最後の武士道 土方 歳三

土方 歳三
ひじかた としぞう
1835-1865
幕末を駆け抜けた最後の武士道
武士よりも武士らしく~
武蔵国多摩群の石田村(現:埼玉県周辺)出身の幕末の武士であり、「新撰組」では、鬼の副長として隊士から恐れられた。
10人兄弟の末っ子として裕福な農家に生まれるが、歳三が生まれた時は既に父は他界しており、その後、6歳になる頃には、母も肺結核で亡くなった。
幼い頃より武士になるとの志しを持ち、生家には「武士になったら、この竹で矢を作る」と言って竹を植えていたと言う。
生家に伝わる秘伝薬、「石田散薬」を行商しながら、各地の剣術道場を巡っては稽古に励んでいた。
真紅の面紐に朱塗りの皮胴など、洒落た武道具を使用していたため、対戦相手からは「洒落者」として見くびられる事も多かったが、いざ竹刀を持って立ち会えば圧倒的な実力で相手を捻じ伏せたと言う。
1859年、20代中頃になった歳三は、義兄(姉の夫)の縁から近藤勇と出会い、天然理心流に入門する。
その翌年に発刊された武術英名録にも土方歳三の名が記されており、この頃、既に相当な実力を有していた事がうかがえる。
暫くして近藤勇が天然理心流四代目宗家を継承すると、歳三は天然理心流試衛館の仲間らと供に将軍 「徳川家茂」の警護のための浪士組に応募して京へと向かう。
同年、壬生浪士組 (みぶろうしぐみ)としての活躍が認められ、近藤らと供に「新撰組」を発足し、近藤は局長、歳三は、副長の地位に就き、以降は近藤の右腕として京の治安維持に奔走した。
1864年に起きた池田屋事件の際は、歳三の冷静沈着な判断により、手柄を目論んで駆けつけた他の藩士らを池田屋内に立ち入らせず、新撰組単独で成し遂げたため、その恩賞は破格のものとなった。
天下に新撰組の勇名が轟くと供に幕府から近藤勇を与力上席、隊士を与力とする旨の内示を受ける。
しかし、歳三は与力(よりき:下級武士)よりも、あくまで大名を目的として次の機会を待つよう、近藤を説得したと言われる。
また、歳三は新撰組を統率する為に厳格な規律「局中法度」を制定し、隊規に反した者は、たとえ幹部であっても容赦なく切腹を命じた。
この局中法度(きょくちゅうはっと)の中には、「武士らしくない行動」と言う一文があり、歳三の価値観や理念から逸脱する者は、この規律により切腹を命じると言う理不尽な側面もあった。
記録を見ると新撰組隊士の中でも、19歳や20歳そこそこの若年者が数多く殉職しているが、その死亡原因の多数を占めていたのが、この隊規違反による切腹であったと言われている。

1867年、多数の功績により、ついに幕臣 (旗本)として取り立てられたが、同年、徳川慶喜が将軍を辞して大政奉還を受け入れ、幕府は事実上崩壊した。
翌年の1868年には、鳥羽、伏見での戦いに始まる「戊辰戦争」が勃発し、歳三は新撰組を率いて戦うも、新政府軍の銃火器の前に退負する。
剣を頼りに生きていた百戦錬磨の新撰組も銃器の前では歯が立たず、西洋軍備の必要性を痛感させられる戦いとなった。
この戦い以前から歳三は、「もう刀の時代ではない」 ことを感じ取り、西洋軍備に力を注いでいたものの、刻の流れの速さには追い付けず、各所を戦い巡っては敗走を重ねた。
鳥羽 、伏見の戦いで敗退した幕府軍が大阪から江戸へと逃れるも、歳三は尚も戦いを繰り返し、新撰組隊士数名を伴い最後の地となる函館、五稜郭へと向う。

1869年4月、蝦夷地(えぞち)に上陸した新政府軍は、鈴の音を鳴らして多人数で包囲したと思わせる作戦を実行し、追い詰められたと勘違いした土方軍は動揺する。
しかし、歳三は、包囲しようとするなら逆に音を隠して気づかれない様にするはずだと冷静な判断を下し、部下達を落ち着かせた。
新政府軍による函館総攻撃が開始されると籠城戦を嫌った歳三は、僅かな兵を率いて出陣した。
新政府軍の軍艦が、味方の軍艦に撃沈されるのを見るや「この機会を逃すな」と大喝し、敗走してくる味方兵の前に忽然と立ちはだかると「我この柵にありて、退く者を斬る! 」と発し、敵前逃亡する者を、後方から容赦なく切り伏せた。
しかし、土方自身もこの戦乱中に腹部を弾丸に射抜かれて敢え無く戦死する。
これには、諸説があり、敵の弾丸に当ったとする説と降伏を強情に反対する土方を排除するために味方に暗殺されたとする説がある。
鬼の副長と恐れられ、臆する者には容赦なく刃を浴びせた歳三は、一般的に冷酷な人物として扱われる事が多いが、函館戦争まで付き従った側近の1人は、「温厚で、隊内では母の様に慕われていた」と語っている。
本当の強者になるほど、冷酷な厳しさを持ちながらも反面では、無垢なる愛情を持ち合わせると言われるが、土方も、同様に相反する二面性を矛盾なく兼ね備えていたのかも知れない。

土方歳三の愛刀は、和泉守兼定二尺八寸、 脇差は堀川国広一尺九寸であったとされ、通常よりも長い刀を好んでいたと言われる。
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