柔道の鬼 牛島 辰熊

牛島 辰熊
1904-1985
~狂気の猛稽古~
異端の最強柔道家に迫る
明治神宮大会3連覇を初め、数々の武勇伝が語られると供に、その並外れた気性の荒さから「鬼の牛島 」と恐れられた。
柔道史上最強と言われる「木村政彦」の師匠であるが、牛島自身も木村に負けない実績を持つ強豪中の強豪である。
熊本県に生まれた牛島は、元々は剣道をしていたが、兄の影響で肥後柔術三道場の一つとされる扱心流(きゅうしんりゅう)柔術体術の道場に入門した。
この頃の熊本では技術体系が整備された講道館よりも、まだまだ古流の柔術が盛んであったと言う。
当時の対抗戦は、正に戦場を想定した苛烈な戦いであり、判定ではなく「参った」などの敗北宣言のみで勝敗を決していた。
時には、短刀に模した木刀を腰に差し、投げて組み伏せた相手の首元を木刀で掻き切る動作をして一本勝ちとなるルールさえあったと言う。
これは、古流柔術が、あくまで戦場での戦闘術であるとの考えに基づいている。
1929年、皇室の記念行事である「展覧試合」に参加した牛島は、予選は全て一本勝ちで進んだが、決勝戦で栗原民夫十段に判定で敗れた。
雪辱を誓った牛島は上京し、皇宮警察、警視庁、学習院などの師範を勤めながら猛稽古に励む。
あちこちへと出稽古に出かけ1日40本以上もの乱捕りを行なうなど猛稽古を重ね、稽古後は消耗しきって階段さえ登れなくなる程であったと言う。
食事も粥しか喉を通らずといった状態になるまで、さらに翌朝には硬直して動かない指を湯に漬けて少しづつ伸ばす必要があったさえ言うほどの凄まじい稽古であった。
これらの稽古で超人的な実力を身につけた牛島は、1931年、1932年と全日本柔道選手権を2連覇する。
しかし、1934年の皇太子生誕記念の展覧試合に出場した際は、敢え無く予選敗退となった。
寄生虫感染症により、体重が9kgも減って衰弱しきっていた牛島は、試合前の1ヶ月の間、洞窟に篭って座禅を組んだと言うが、体が動かぬのを精神力で補おうとした悲壮感には、如何にも牛島らしい姿が表われている。
結果は、敗北する事となったが、体調が万全であれば間違いなく彼が優勝していたと言われている。
しかし、武術家にとって「負けは死と同義である」と公言していた牛島は、即座に引退を決意し、以後は、木村政彦ら後進の指導に専念する事となる。
特に寝技を得意としていた牛島は、「柔道はあくまで武術であって、戦場で矢折れ刀尽きた時、最後は寝技によって生死を決するのだ 」と常々、口にしていたと言う。
その荒々しさ、性格の豪胆さを指して対戦相手からは鬼の牛島と恐れられ、畏敬の念を集めていた。
また、一面では思想家としての顔も持ち、石原 莞爾らといった当時の一流どころとも親交があり、戦争を止めさせる為に東条英機暗殺を企て逮捕される一幕もあった。
後に極真空手の大山倍達は、牛島を非常に慕うようになるが、牛島の柔道の強さだけに惹かれた訳ではなく、思想家としての生き様にも感銘を受けていたからとも言われている。
戦後の武道の衰退を嘆き、国際柔道協会としてプロ柔道を旗揚げしたが次第に行き詰まって潰れてしまう。
そして団体が消滅した後も、講道館は牛島にプロの烙印を押したままであった。
晩年になっても、その力は衰える事が無く、50代にして現役エース級の選手を相手に子ども扱いしていたと言う。
亡くなる前年の1984年には、講道館100周年を記念して九段に昇段しており、その実績からしても最高位十段でも不思議では無いと言われたが、異端視されていたためか柔道殿堂には入っていない。
武道の本質は勝つ事であると実直な思いを貫いた牛島の生き様は、今も多くの柔道家に語り継がれている。
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