大東流合気柔術 武田惣角

武田 惣角
たけだ そうかく
1859-1943
~上級武士の武術~
大東流合氣柔術 中興の祖
陸奥国(むつのくに)現在の福島県にて会津藩士の家に生まれた。
父親の惣吉は、宮相撲の力士であり、剣術にも秀でていたと言う。
幼少の頃より、相撲、柔術、宝蔵院流槍術、小野派一刀流剣術などを学び、13歳の時に上京して直心陰流剣術(じきしんかげりゅう)の道場に入門し内弟子となる。
その後、各派の剣術道場に出向いて他流試合を重ね、剣術の他には棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、手裏剣術、弓術など一通りの武技に精通していた。
10代の後半には、兄の急逝に伴い武田家を継ぐために呼び戻されたが、西南戦争に参戦するため直ぐに家を飛び出し、西郷隆盛軍に身を投じようとするが叶わず、九州各地を巡る武者修行の旅に変移した。
惣角は、道場を持たず請われれば何処へでも出かけて行って大東流合気柔術を指南したと言うが、いつどこで誰に何を教授したかの詳細な記録を残すと供に諸国を巡る中で様々な他流試合や野試合を敢行し、大東流合気柔術の実戦性を証明して見せた。
1904年頃、北海道を拠点として東北六県から関東まで広域に勢力を伸ばしていた博徒組織「丸茂組」を、単独で制圧したとする逸話が残されている。
幼少の頃は、寺子屋に行くのを嫌い「自分は一生字を書かない、人に書かせる立場になる」と誓ったため字が書けなかったと言われるが、後年その思いは実現する事になる。
裁判官、警察署長、軍高官などの社会的地位が高い人物らが次々と惣角の弟子や後援者となった為、それら弟子達に代筆させていたと言う。
猜疑心が強く、隙を与える事を嫌い、食事は相手が毒見するまで食べなかったとさえ言われている。
また、ある時に手裏剣術を教えている惣角を見て足の不住な生徒が笑った。「何が可笑しい」と惣角が問うと、その生徒は、「その様に尖っているものは、突き刺さって当然だ」と言い、おもむろに硬貨を取り出し、柱に投げつけたところ硬貨が柱に突き刺さった。
それを見た惣角は、以後は手裏剣述を教えなくなったと言われているが、これは創作話であろう。
また多数の門人の中には、合気道開祖として知られる上芝盛平もいた。
幼少時より、柔術剣術と各流派での修行を積み、剛力で鳴らしていた上芝であったが、惣角(そうかく)の多彩な決め技の前にねじ伏せられ、入門を決意したと言う。
惣角の外見は、羽織袴に高下駄を履いた出で立ちで頭には高山帽を被り、手には門人が寄贈した150cm程の鉄杖をつき、腰には脇差を差していたと言う。
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生家は藩士とありますが、藩士は農民と同じ職業力士にはなりませんから、誤りであるというのは明らかです。
戊辰戦争後、生家に同居した藩士御供番は、藩主護衛役の武術の達人で、孫娘コンが惣角の妻になりました。御供番は小姓・奥女中と同じ職場で、御式内の護身術を教えたことになります。新たな証拠がでました。
西郷頼母研究家は、大東流は惣角に依頼されて創作したものと発表しております。
史実は美化されたものであっても、惣角翁の偉業は称えられるもので、真実が語られれば地元の評価も得られると思い、著書を書いております。