幕末の虎 近藤 勇

近藤 勇
こんどう いさみ
1834-1868
~時代の寵児~
勇み足の青春群像劇
武蔵国多摩群上石原村 (現:東京都調布市)の農家の三男として生まれ、幼名は「 勝五郎 」と言った。
1849年、勝五郎15歳の時、天然理心流の剣術道場、試衛館に入門する。
稽古に励み腕前はメキメキと上達した。勝五郎は、師である近藤周斎から認められ、近藤家の養子となり「近藤 勇」と名乗る様になった。
1860年、徳川家の一支系である清水徳川家臣の長女と結婚し、翌年には、天然理心流四代目を継承する事となり、流派一門の宗家として重責を担う事となった。
1863年、第14代将軍「徳川家茂」の警護のため「浪士組」を結成する為、試衛館の門人達と共に京へ向かう。

京都守護職を務める会津藩士 松平容保(まつだいら かたもり)に嘆願書を提出し、京都守護職配下として壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を名乗り活動を開始した。
その働きが認められ、 「朝廷」から「新撰組」の隊名が与えられると近藤が局長に座り、副長として土方歳三を据えた。
1864年、近藤以下新撰組は、長州藩、土佐藩などの浪士らが祇園祭の手前6月下旬の強風の日を選んで「御所」に火を放ち、松平容保以下の大名を殺害すると共に「孝明天皇」を長州に連れ去ろうとする計画を練っているとの情報を聞きつけ、直ちに探索を開始した。
謀反一味が、「池田屋」に潜伏している事を突き止めると、抜刀隊を編成して突入し、壊滅させる事に成功した。
この働きにより、新撰組は、幕府と朝廷から多大な褒賞金と感状を賜り、幕臣 (旗本)としての取立てを受ける。
しかし、その後の新撰組内では、大きな派閥闘争が起こり、反対派の暗殺には成功したが、その報復により近藤は銃で狙撃され負傷する。
療養の為に鳥羽、伏見などの戦いには参加でできなかったが、その後に幕府の命を受けて出陣するも、敢えなく新政府軍に囚われの身となり、斬首刑に処せられた。

近藤 勇の愛刀は、長曽祢虎徹興里( ながそねこてつおきさと )とされているが、江戸時代の名工である長曾根興里の作刀となれば、当時でも破格の値が付く名刀中の名刀であるため、いかに近藤と言えども実物を手にしていたとは思い難い。

また、武士の死に装束とされる薄水色に白地で染め抜いたダンダラ羽織は、忠臣蔵の赤穂浪士の着衣である陣羽織のオマージュであり、主君への忠義を貫き武士の鏡とされた彼らに対する強い憧れがあったと言われている。
このダンダラ羽織は、実際の戦闘時の着衣ではなく、新撰組の精神がシンボライズされた一種のアイテムであるとされている。
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