最強の女流剣士 園部 秀雄

園部 秀雄
そのべ ひでお
1870-1963
~最強の女流武人~
直心陰流薙刀術十五代宗家
生涯で負けた試合は2回のみ。近代薙刀術史上最強の女流武人。
現在の宮城県大崎市、仙台藩士の家の六女として生まれた。
幼名を「たりた」と言い、後継ぎを望んでいた父親の「もう女は足りた」との思いから名付けられたという。
父親は、仙台藩馬廻役をしていた日下陽三郎という武士であり、騎馬を操り大将の周辺警護から伝令まで、側近警護を担う親衛隊のような要職についていた。
幼少の頃から父親の馬を乗り回す活発な少女であったタリタは、15、6歳になっていたある日、町内で開催された直心新陰流の門人達による剣術試合の見世物、「激剣興行」を観劇する。
華麗な剣裁きや立ち回りに魅了されたタリタは、父の激しい反対を押し切って一行と行動を共にする。
激剣興行では、「美少女剣士」として人気を博したと言う。
激剣興行に参加しながら、直心陰流( じきしんかげりゅう )薙刀術の指導を受け、稽古熱心なタリタは朝夕千回の素振りを欠かさず、腕前はめきめきと上達した。
2年後には、早くも実力を認められ、直心陰流薙刀術の印可状(免許)を受けると共に師匠から”秀雄”の名を拝命し、以後は、タリタから日下秀雄と改名する。
その後、二十歳を少し過ぎた頃に同じ激剣会の剣術家と結婚し、一子を設けたが直ぐに夫と死別してしまい、幼子を抱えての巡業は困難であることから子供は養子に出されたという。
それから10年の歳月が流れた1891年、直心陰流薙刀術の宗家を継承すると同時に剣術、鎖鎌術の2代宗家であった園部姓の武術家と再婚し、園部秀雄となった。
1899年、第4回武徳祭大演舞大会に唯一の女性武道家として出場し、幕末の京都において何度も人を切った実戦経験を持つ剣術家との異種試合に挑み、これを圧倒する。
その後も、夫が主催する道場で指導する傍ら、各所の学校でも薙刀術の指導を行い、1926年には、その永年の功績を讃え、大日本武徳会より薙刀術範士の称号を授与された。
名だたる剣術家や槍術家たちと数百回に及ぶ試合を行い、それらを総なめにしたと言う。
秀雄は弟子達に武道の生活化を説いていたと言われ、それは薙刀の稽古に集中するあまり女性のたしなみとしての家事などを、おろそかにしてはならないと言う意味であった。
秀雄自身、多忙であっても日々の掃除は欠かさず、雑巾はいつも降ろしたての様な綺麗なものを使っていたと言う。
直心新陰流薙刀術 演武の映像