腕で引き込む1000本の打ち込み稽古を毎日続け、遂には、大木一本を丸ごと枯らしてしまったと言う。
また、就寝中には練習が出来ていないとの思いから、睡眠時間を1日3時間に定め、さらに就寝時にもイメージトレーニングをしながら眠りにつくほどの念の入れようであった。
その上、柔道だけでなく剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い詰め、打撃技の習得に取り組んだ。
その結果、松濤館では師範代を務めるまでになっていたと言う。
常人の理解を超える木村の超絶的なパワーは、これまた尋常ではない特異なトレーニング法によって養成されていた。
ウエイトトレーニングにおいては、回数を区切りとはせず、100kgのベンチプレスを1時間1セットの基準で何度でも繰り返した後に1000回の腕立て伏せを行うという、正に狂人的な鍛錬法であった。
ある夏の日に師匠の牛島が木村に風を扇いでくれと言ったところ、木村はその場の畳を持ち上げて扇子のように扇いで見せ、牛島をも驚かせた。
また、両腕を真横に伸ばした状態から肩に乗せた100kgのバーベルを転がす事もできたと言う。並の人間ならば、ひとたまりも無く押しつぶされるであろう。
身長170cm、体重85キロの体は、当時の柔道家としては決して大きくは無かったが、木村の強靭な肉体から放たれる大外刈りは、一種の蹴り技の様に打撃的な効果があり、失神する者や脱臼する者が余りにも続出した為、講道館では、木村の大外刈禁止令を出すに至ったという。
1950年頃には、師匠の牛島辰熊が旗げしたプロ柔道に転向し、プロの試合でも無敗のまま、連勝街道を突き進んだ。
当初は、人気を博したプロ柔道であったが、次第に客足が減り、経営不振に陥ると給料の不払いも続いて生活苦に陥る中、最愛の妻が突然の病に倒れた。
治療費の捻出に苦悩した木村は、意を決してプロ柔道を辞め、日系実業家による柔道巡業の誘いを受けてハワイへと渡航する。
ハワイでの柔道巡業は人気を博していたが、そこに目を付けたプロモーターからの誘いを受けて、次は、プロレスラーへと転身する。
その後、ブラジルに渡った木村は、コンデ・コマこと前田光世の柔術を継承するエリオ・グレーシーと対戦し、棺桶まで用意して決死の覚悟で挑んだと言うエリオの腕をへ折って勝利する。
腕の骨が砕けても、ギブアップを拒否するエリオを静止するため、セコンドがタオルを投げ込み、ようやく木村の一本勝ちとなるほど壮絶な試合であったという。
後に95歳まで生きたエリオ・グレーシーは、「私はただ一度、柔術の試合で敗れた事がある。その相手は偉大なる柔道家、木村政彦だ。彼との死闘は、私にとって生涯忘れえぬ屈辱であり、同時に誇りでもある 」と語っている。
帰国した木村は、プロレスラーとして本格的な活動を始め、力道山とタッグを組んで連戦連勝を重ねると日本中を歓声の渦に巻き込んだ。
しかし、ショービジネスであるプロレス試合においては、いつも引き立て役に甘んじる自分のポジションに不満を募らせていた。
そして勢い余って、「力道山が相手でも真剣勝負なら負けはしない」と新聞紙面上で発言してしまうのである。
これに激怒した力道山は、プロレスラー日本一の座をかけて木村との真剣勝負を申し出た。
疑惑の試合と言われた昭和の名勝負は、木村のKO負けに終わる。
生粋の武人であり柔道家である木村正彦がプロのリング、興行の世界へと足を踏み入れたのは妻の結核治療の費用を捻出する為であり、その治療のおかげで妻は一命を取り留めた。
人知を超える努力を積み重ね、人間離れした肉体を誇った漢のプライドは、試合に勝つ事よりも最愛の妻の命を守る道を選んだのかも知れない。
木村雅彦VSエリオ・グレイシー
木村雅彦 技術指導の動画
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