打たれずに打つべし 白井義男

白井 義男
しらい よしお
1923-2003
戦後を照らした希望の光
日本人初、世界王者の軌跡
東京都荒川区出身のボクサーで、少年時代に夜祭の余興で行なったカンガルーとのボクシング対決に負けて以来、ボクシングにのめり込んだという。
1943年の戦時下にプロデビューを果たし、以降8連勝の快進撃を続けたが間もなく招集されて海軍に従事する事となった。
終戦後は、再びボクシングに復帰するが、海軍時代の功労により重い腰痛を患い引退寸前の危機に陥っていた。
その頃、ジムに出入りしていたGHQ職員であり生物学者でもあったアルビン・R・カーン博士に才能を見出され、ボクシング技術の指導や体調管理に至るまで彼の全面的な支援を受けて本来の素質を開花させる。
カーン博士の指導による徹底した健康管理に加えて、長いリーチと抜群の運動神経を活かした防御主体のスタイルに矯正した事で白井のボクシングは息を吹き返した。
1952年、晴れて世界フライ級タイトルマッチに挑戦すると見事に王座を獲得する。
白井の勝利は、敗戦に打ちひしがれていた当時の重苦しい空気を打ち破る切欠となり、世界王者となった白井の活躍は日本国民にとって希望の光であった。
その後、4度の防衛に成功するが、5度目の防衛は叶わず翌年に行われた再戦に敗れてそのまま引退した。
試合には敗れはしたが、試合中継の視聴率は史上最高の96%を記録した。
カーン博士は、白井に最先端の科学的なトレーニングを施した。当時の主流であった"打たれたら打ち返す"という消耗度の激しいボクシングを否定し、徹底した防御態勢から適格なパンチを当てるスタイルを確立した。
この"打たせずに打つ"と言われるスタイルは、その後の近代ボクシングの礎となる。
共に努力を重ねた白井とカーン博士は、選手とコーチの関係を超えた家族の様な間柄だったと言う。
それは引退してからも変わる事なく、子供がいなかったカーン博士は、白井を我が子の様に思い接していたと言う。
白井は、日本が生んだ世界王者の中で唯一、正式なジムに所属しない欧米スタイルのマネジメント方式によりチャンピオンになった人物である。

ボクシング名鑑などに所属ジム名として記載された「シライ」は、カーン博士と共に二人三脚で歩んだ自宅のプライベートジムであった。
プロボクシング戦績
58戦 48勝 20KO 8敗 2分
白井 義男
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