大阪の豪商伝 淀屋辰五郎

淀屋 辰五郎
よどや たつごろう
1684-1718
~江戸時代の豪商~
資産200兆の大金持ち
淀屋は、現在の大阪市の中心部、北浜に実在した江戸時代の豪商である。
淀屋の歴史は古く、初代 淀屋常安(よどや じょうあん)に遡る。
1500年代後半の人物で、山城国岡本荘(現:京都府宇治市)の武家の出身であったが、後に商人を志すようになり、出身地の岡本に因んで岡本三郎右衛門と名乗った。
商魂たくましい三郎右衛門は、京都、伏見城の土木工事を受注すると、敷地内に散在する巨石の撤去を他業者の10分の1と言う安値で引き受けてしまう。
しかし、そこには秘策があった。巨石を運び出すのでは無く、その場に深く掘った穴に石を滑り落として埋めてしまうという奇策により、巨石撤去?の大仕事を見事に成功させる。
この時点で既に卓越したビジネスセンスが窺える。
その後も、大阪の中之島一帯の開発工事を手掛けるほか、材木商を営むなどして莫大な利益を得たと言う。
1614年に迎えた江戸幕府と豊臣家との戦い「大坂冬の陣」では、徳川家の支持に回り、陣屋(屋敷)や兵士達の食事などを提供した。
この功績が認められた三郎右衛門は、徳川家より故郷の山城国に領地を拝領すると共に苗字帯刀が許された。
と同時に合戦が終了した戦場の後片付けを申し出ると、戦死した兵士建の供養塔を立てる一方で散在した大量の武具を販売する事でも大きな利益を得たと言う。
その後、淀屋は二代目の淀屋言當(よどや げんとう)、三代目の箇斎(かさい)、四代目の重當(じゅうとう)へと受け継がれ、最後となる五代目の淀屋廣當(こうとう)通称、「辰五郎」は、莫大な財産と共に家督を引き継いだ。
時代は、1700年代の初頭、辰五郎が14歳の頃である。
現在の価値にして約200兆円とも言われる超莫大な資産を受け継いだ辰五郎は、正に天下無双の大金持ち少年であった。
唸るほど金が有り余っていた辰五郎は、日頃から贅沢の限りを尽くし、夏場になると「夏座敷」と称して部屋の天井をガラス張りにし、そこに水を浸して金魚を泳がせていたと言う。
また、自宅前の川を遠回りして渡るのが邪魔くさいとの理由から自費で自宅前に橋を渡した。

淀屋橋(重要文化財指定)大阪市北区中之島1丁目~同市中央区北浜3丁目
橋長53.5m、幅員36.5m
現在の大阪市役所前に架かる「淀屋橋」の由来である。
その無尽蔵とも言える資金力の背景には、天才的な商才を発揮した四代目(げんとう)により創設された全国の米相場を左右する米市の利権があった。
また、他人に金を貸すのが大好きだったと言われる辰五郎は、諸大名に対して莫大な融資を行っていた。

貸しても貸しても無くならない、貸してあげれば有難うと感謝される。なんだか解るような気もする。
200兆円と言えば日本の国家予算の2倍に相当する金額であり、仮に100年で使おうとした場合、毎年2兆円、毎日55億円づつ使う必要があり、帝愛グループの兵藤会長でも無理がありそうだ。
現代の大富豪として知られるテスラのイーロン・マスク氏やAmazonのべゾス氏ですら総資産は、20兆円ほどである。
その10倍にも相当する凄い金持ちが、かつてこの日本に存在した事にロマンさえ感じてしまう。
同じ日本人として誇らしくも思うので、親しみを込めて「辰っちゃん」と呼ぶ事にしよう。
22歳になった辰っちゃんは、江戸幕府から「町人の分を超えた贅沢な暮らしが目に余る」との言いがかりを付けられ、数百万両の金員に加えて大阪北浜の土地や各地の別邸、船舶や美術品など殆どの財産が没収される闕所処分(けっしょ)が命じられた。
闕所(けっしょ)とは、財産没収刑であり大阪所払い(他府県に追いやられる)を意味する。
一説には、100兆円にも上る借財を重ねていた諸大名らの策謀によって陥れられたとも言われるが定かではない。
まぁ早い話が幕府による恐喝である。
いかに大金持ちの辰っちゃんでも、強大な軍隊を率いている徳川には勝てない。力こそ正義なのだ。
だが、歴代の淀屋の党首達は早い段階から闕所処分の匂いを感じとり、頭の切れる四代目(じゅうとう)は、闕所の事前に淀屋の番頭(牧田仁右衛門)に暖簾分けする事で一部の資産と利権をオフショア(国外退避)に置いていた。
辰っちゃんは、江戸幕府によるカツアゲで敢え無く撃沈してしまったが、その傍流として伯耆国(ほうきのくに)現在の鳥取県に逃れていた牧田家に引き継がれた淀屋の血脈は、牧田淀屋と改称され生き残っていた。

その後、牧田淀屋の三代目、五郎右衛門の時代になって大阪の地へと舞い戻り、五郎右衛門は淀屋清兵衛と名乗り、大坂淀屋と商号を改めると再び大阪の地に淀屋を再興した。
さらに時代は流れて1800年代中盤、明治の足音が聞こえ始めると五代目淀屋清兵衛は、倒幕運動に奔走するなど数々の功労を収めたのち、自らの財産を朝廷に寄付すると共に淀屋300有余年の歴史に幕を下ろした。
幕末最強の剣士 河上彦斎

河上 彦斎
かわかみ げんさい
1834-1872
~幕末の人斬り伝~
優しくも非情なる剣士
幕末の四大人斬りに数えられ、佐久間象山を斬り殺した事で知られている。
また、漫画「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心のモデルであるとされ、穏やかな見た目に反して激烈な気性を持つ意外性から有名な人斬りの中でも異色の存在感を放つ存在として知られている。
尊王攘夷派の熊本藩士であり、明治維新後も攘夷(じょうい)思想を強く持ち続けていた為、新政府から危険人物と目され斬首刑に処せられた。享年37歳。
1834年、肥後細川家熊本藩の下級藩士の家に生まれる。
16歳頃になると藩主邸の茶坊主(雑用係)として登用され、主君に仕える中で皇学や儒学、兵法術について学び、20代後半頃には幹部職へと昇進した。
身の丈は5尺前後(150㎝程度)と小柄であり、華奢な体躯に色白で淡泊な顔立ちであった事から、一見すると女性の様にも見えたと言う。
倒幕派、佐幕派、諸士入り乱れる動乱の幕末期において、岡田以蔵や中村半次郎らを含む四大人斬りの中でも特に恐れられた存在であった。
剣術は、我流(自己流)であったとされているが、一説には伯耆流(ほうきりゅう)居合術を学んでいたとも言われている。
逆袈裟(ぎゃくけさ)に斬り上げる居合の達人であり、左ひざが地面に着くほど大きく右足を踏み込ながら抜刀し、下から上へと斬り上げる特殊な刀法を用いたとされる。
熊本藩士として強固な尊王攘夷思想(天皇中心の排外主義)に身を固めていた彦斎(げんさい)は、20代後半の頃に池田屋事件で新撰組に討たれた同藩の朋友「宮部鼎蔵」の仇を打つべく、幕末の京都へと赴いた。
上京後に同じく尊王攘夷を掲げる長州藩の桂小五郎らとも親しくなり、後に彼ら倒幕派の政策にも参加する。

普段は礼儀正しく温和な人柄であったと言うが、意に沿わなければ平気で人を斬り殺す残忍性を併せ持ち、彦斎に睨まれたら逃げられないとの意味から「蝮蛇(ヒラクチ)の彦斎」の呼び名で人々から恐れられたと言う。
豪傑で鳴らした新撰組局長の近藤勇でさえ、たまたま京の町中で彦斎と出くわした際には、うつむいて目を逸らしたと伝えられている。
史実としては、佐久間象山殺害のみが注目されるが、日頃から頻繁に人を斬り殺しており、簡単に人命を奪う事を批判した勝海舟に対して「あなた方も畑の茄子や胡瓜は、頃合いを見てもぎ取るでしょう。」それと同じであり、話しても通じぬなら適宜、もぎ取るのが現実的であるとの意を述べたと言う。
また、ある酒席で仲間から横暴な役人の噂話を聞いていた彦斎は、黙って頷いてはいたが、唐突に立ち上がって店を出て行ったかと思うと暫くして血だらけになったその役人の首を抱えて戻り、また何事も無かったかの様に仲間たちと飲み直したという逸話が残されている。
彦斎が使用した刀は、肥後国(熊本県)の名工として名高い同田貫宗廣(どうだぬき むねひろ)だと言われているが、実際のところは定かではない。

同田貫とは、1500年代より続く肥後国を本拠とした刀工集団であり、初代藩主の加藤清正お抱えの刀工であった正国を始め、その流れを組む刀工の総称である。
刀身は、反りが浅く身幅が広く、肉厚で豪壮な体配を成しており、実践的な剛刀として知られている。
確かに写真の彦斎が帯刀している刀のフォルムも反りが浅い直刀に近い形状が見受けられる。
この様な刀を片手だけで抜刀して斬り上げていたとするなら、見かけに寄らず相当な腕力の持ち主だったのかも知れない。
多数の人間を躊躇なく斬り殺していたとされる彦斎であるが、その内面は人情に厚く、仲間思いで特に妻子にはとても優しかったと言う。
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