栄光のドラゴンロード ブルース・リー

李 振藩(リ・ジュンファン)
ブルース ・ リー
1940-1973
カリスマ俳優と武術家の双眸
父親は、中国人で広東演劇の俳優、母親も演劇関係者で、ドイツ系の中国人であった。
長期アメリカ巡業先のサンフランシスコチャイナタウンの病院にて、辰年(1940年)、辰の刻(午前に8時)に生まれたと言う。
本名を「李振藩」(リ・ジュンファン )と言い、俳優名を「李 小龍」(リ・シャオロン)と言った。
後に高名な武術家となり俳優としても活躍する事となるリーは、生後3カ月の時点で両親の仕事の関係から初の映画出演を果たしている。
その後、アメリカ巡業を終えた一家は、イギリス植民地下の香港へと帰国した。
第二次世界大戦中は映画製作が禁止されていたが、終戦後に再開され、8歳頃から子役として映画出演するようになった。
幼少期から手の付けられない暴れん坊で、両親は戒めの意味を込めて中国武術の名門、詠春拳の葉門(イップマン)門下に入門させた。

詠春拳のイップマンとブルース・リー
詠春拳は、詠春(えいしゅん)という女性により創始された拳法で、指先を使用した目突きや急所攻撃など非力でも最大の効果が得られる必殺技が多彩であり、剛拳と言うよりは素早い身のこなしを重視する拳法である。
葉門(イップマン)は、その詠春拳の大家として無類の強さを誇った達人中の達人であった。
また、時を同じくして上海精武体育会の香港分会にて北派小林拳も学んだ。
青年期のリーは、生来の気性の荒さから不良グループと度々、喧嘩を繰り返していた。
「俳優の不良息子」との悪評が広まり始めたころ、リーの将来や体裁を心配した父親は、香港から離れさせる為に渡米を命じる。
18歳のリーは、僅か100ドルの所持金で渡米し、シアトルに落ち着くと新聞配達のアルバイトをしながら職業訓練学校に通う。
程なくして高校卒業の資格を得たリーは、ワシントン大学の哲学科へと進学した。
この頃から勉強する傍ら、中国武術の指導を目的とした「振藩國術館」(ジュンファンコクジュツカン)を設立する。
同じ頃、高校で哲学の講師などもしていたが、同じ大学の医学部に通うスウェーデン系イギリス人(リンダ・エメリー)と結婚したのを機に大学を中退し、以降は道場経営に専念する様になった。
この頃から世界中のあらゆる武術や格闘技の技術書を読み漁って研究するようになり、東洋、西洋の偏りを持たず現実的で合理的な技術体系の整備に勤しんだ。
また、戦う際の精神面にも着目し、戦闘時の心の在り方など独自の考えを加え、その集大成として全局面対応の武術として「截拳道」(ジー ・クンドー)を創始する。
武術界に横行する伝統的な縛りを嫌い、後進の修行者が新しいものに取り込んで発展させる事にも、積極的な考えを持っていた。
截拳道の大きな特徴の一つに利き腕を前にして構えると言うものがある。
他の格闘技では、利き腕を後ろにして構える事が多いが、ボクシングやフェンシングからも影響を受けていたリーは、リードジャブの重要性に気づき、戦闘時の最初の攻撃こそ、より早く、より強力である事が望ましいとの見解に辿り着く。
また、最速のヘビー級ボクサーであり、カリスマ性も備えていた「モハメド・アリ」を深く尊敬し、アリの試合映像を全て所有すると共に何度も繰り返し見ては、その動きを自分の身体に流し込む練習をしていたと言う。
打撃技から寝技に持ち込むという、現代でこそ常識となっている総合格闘術のパイオニアであり、派手な打撃技が絶賛されていた当時にあって、見た目こそ地味でも実効性の高い三角締めなどの決め技を常に研究をしていたと言う。
そして、肉体鍛錬やその方法についても合理性を追求し、様々な練習法や器具を発明した。
現在の総合格闘技でも使用されるオープンフィンガーグローブは、指関節を自由に動かせるよう設計した、リーのオリジナル製品であり、映画「燃えよドラゴン」の冒頭シーンでも使用されている。

自らの信じるマーシャルアーツの完成を求めて、様々な場所に出向いては、武道理念や実用性をデモンストレーションして回っていたリーは、1966年、アメリカのロングビーチで開催された国際空手選手権大会で披露した詠春拳の模範演武がTVプロデューサーの目に止まり、TVドラマ「グリーン・ホーネット」への出演が決まる。

片腕2本指のみの腕立て伏せ
これを切欠にテレビ番組への出演が多くなり、共演者達に個人的な武術指導を行うなど、次第に存在感も増すが、突然に理由も無くドラマの主演から降板させられるなど、当時は、まだ東洋人俳優を欧米人並みに扱える土壌が整っていなかった。

TVドラマ グリーンホーネット
しかし、1970年、香港の大手映画会社から独立を果たし、後に香港映画の父と形容される レイモンド・チョウの映画会社(ゴールデン・ハーベスト)との出演契約を交わし、その翌年には、初の主演映画「ドラゴン危機一髪」が公開された。
ドラゴン危機一髪は、香港映画の歴代興行記録を塗り替える大ヒットを飛ばし、リーは、一躍トップスターに躍り出る。
その翌年には、自らの製作会社も立ち上げ、制作、監督、脚本、主演とマルチに活躍し、香港映画界で不動のトップスターの地位を気付いた。
しかし、まだこの頃は、アジア圏で活躍する一介の映画スターに過ぎず、世界的に名が知れ渡るには、もう少し時間が必要であった。
そして、1973年、ついにアメリカと香港の合作映画「燃えよドラゴン」の撮影が開始された。
かつて主役を降ろされた雪辱を晴らすべく、リーは、並々ならぬ思い入れを持って撮影や指導に没頭する。
その為、撮影スタッフ達とのテンションが乖離してしまい、非常にナーバスになっていたリーは、映画の撮影であるにも関わらず、適役の俳優に本気の攻撃を仕掛けるなど、鬼気迫る精神状況に陥っていた。
しかし、それが絶妙の緊張感と異様さを演出し、映画が公開されると瞬く間に世界中に大ヒットを飛ばすと同時に空前のカンフーブームを巻き起こした。
世界中の著名な格闘家の中にも、リーの映画に触発されてその道に進んだ者は決して少なくはない。
また、劇中で語られる哲学的で達観したセリフも人気となり、世界的な映画スターとしてのカリスマ性も確立した。
戦闘時のリーが発する「怪鳥音」と呼ばれる独特の気合は有名であるが、当時、アテレコが主流であった香港映画において、怪鳥音の部分だけは、リー自身の声を使用する念の入れようであった。
そんな絶頂期にある中、リーは突然、原因不明の病に倒れる。
1973年未明、吹き替え収録中に昏倒し、意識不明の重態となり入院した。
その後、一度回復して退院したが、同年、再び昏睡状態に陥り、32歳の若さでこの世を去った。

映画「燃えよドラゴン」は、世界中で大ヒットを飛ばし、世界的な大スターとなったリーであるが、奇しくも、本人は映画の公開前に他界しており、リー自身は、自分が世界的なスターとなった事実を知らない。
死因は、脳浮腫と診断されたが、その死は未だ多くの謎に包まれたままである。
燃えよドラゴン 推手からの格闘シーン
燃えよドラゴン 多人数との格闘シーン
燃えよドラゴン 鏡の戦いシーン
デモンストレーション映像
トレーニング&イメージ詰め合わせ