空手の源流 船越 義珍

船越 義珍
ふなこし ぎちん
1868年-1957年
~松濤館流空手創始者~
当時の唐手(現:空手)を初めて本土に伝えた人物として知られている。
1868年、現在の那覇市首里山川町にて生まれる。生家は、泊士族の名門家の分家であり、代々首里王府に使えた士族であった。しかし、父親の放蕩の末、船越が生まれる頃には貧しい生活となっていたと言う。
早産であった船越は、体格に恵まれず、幼少の頃から病弱であったため、母方の実家で育てられたと言う。
1885年、沖縄唐手の三大系統である那覇手の湖城流(こじょうりゅう)に入門するが、150センチに満たない小柄な体格が剛性を求める那覇手に合わなかったため僅か数カ月間で稽古を終えることとなる。
次に首里手の大家であり琉球貴族でもあった安里安恒(あさと あんこう)に本格的に師事する決意を固め、長い時間をかけて極意を学んだと言う。
現在の空手は、14世紀頃に中国から沖縄に伝えられ、大正時代になってから本土で知られる様になった。
その原型を辿ると沖縄に古来から伝わる「手」(ディー)と言われる固有の武術と中国由来の唐手(トーディー)に分けて考えられており、またそれらが組み合わさり発展した事で「唐手」(からて)になったとする説がある。
船越議珍によると明治時代の武術家は、沖縄固有の武術である「手」のことを沖縄手(ウチナーディ)、中国由来の武術を唐手(トーディ)と呼んで区別していたと言う。
また、沖縄手も三大系統に分類され、琉球王家の手から発展し、主に琉球士族が担い手であったとする「首里手」、他の一般の人々が担い手であったとする「那覇手」、また琉球第二の貿易港があった泊村(現:那覇市)で行われていた「泊手」がある。
船越が得意とした「ナイファンチ」や「クーシャンクー」は、首里手に伝わる古典の型である。
1922年頃に上京し、文部省主催の体育展覧会に参加するなど、随所での唐手普及活動に勤めた。
船越義珍による型演武
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