真っ白に燃え尽きる 斉藤 清作

斉藤 清作(たこ八郎)
1940-1985
捨身のノーガード戦法~
リングからお茶の間へ
プロボクシング日本フライ級王者であり、引退後は芸能界へと進み、たこ八郎の芸名で俳優からコメディアンまで幅広く活躍した。
宮城県の農家の生まれで8人兄弟の次男であった。
少年時代に友達らと泥だんごの投げ合い合戦をしていた際に左目に直撃を受け、ほとんど見えない状態に陥ったと言う。
当時、裕福な家庭では無かったので病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていた。
高校時代にボクシング部に入部すると宮城県大会で優勝を果たす。
その後、上京して正式にボクシングジムに入門したが、左目の障害を隠す為に視力検査の表を丸暗記してテストに挑んだと言う。
2年後の1962年には、第13代日本フライ級王者となり、髪型を河童のように刈り込んでいた事から"河童の清作"と呼ばれた。
斎藤のファイティングスタイルはノーガード戦法とも呼ばれ、相手に打たせるだけ打たせて疲れさせて相手のスタミナが切れた頃を見計らって反撃に転じるという壮絶なる捨身の戦法であった。
一説には、ボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」のモデルではないかと言われている。
全日本フライ級タイトル防衛戦
左目のハンデを相手に悟らせないために敢えて打たれ続け、耳元で「効いてない、効いてない」と囁きながら対戦相手を恐怖に陥れる狂気じみた戦法を取っていた。
しかし、打たれ続けたことで頭部へのダメージが蓄積し、深刻なパンチドランカー症状が出現したため引退を余儀なくされる。
引退後は、同郷のよしみから当時人気コメディアンであった由利徹氏に弟子入りすると役者としてデビューを果たす。
芸名である"たこ八郎"は、当時行きつけの居酒屋でよく頼んでいた(たこきゅう)から由利が名付けたものだと言う。
当初は師匠である由利の自宅に住み込んでいたが、深刻なパンチドランカー症状により住み込み弟子としては無理だと判断した斎藤は、自ら由利の家を出て友人宅を泊まり歩くようになる。
受け入れた友人達も「迷惑かけてありがとう」と話す彼の純朴な姿を見て暖かく迎え入れたと言う。
常に酩酊状態にあるかの様な表情と話しぶりが怪しげな風貌を創り出し、役者やコメディアンとしての芸風に役立った。
映画「幸せの黄色いハンカチ」の劇中で見せる高倉健との格闘シーンでは、かつての片鱗を伺わせるキレのある鋭い動きを見せている。
幸せの黄色いハンカチ 登場シーン
1985年、神奈川県の海水浴場にて飲酒後に遊泳していたところ心臓麻痺を起こして逝去する。
かつて、もし俺が死んだら葬儀委員長をしてほしいと冗談まじりに聞いていた漫画家の赤塚不二夫氏が葬儀委員長を務め、親交があったタレントのタモリ氏は「たこが海で死んだ。何も悲しい事はない。」との追悼を述べた。
師匠である由利徹は、このたこ野郎が逝きやがったなと言って泣き笑いし、出棺は、三本締めによって送り出されたと言う。
全力で命を燃やす。“命はもっと粗末に扱うべきなのだ”とのセリフを起想させる。
そして、不器用であるほどにリアリティを感じさせる斎藤清作の生き様は、熱意を忘れかけた我々現代人の心に響くものを感じる。
プロボクシング戦績
41戦 32勝 10KO 8敗 1分
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