捨て身の連打 ピストン堀口

ピストン堀口
1914-1950
日本ボクシング伝説の男
脅威の176戦~
82KOを誇った拳聖の足跡
栃木県出身のボクサーで、父親は警察署長をしていた。
本名である堀口恒夫が選手名であり、一般的に知られる「ピストン堀口」は、正式なリング名でもなく、そのファイトスタイルがピストン戦法と呼ばれていた事により、いつの間にかピストン堀口の名が定着するようになった。
日本ボクシングの象徴とも言われ、拳聖と讃えられるほど戦いの連続であった。
日本及び東洋フェザー級、日本ミドル級王座を獲得しており、4人の兄弟達も皆ボクサーであったと言う。
中学時代には、柔道部の主将を務めるなど県下でも有名な強豪選手であった堀口は、同じ中学の先輩であり“日本ボクシングの父”と讃えられた渡辺裕次郎から度胸と才能を買われ、上京すると渡辺が主催する日本拳闘倶楽部に入門した。
入門から僅か半年後の初試合でKO勝ち収めると翌年にはプロデューを果たし、その後も次々と試合を重ね実に47連勝という大記録を打ち立てた。
かくして東洋チャンピオンとなった堀口は、世界クラスの実力を備えていたが、太平洋戦争などの影響もあり世界王座を獲得する機会には恵まれなかった。
対戦相手をロープ際に追い詰めて休まぬ左右の連打を浴びせるラッシュはピストン戦法と名付けられ、10分間の連続ミット打ちでも息切れしないほどの驚異的なスタミナを有していたと言う。
対戦相手が放つ無数のパンチを顔面に被弾しながらも一向に気にする事なく、ひたすら前に出て捨身のラッシュを相手に浴びせる闘争心むき出しのスタイルが観客達を熱狂の渦に巻き込んだ。
一説には、この堀口もまた、漫画「あしたのジョー」のモデルではないかと言われている。

日本では熱狂的な人気を得たピストン戦法であったが、1936年にハワイで行った試合では、フットワークやディフェンスを主体としたアメリカのボクシングに比べると野蛮であり、ボクシングと呼べるものではないとの酷評を受けた。
これを切欠に攻撃中心の戦法からディフェンスや精神面の修養を行う様になり、合気道の植芝盛平の道場を訪ねるなど武道における理合(りあい)を学んだ。
戦後は、ボクシングの他に探偵業などもしていたが、ボクシングを引退した直後の1950年、泥酔して線路上を歩いていたところを貨物列車に跳ねられ命を落とした。
神奈川県茅ヶ崎市の海前寺にある堀口の墓碑には、「拳闘こそ我が命」との力強い文字が記されている。
プロボクシング戦績
176戦 138勝 82KO 24負 14分
唄/ピストン堀口 リングの王者
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