初代アメリカ皇帝 ジョシュア ・ ノートン

ジョシュア・ノートン
1818-1880
~アメリカ皇帝の物語
人の真価はその行動にあり
アメリカ合衆国の帝位請求者にしてメキシコの庇護者。
実在したアメリカ合衆国の皇帝であるが、アメリカには皇位も王位も存在しない。
しかし、彼は紛れもなく皇帝であった。
イギリスはロンドン、デプトフォード・ケンティシュの町で裕福なユダヤ人家庭に生まれたノートンは、幼い頃に家族と共に南アフリカ共和国へと移住した。
母親は裕福なユダヤ人商家の娘であり、資産家の両親のもと南アフリカの地で何不住の無い生活を送っていた。
1849年、30歳になったノートンは、単独でアメリカ西海岸サンフランシスコへと移住する。
父親の遺産を元手に始めた数々の投資事業に成功し、多額の資産を持つ若き青年実業家として社会に躍り出た。
しかし、ある時、大規模な米の投機事業に失敗し、全財産を失うと共に自らも正気を失ったと言う。
破産申請を行い、邸宅を出たきり行方不明となったノートンは、その1年後「自発的亡命」が終了したとの理由により、再びサンフランシスコの町に姿を現した。
世俗的な思想を捨て、マインドの更新が完了したノートンは、アメリカの共和制や連邦主義に著しい欠点がある事を指摘し、絶対君主制の導入による理想的な社会を実現するべく、自ら帝位請求者として名乗りを上げた。
41歳になっていたノートンは、サンフランシスコの各新聞社に手紙を送り、我こそが、「アメリカ合衆国初代皇帝」である事を宣言した。
突然の即位宣言をジョークとして捉えた新聞社が面白半分に掲載した記事により、合衆国皇帝ノートン1世の存在が世間に知られる事となった。

新聞社宛に投書と言う形で皇帝勅令(ちょくれい)を発したノートンは、アメリカが絶対君主制に移行した事実と以降は皇帝の親政が開始される為、合衆国議会は即時に解散せよとの命令を下した。
しかし、勅令を無視する議会に業を煮やしたノートンは、反逆罪を適用した上で陸軍司令官ウィンフィールド・スコット少将に対して、直ちに議会を制圧するよう最重要の命令を発するが、陸軍も動かなかった。
それならばと翌年には、連邦制の廃止を命じる勅令を発したが、相変わらず議会と軍部には、無視され続けた。
なかなか従わない議会主義者達をなし崩し的に容認する形にはなったが、ノートンは皇帝としての活動を開始する。
一見、世迷い事にしか思えない皇帝勅令であったが、その中身は、鋭い観察眼からなる高尚な論理で武装されており、社会発展に必要な合理的で先見性に富んだアイデアで溢れていた。
しかし、国連の設立や海峡を渡すベイブリッジの建設などは、当時としては極めて先鋭的な発想であり、時代が追い付くまでには、まだ多くの時間が必要であった。
その一方で、身近な生活面にも目を光らせ、街路灯の増設と照度を高める命令を発すると犯罪率が低下し、犬の散歩時の糞尿の後始末を怠った者には、罰金刑を課すなど街の衛生面にも気を遣った。
更に宗教間紛争の禁止、奴隷の解放を命じるなど、リンカーンよりも早い時期から人権や社会問題に取り組んでいた。
すると次第に彼を信奉する者達が増え始め、社会的な“皇帝”として認知される様になった。
陸軍将校より寄贈された金モール付の本物の軍服を身に纏い、シルクハットに羽飾り、手にはステッキを携えたノートンは、彼なりに街の様子や彼の臣民(市民)達を気に掛け、公共施設の整備状況や人々の暮らしぶりなどを偵察して廻った。

不備があれば、その場での指導に加え、皇帝勅令として新聞社に報じさせる事で社会の健全な発展に力を注いだ。
そんなある日、彼の精神状態を危惧した警察官から逮捕される事態が起こる。
しかし、この逮捕を不服としたのは彼自身では無く彼が日頃から気に掛けていた臣民(市民)達と新聞社であった。
世間からの猛抗議を受けた警察署長は、彼を即座に釈放し、彼もまた皇帝を誤認逮捕した警察官に特赦を与えた。
この事件を切欠に街で皇帝に出会った警官達は、必ず彼に敬礼する様になったと言う。
議会はさて置き、社会と一般大衆は、彼を当然に皇帝と認め、最大の敬意を払うようになっていた。
ノートンは、金銭を殆ど所持していなかったが、しばしば一流レストランで食事をとり、彼が訪れた店は「合衆国皇帝陛下御用達」の金看板を店前に飾る事が許された。
また、とある鉄道会社が食堂車で食事をしたノートンに料金を請求したところ、世間からの強いバッシングを受け、慌てて終身無料のゴールドパスを献上する一幕もあった。
社会的な皇帝として認知されていたノートンは、1870年の国勢調査の統計表にも、「職業=皇帝」と記されていたと言う。
サンフランシスコ市からも、その権威が認められていたノートンは、しばしば少額の債務を弁済する目的で独自の紙幣を発行した。
ノートンの紙幣は、地域社会では完全に通貨として承認されていたと言う。

かくして“アメリカ皇帝”として広く世間に浸透するうちに本物の皇帝なんじゃないのかとの噂も流れ始めた。
ナポレオンの血を引く皇位継承者説、実際に文通していたヴィクトリア女王との関係、本当は大富豪だが人々に寄り添う為に身をやつして仮の姿を演じているなど噂が独り歩きするうちに本物の皇帝と誤認する者まで現れ始めた。
自ら街頭視察を行い、勅令を実行した者には感謝状を贈り、次々と難問を解決してくれるノートンの姿に世間は本物以上の皇帝を見たのかも知れない。
そして、1881年1月、突然に崩御の時が訪れた。
科学アカデミーの講義に向かう道中で倒れ、そのまま息を引き取った。享年62歳。

翌日の新聞の一面は、「皇帝崩御」の見出しに始まり、彼に対する深い敬意と感謝の言葉で埋め尽くされていた。
崩御の知らせは、広く他州にも報じられ、ニューヨークタイムズは「誰の命も奪わず、略奪せず、追放せず、彼と同じ地位にあって彼と同じ事を成した者はいない」との追悼記事を掲載した。
経済的には、極貧状態にあった彼の遺品は、現金8ドルとヴィクトリア女王と交わした書簡、全く無価値の株券だけであったと言う。
遺産だけでは貧民墓地への埋葬しかできない為、地元のビジネスクラブが資金を募り、最終的には厳粛な大喪で見送られる事となった。
葬儀の参列者は3万人を超え、老若男女、犯罪者から聖人まで、経済の格差に分け隔て無く全ての人々が皇帝との別れを惜しんだ。
墓石には、「ノートン1世 合衆国皇帝 メキシコの庇護者」と刻まれた。

人の真価は、その行動に表れると言うが、ノートンの生涯は、経済力がモノを言う実存主義の社会にあって金銭を持たずして謳歌した。
金銭が最も重要である事は確かだが、金銭では成し得ないものが存在する事もまた事実である。
たとえ無一文であったとしても、社会から認められ受入れられる生き方が出来たなら、それはそれで勝ち組と言えるのかも知れない。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
天使の笑顔に阿修羅の心 大西 政寛

大西 政寛
おおにし まさひろ
1923-1950
‶最恐の極道″
血塗られた悪魔のキューピー伝説
一見すると可愛らしい顔立で、笑うとまた何とも言えない愛嬌があったと言う「悪魔のキューピー」こと大西政寛は、その穏やかな外見に反して激高すると夜叉の如く恐ろしい形相へと変貌し、敵対者を必ずと言って良いほど血の海に沈めた事から、戦前戦後のヤクザ史上でも最も恐れられたヤクザの一人である。
目撃者の証言によれば、怒気が上がった途端にそれまでの愛くるしい笑顔からサッと血の気が引き、青ざめた般若の様なその容貌は、痙攣した眦(まなじり)が吊り上がり、眉間から額にかけて深く長い縦ジワが幾本も刻まれていたと言う。
この世のものとは思えぬ恐ろしい形相を目の当たりにした者は、気付いた時には手遅れであり、そうなってしまうと必ず血しぶきを上げてのた打つ結果となった。
敵対する者達も荒くれ者であり、大なり小なり修羅場を潜った強者達であったが、大西の突出した恐ろしさを前に金縛りの如く硬直し、次に気が付いた時には、体から分断された手足が転がっているのを見るか或いは、地面に横たわる自分の姿を少し高い位置から眺める事となった。
大正12年(1923年)、広島県賀茂郡(現在の呉市)に生まれた大西は、幼少期に両親が離婚し、その後、直ぐに父親が他界した。
父方の祖母宅に身を寄せるが後に祖母も他界してしまい、最終的には、別の場所で再婚していた母親に引き取られた。
幼少期から激高すると手が付けられない狂暴な性質であった大西は、近所の子供や大人達からも奇異の目で見られ、モルヒネ中毒で他界した実父の事や複雑な家庭環境をなじられ、イジメの対象となっていた。
幼い大西は、大人が相手でも理不尽なイジメに立ち向かい、その都度、狂暴な性格に磨きがかけられた。
勉強は得意では無かったが、絵には天賦の才能を見せ、数々の絵画コンクールで優勝又は入賞を果たしたと言う。
尋常小学校を卒業した大西は、昭和11年(1936年)小学校高等科1年(中学校)に進学する。
この頃すでに激烈な性格が完成していた大西は、同年、絵が得意な事を面白半分にペンキ屋と揶揄した教師の頭を文鎮で叩きのめし、即日、退学処分を受けた。
その後、義父の紹介により呉市の博徒組織が運営する鉄鋼関係の職人となるが、数年後、別の鉄鋼関係の若衆らと喧嘩になり、組織同士の抗争へと発展した。
後日、両組織の代表者が市内の料亭で和解に向けた話し合いをしている最中、大西は拳銃を携えて乱入し、危うく流血沙汰となりかけたが、双方が和解を望んでいる事を理解すると拳銃を納めた。
これを切欠に他組織との交流を広げた大西は、同じ呉市内に本拠を置く有数の博徒組織の親分達と親密な関係となり、その縁から義兄弟の盃を交わした。
昭和18年、徴兵令を受けて中国大陸戦線へと派兵されていた大西は、3年後の昭和21年(1946年)中国から無事に帰還した。
幅員後まもなく、第一次広島抗争と呼ばれるヤクザ組織の大規模な抗争が勃発する。
第二次、第三次へと続いたこの抗争は、他府県の組織が介入するほど大規模な抗争へと発展し、戦後のヤクザ史上でも特に凄惨を極めた抗争事件として知られている。
その全容は、後に深作欣二監督の映画「仁義なき戦い」として描かれ、空前の大ヒットを記録した。

大西は、その初期の中心人物として、高密度に凝縮された短くも激動の人生を駆け抜けて行く。
従軍先では、捕虜の首を幾度となく日本刀で跳ね飛ばしたと言う大西は、以前にも増して人命を軽視する傾向が進んでいた。
自分が嫌な役を引き受ける事で他者が助かるとの思いから率先して行っていたと言うが、その時の心境について「斬られる者よりも斬る者の方が何倍も辛い」との言葉を残している。
だからこそ、せめて捕虜が苦しまない様にと一撃で斬首する事に拘っていたと言う。

それらの戦争体験を経て更なる修羅の心が極まった大西は、敵対組織との抗争でも、日本刀を用いて幾本もの腕を切り落とした。
そして、競馬利権の問題から騎手を滅多打ちにし、或いは地元の有力者からの依頼で傍若無人に闊歩する町の不良連中を事あるごとに叩きのめして廻った。
物腰も柔らかく優しそうな外見の大西を見くびった者達は、ことごとく血の海へと沈んで行った。
地元の有力組織で若頭という要職に就いていた大西は、その後も多数の抗争事件で暴れまわり、1947年5月、ついに警察に逮捕されるところとなった。
何よりも束縛を嫌い自由を求める大西は、送られた呉市の拘置所の中で脱出する為の奇抜なアイデアを思い付く。
それは自ら体調不良になる事で執行停止処分を受け、正規のルートで脱出すると言う荒業であった。
拘置所内にある理髪室から密かに剃刀を持ち出した大西は、自らの腹部を横一文字に20㎝ほど掻っ捌き、内臓がこぼれ出るほどの重症を負った。
狙い通り執行停止処分を受けた大西は、腹部から飛び出た内臓を抱えながら外部の病院へと緊急搬送される。
病院で手術を受け、後は治療に専念し、回復した頃を見計らって逃走するという筋書きであった。
後日、自分の内臓を抱えて歩く心境について、「腰が抜けるほど重たかった」と述べている。
他人に対して苛烈な暴力を振るう大西であるが、自分自身もその対象から免れる事は出来なかった。
その後、病院からの脱出に成功した大西は、地元へと舞い戻り、再び抗争の中心に身を投じて行く。
敵味方が入り乱れ、血て血を洗う激しい抗争が展開された当時の呉市内は、さながら修羅界の如く様相を呈していた。
そんなある日、大西は妻と歩いているところを数人の不良グループに囲まれてしまう。
不良達は、大西の弱そうな外見に鷹を括り、妻にちょっかいを出すなど悪態を付き始めた。
この時、多数の事件で警察から追われる身となっていた大西は、穏便にやり過ごそうと心に決め、低姿勢で対応していた。
しかし、男の一人が大西だと名乗り、更なる悪態をつき始めた時、自分の名をかたる無礼者を前に大西の笑顔は阿修羅へと変貌した。
その姿を見た不良達は震え上がって退散するが、「ワシの名を騙るなど許せん」と息巻く大西は、後日、男達の居場所を突き止めると愛用のモーゼル32口径を持って乗り込み、自分の名を騙った男を問答無用で射殺した。

モーゼルHSc 32口径 7.65㎜弾 装弾9発
射殺された男は、偶然にも実際に大西姓であり、その事がこの両名の不幸の始まりであった。
この事件を切欠にいよいよ業を煮やした警察署による大西逮捕の大捜査網が敷かれる事となった。
1950年1月、潜伏先に潜んでいた大西は、ついに数十名の警官隊に包囲される。
炬燵(こたつ)の中に潜んでその時を待ち構えていた大西は、踏み込んできた警察官と銃撃戦になり、数名を射殺する。
しかし、次第に追い詰めら屋根づたいに逃れようとしたところを複数の警官から一斉射撃を受け、その場に昏倒した。
享年27歳。
古今、恐ろしいと評されたヤクザ渡世人や剣豪、武術家など実に様々な伝説が残されてはいるが、大西ほど外見と中身のギャップが乖離していると言われる者も珍しい。
昆虫界や植物界でも、毒を持つ者は奇抜な色彩や形状により、その危険性を外部に知らせる事で自らの命を守ろうとするものである。
自由奔放に生き、保身の考えを持たず、純粋過ぎたが故に自らの人生に翻弄され続けた修羅の物語は、今なお伝説の極道として語り草になっている。
捨身の心 鉄門海上人

恵眼院 鉄門海上人
えがんいん てつもんかいしょうにん
1759-1830
即身仏となった暴れん坊
鉄門海上人は、山形県鶴岡市大綱に位置する真言宗智山派の寺院「注連寺」に安置されている即身仏である。
即身仏(そくしんぶつ)とは、仏教における民間信仰の一種で、後世に渡って永遠に衆生(世の人々)の救済を目的とした僧侶のミイラである。
即身仏になるには、長期に渡る肉体の調整が必要であり、何十年もかけて食事制限を行い、体脂肪や体内の細菌などを減らす事で腐敗しにくい体を造る。
五穀断ち、十穀断ち(穀物を断つ)と言われる苛酷な制限を課すうちに食べる物が無くなり、最後は、松の木の皮などを食すようになると言う。
また、漆(うるし)や丹生(にう/水銀)といった防腐効果のある物質を飲む事で、よりミイラ化に適した肉体造りを行った。
そうして体の準備が整えば、いよいよ土中に入定する。
入定(にゅうじょう)とは、つまり生き埋めであり、3m程の深さの穴(石室)に入り、地上から竹筒を通した空気穴だけが設けられる。
そして、上から石蓋をし、後は埋めてしまうのである。

新潟県村上市 観音寺 仏海上人の石室
https://bukkaisamanokannonji.com/info/大悲山観音寺HPより
行者は、その中で完全な断食行に入り、手に持った鈴を鳴らしながら死ぬまで読経を続ける。
一切衆生と全ての命が成仏するよう祈願を続け、やがて鈴の音が止むと人間としての行者の命が尽きる。
そのまま3年3カ月間残置され、再び掘り起こした時にミイラ化していれば、即身仏が成就したものと判定される。
しかし、生前の肉体調整の不備で腐敗していたり、朽ちていた場合は即身仏が成就したとは認められない。
ましてや中途挫折で脱出を試みたり、救助を要請した場合には、外部から空気穴を塞がれたり、内部に土を流し込んで本当に生き埋めにされたりといった凄惨なペナルティが課せられる事もあったと言う。
また、全てが完全に成功していたにも関わらず、3年間で忘れられていたり、発掘する人手不足などの理由により、そのまま放置されている人達も少なからず存在すると言われる。
修行者の生前の人気度や社会状況などの運にも左右された訳である。
現在、確認されている即身仏は、日本全国に17体が存在し、その多くが山形県に集中している。
関西や関東にも僅かに存在しているが、その殆どが東北の地である。
ミイラ化に適した気候、または修験道の地である出羽三山に伝わる山岳信仰、弘法大師を始めとする密教系の思想などに由来するのかも知れない。

湯殿山瀧水寺大日坊 真如海上人
確認されている最古の即身仏は西暦1003年、直近のものでは、1903年となっている。
明治時代に禁止令が出されて以降、現在でも自殺と解釈されるため、下準備などの手助けを行う者は、自殺幇助に問われてしまう。
このように自分の命を諦めてまで、他者の救済を願う究極の修法とされた即身仏であるが、その中に鉄門海上人と言う人がいる。
鉄門海上人は、宝暦9年(1759年頃)山形県鶴岡市に生まれ、若い頃は、川越人足をしていたと言う。
川越人足とは、対岸の川岸まで人を渡らせる仕事である。
俗名を「砂田 鉄」と言われたそうたが、比較的に気性が荒い突破な性格であったと言う。
諸説あるが、恋仲であった遊女との関係或いは、人足の仕事関係で士族(武士)と争いになり、その相手を殺害してしまう。
発覚すれば死罪を免れないため、真言宗智山派の寺院「注連寺」へと駆け込んだ。
駆け込み寺とは言われたもので、当時は、トラブルの被害者が避難したり、逆に罪人であっても人生を仏門に捧げて社会奉仕するならば、ある程度は大目に見て匿ってあげようと言う風潮が存在した。
注連寺で仏門に入った‶鉄″は、次第に仏の道に深く入り込み、二千日の木食行(穀断ち)に始まる本格的な修行を開始する。
その頃、噂を聞きつけて、かつての恋人であった遊女が寺を訪れた。
鉄は、よりを戻して欲しいと寂しそうに語る彼女を不憫に思い、切り取った自分の性器を手渡して、これを自分だと思って堪えてくれと頼んだと言う。
俗世と隔絶した心境を示したのであろうが、余りにも壮絶な意思表示である。
また、悪質な眼病が流行しているのを見るにつけ、短刀で自らの左目をえぐり取って山岳信仰の習合神とされる湯殿山の大権現に捧げ、鎮静化を固く祈願したと言われる。
この功績により、恵眼院(えがんいん)の号が授けられた。
自らの肉体を損傷してまで行うその本気度は、常人がいくら本気で思いつめても、実行不能な究極の精神状態が窺える。
その後も、各地を巡って多くの人助けや社会奉仕を行い、いよいよこの世の絶対的な救済を実現するべく、即身仏となる決意を固めた。
即身仏は、視点を変えると、たとえ罪人でも一発逆転で聖人となれる敗者復活戦的な要素があったと揶揄する向きもあるが、普通に償うよりも遥かに難易度が高く、長時間かけてジワジワと死んでゆく苦痛は単なる名誉欲だけで耐えうるものでは無い。
価値観も違うため、現代の視点から当時の行者の心境を推し測るには無理があるが、彼らが実践した自己犠牲の観念は、人間が持つ精神の進化の可能性を示していたようにも思える。
鉄門海上人は、文政12年(1829年)12月に71歳で入定された。
入定に際しては、今後、「私に祈願する者は、どんな願いでも叶えよう」との力強い言葉が残されている。
極めて断定口調である事から、既に何らかの手応えを得ていたのであろうか。
尚、即身仏に似た言葉に「即身成仏」(そくしん じょうぶつ)があるが、この2つは意味が異なる。
即身成仏は、人は、この身のままで生きながらにして仏になる事が可能であると説いた「弘法大師」の思想である。
しかし、その弘法大師自身も即身仏のパイオニアであり、承和2年(西暦832年)62歳で高野山奥之院大師御廟にて入定されたと伝えられている。
近年、自分ファーストで不寛容、自己責任と言った価値観が常識化されつつあるが、かつて自らの命を投げ打ってまで他者に尽くそうと考えた人達が存在した事を今一度、思い返してみる価値はある。
即身仏となった僧侶達は、今も深い瞑想の中で我々の救済を祈願してくれている。
| ホーム |