今武蔵 國井 善弥

國井 善弥
くにい ぜんや
1894-1966
~自流こそ最強~
異端の剣豪 鹿島神流剣術 代十八代宗家
幾多の他流試合において相手の望む通りの条件で立ち会うも生涯負ける事は無かったと言う。
その圧倒的な実力から現代に蘇った宮本武蔵との意味を込め「今武蔵」と呼ばれていた。
いかなる相手と対戦するも、戦う前から勝敗が決着しているかの如く勝利するのが常であったと言う。
日本武道界からは、異端視されたが、日本古武道の強さを体現した武人である事は間違いない。
太平洋戦争終了後のある時期、GHQは、日本政府に対して米国海兵隊の銃剣術の教官と剣術による試合を申し出た。
日本武道の誇りと名誉を賭けた一戦であり、負ける訳にはいかない状況の中で時の国務大臣であり、小野派一刀流剣術宗家でもあった笹森順三は、異端視されてはいたものの実践武術に優れていた國井喜弥に白羽の矢を立てた。
試合の条件は、米銃剣術教官は、真剣(本物の刀剣)を装着した銃身を持ち、一方の國井は木刀で立ち向かうと言う理不尽なものであったが、試合が開始されるやいなや、國井は相手の動きを見切って素早く木刀で相手を制し、身動きが取れない状態へと持ち込んだ。
圧倒的な実力差に米銃剣術教官は、負けを認めざるを得なかったと言う。
修行時代の國井は新陰流免許皆伝の佐々木正之進と言う武術家の内弟子に入っていた。
寝食を供にし、師の身の回りの世話をするのも内弟子の役目であったが、師から発せられる指示は、いつも抽象的で曖昧な表現が多く、「何をもってこい」や「何もついでに、何しとけ」などと言うものであった。
それは、その場の状況を瞬時に察知する訓練でもあり、当初は判断を誤る事も多かったが、次第に師の意向が高確率で掴める様になったと言う。
例えば、新聞を広げて「あれを持って来いと言えば・・・・メガネ」という具合にである。これが、集中力の養成に繋がり、相手の動きを事前に察知するための良い訓練になったと國井は述懐する。
「自流こそが最強」と常に語り、明治神宮での奉納演武の席であっても他流派に立ち合いを求め、その事が問題となり数年間の出入り禁止になるなど、古武術界からも異端視され無視され続けた國井であるが、あくまで実力主義に徹してこそ真の武術家であるとの大原則を体現する現代に生きた剣術家であった。
鹿島神流十八代宗家 國井 善弥
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