最強のサイキッカー ヴォルフ・メッシング

ヴォルフ・メッシング
1899-1974
史上最強のサイキック
その驚くべき能力とは
史上最強のサイキッカーとして知られ、人の心を読む「読心術」を駆使する事で他人を自在に操る能力を有していた。
その"超能力"をスターリンから認められ、ヒトラーからは多額の懸賞金が掛けられるほど敵視されていたと言われる。
また、アインシュタインやフロイトなど著名な学者達との交流もあり、彼らの知識や認識力を持ってしても、メッシングが行う現象の解明には至らなかった。
1899年、ロシア帝国時代のポーランドワルシャワ東南部の村に住む敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれたメッシングは、幼少の頃より、ユダヤ教の聖典タルムードに精通するなど聡明な一面を見せる一方で、夢遊病を患い無意識で家中を徘徊するなどの奇行が見られたという。
敬虔なユダヤ教徒である両親は、息子をラビ(ユダヤ司教)にしたいとの考えを持ち、彼を神学校に通わせるべく様々な手法を用いて洗脳教育を行った。
メッシングがまだ幼いある日、神の様な外見に扮装した人物を学校帰りの彼の前に出現させ、ユダヤ司教になる為に神学校に行くよう偽の啓示を与えるなど、度が過ぎる猿芝居を企ててまで自分達の思い通りに操ろうとした。
後にその事実を知ったメッシングは酷く落胆し、他人を欺く事に対する認識を変えられたと述懐している。
元々、メッシングには、超能力とも言える不思議な力が備わっていた。
村の人々に持ち物を隠させておいて、その在処を言い当てたり、念力を用いて相手の考えを言い当てるなどのパフォーマンスで、村では人気者であった。
しかし、偽の神示までして自分を矯正しようとする両親に反発を覚えたメッシングは、ある時、高ぶる気持ちに任せて家を飛び出すとベルリン行きの汽車に飛び乗った。
所持金の無いメッシングは、切符を買わずに座席の下に潜り込み、そのままやり過ごす事を考えた。
すると間もなく切符の検札に廻る車掌の声が聞こえてきた。しかし自分は切符を持っていない。無賃乗車がバレると警察に引き渡される・・・高鳴る心臓の鼓動を抑えながら座席の下で身を屈めて車掌が通り過ぎるのを祈った。
しかし、座席の下から見える車掌の足は眼前で立ち止まり、下を覗き込んだ車掌と目が合った瞬間、張り裂けそうになる心を抑えながら床に落ちていた新聞の小さな紙片をそっと手渡した。どうかこれが切符になりますように強く念じながら。
すると車掌は不思議そうに紙片の表裏を確認しながら「切符を持っているのにどうして隠れているのですか」と訝しげな表情を浮かべながら紙片に入鋏すると次の座席へと移動して行った。
この時、メッシングは、念力で他人の視覚や認識を操れる事に気が付いたのだと言う。
かくしてベルリンに到着したメッシングは、皿洗いなどの雑務で生計を立てながら自らのサイキック能力に更なる磨きをかけた。
当初は、空腹で倒れるほどの極貧生活を強いられていたが、次第にその"能力"の噂が広まるとヨーロッパを巡業するサーカス団に加わり、持ち前のサイキック能力を使ったパフォーマンスで何百万という観客を熱狂の渦に巻き込んだ。
精神分析のフロイトや、アインシュタインなど著名な学者達も噂を聞きつけ、彼が行うショーの見物に訪れたと言うが、目の前で起こる現象に説明が付かなかった。
メッシングは、フロイトの頭の中を読んでアインシュタインの口髭3本を引き抜いて驚かせたと言う。
1933年、ヒトラーが独裁政権を握り大戦の足音が聞こえ始めるとユダヤ人であるメッシングは、身の危険を感じてポーランドに帰郷した。そして、ヒトラーに対する不吉な予言を公表した事でヒトラーから懸賞金をかけられ命を狙われる事となる。
その後1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、メッシングは運悪くナチスの秘密警察に捕えられ収容所に連行された。
激しい暴行を受け命の危機に直面したメッシングは、サイキック能力で看守達の意識を操作して自分の牢獄の前に集結させると自分の代わりに牢獄に入るよう命じた。代わりに牢を出たメッシングは外から施錠し、収容所からの脱出に成功する。
間もなくロシアへと亡命したメッシングは、その地でもサイキックショーを披露し、再び多くの人々を驚愕させた。その噂は、当時のソ連最高指導者ヨシフ・スターリンにも伝えられた。
メッシングの能力に興味を抱いたスターリンは、メッシングに難題を与えて彼の能力を試した。
それは何も書かれていない白紙を使ってソ連の国立銀行から10万ルーブルを引き出してこいと言うものであった。
メッシングは、言われた通りに銀行の窓口で白紙を差し出すと難なく現金を引き下ろす事に成功する。
対応に出た出納係の行員達には、メッシングの差し出す白紙が正式な小切手に見えたと言い、念の為に慎重に確認したが何の問題もなかったと証言した。
驚いたスターリンは、次に厳重に警備されている自分の部屋まで手ぶらでやって来いと命じた。
途中、幾度も出会う警備員達に自分を秘密警察であると信じ込ませたメッシングは、難なくスターリンの部屋までたどり着き、再びスターリンを驚かせた。
メッシングの能力を認めたスターリンは、彼の言葉に耳を傾け大戦の行方や自身の死期について尋ねたと言う。
メッシングによると、これらの神憑り的な現象は、決して超能力や神秘の力によるものではないという。
それは人間が思考する際に発する微細な電気信号による僅かな筋肉の変化や息遣い、態勢や声色、視線などから情報を得る事で人の考えが手に取る様に解るというもので、心を読むと言うよりは筋肉を読む感覚であると述べている。
心理学の分野では、しばしばマッスルリーディングと呼ばれているが、それにしても手を触れず遠隔で相手の行動を操るなどは、心理学の範疇を超越していると言わざるを得ない。
そして1974年、全てを欺く能力を持つ希代のサイキッカーは、自らの死を欺くこと無く普通の人間と同じ最後を迎えた。
手を触れずに遠隔で他人を操る能力が神秘の力ではないとするなら、そこには一体、どんな物理作用が働いているのであろうか・・・。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
最強の努力家 マッスル北村

マッスル北村
1960-2000
~アジア最大のバルク~
伝説のボディビルダー
アジア人としては規格外の肉体を持ち、近代の日本ボディビルディング界では、一際異才を放った存在として知られている。
その壮絶なるトレーニングと共に勉学にも励んだ人生は、常人では計り知れない超絶的な努力の上に成り立っていた。
アジア選手権で優勝、太平洋世界選手権では総合優勝を果たすなど、数多くの権威あるコンテストにおいて優勝又は入賞の実績を持つ一方で、二度に渡って最難関大学への入学を果たすなど、エリート中のエリートと言って差し支えのない頭脳も併せ持っていた。
幼少の頃より、「人は何の為に生まれてくるのか。生まれてきたからには何かの目標に向かって自分の限界まで挑戦したい。」とのアイデンティティを追求する信念を持ち、肉体や精神を鍛え抜く事で自らの人生が切り開けるとの思いがあったと言う。
その思いは成長と共に大きく膨らみ続け、「自分には時間がない」と口癖のように語りながら、何事にも徹底して追及する性分であったと言う。
小中高の一貫校として都内でもトップクラスの進学校に通学していた北村は、中学生頃になると、大学には進学せずに競輪選手になりたいとの思いを抱く様になり、独自の猛練習に励んでいた。
峠道などの厳しい難所を含む200kmにも及ぶ道程を自転車で走破する計画を立てると、所持金1,000円と1ℓの牛乳パック1本をリュックに入れ、帰宅時間から逆算した前日の深夜に自宅を出発したという。
常に限界に挑む習癖があると語る北村は、スタートからゴールまでノンストップで走り続けることを前提に必要時間を算出していた為、高低差の激しい山道であるにも関わらず、飲まず食わずの16時間ぶっ通しでペダルを漕ぎ続けた。
極限状態でも休まず走り続けていた為にゴール目前にして極度の脱水症状に陥る。
命の危険を感じた北村は、咄嗟にリュックから牛乳を取り出すと一気に飲み干したと言う。
しかし、夏場の常温で16時間を経過した牛乳は完全に腐っていた。直後から身体に異変が起こり始め、激痛と共に意識が遠のき、その場に昏倒してしまった。
次に目が覚めると病院のベッドで寝ており、心配そうに覗き込む家族の顔が見えたと言う。この時の事を「今思えば、本当に危ない状態だったのね」と後年、ニコニコしながら他人事の様に語る氏の姿は印象的である。
その後、競輪選手達と共に練習する機会に恵まれたが、選手達の走行技術の高さとスタミナに脱帽し、自分には超えられない壁を感じた事で競輪選手への道を断念する。
その一方で勉学に対しても超絶的な努力で挑んでいた北村は、初の大学入試において防衛医科大学及び早稲田大学理工学部に現役合格を果たした。
しかし、東京大学に目標を定めて浪人生活に入った北村は、ある時、予備校に向かう道中で立ち寄った古本屋でボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」を目にする。
東大を受験する為の予備校生活とはいえ、今一つ将来のビジョンが浮かばず悶々としていた北村の脳裡に劇画の主人公"矢吹ジョー"が命を懸けて完全燃焼する姿が鮮烈に焼き付いた。
まだ若く血気盛んな年頃であった北村は、自分もボクシングに人生を賭けてみたいと思い立ち、直ぐさま自宅近くのボクシングジムの門を叩いた。
この時の心境について、まずボクシングで世界チャンピオンになって一旗揚げた後に勉強でも何でもやれば良いとの考えがあったと言う。
ジムに入門した北村は、持ち前の探求精神を遺憾なく発揮し、チャンピオンを目指して猛練習に励んだ。
それまで続けていた独自のトレーニングが功を奏してか、入門当初からパンチ力が非常に強いとの高評価を受けると益々やる気に拍車がかかった。
本人も、何故だか解らないけどパンチ力が強かったと回想しており、その余りの強打により、ゲームセンターのパンチングマシン2機を故障させた経験もあるという。
しかし、それほどのパンチ力を備えていながら、思いがけない理由でプロボクサーへの道を断念する事になる。
視力0.01という極度の近視であった北村は、視力の問題があったのは確かであるが、それ以前の肝心な部分として対戦相手が殴れないとの優しい性格が障壁となっていた。
「相手を殴る時は気を使ってねー、顔は殴れないし、当たったら痛かろうなと考えたら殴れなかったのね。だから殴られた数を覚えてね、同じ数なら殴り返しても良いかなとか考えたり・・サンドバッグと人間では僕にとっては違い過ぎたのね」と無邪気に語る姿には、強靭なフィジカルとはアンバランスほど慈愛に満ちた豊かな精神性が感じられる。
そんなボクシング経験もしながら2年間の浪人生活を終え、ついに念願の東京大学理科Ⅱ類への入学を果たした。
が、授業は始めの1週間ほど通ったきりとなり、それ以降に出席した記憶は無いと言う。
それは、この東京大学で後のライフワークに繋がるボディビルディングに出会った為でもあった。
先輩の指示のもと早々にボディビルディング学生選手権に出場するも、身長173㎝、体重50㎏程度の体格では、他の選手達に太刀打ちする術もなく、泣きそうになるぐらい惨めな思いをしたという。
勉強する時も、1冊の本の中身を全て覚えるまでは帰宅しないし食事もしないと言って外出したきり、本当に帰ってこなかったと家族が証言する様に非常な努力家であった北村は、この時の経験からボディビルに全身全霊で打ち込む決意を固め、雪辱を晴らすべく壮絶なトレーニングを開始する。
まずは、体重の増加に取り組んだという。通常の食事以外に生卵30個、牛乳3リットル、サバ缶3つ、プロテイン300gを大量の消化剤と共に接種する事を繰り返し、わずか1年足らずで40㎏もの増量に成功する。
その他に生の鶏肉を使用した独自のスムージーも考案した。
冷凍した生の鶏ささ身肉20本程に水とノンカロリーシュガー、バニラエッセンスを加えてミキサーでペースト状にしたものを1日5食の合間に2回ほど摂取するという驚くべき間食である。
その上で見る者が気絶しそうなほど壮絶なトレーニングを続けた結果、2年後の関東学生選手権では、圧倒的な実力で優勝を果たした。
しかし、その間、授業には一切出席していなかった。「東大の近くまでは行くんだけど、ある道を曲がれは東大で真っ直ぐ行けば公園があってね。で、僕は真っ直ぐ行って公園でトレーニングしちゃうのね」と回想する姿にも、一途な人柄が表われている。
ボディビルでは、それなりに満足する結果を得るも大学をドロップアウトして将来が見えない北村の脳裡にふと「自分の人生は、どうあるべきなのか」という幼少期に覚えたアイデンティティを追求する思いが蘇った。
自分のあるべき姿について、今一度考えた北村は、「そうだ僕は人の役に立ちたい。医者になって世の中に貢献しよう」と思い立ち、以前に使用していた参考書を引っ張り出すと、再び猛勉強の日々を送る。
その結果、一発で東京医科歯科大学医学部への入学を果たした。
「初めは簡単に合格できそうな気がしたけど、実際の試験は難しくてね。最後は、神様なんとか合格させて下さいってすがる様な思いだったのね」と軽妙に語る姿にも、普通人なのか天才なのか判別が付きにくいユニークさが垣間見える。
しかし、苦労の末に掴んだ医者への道もボディビルへの情熱には遠く及ばなかった。時間が経過するにつれ「やはり自分はボディビルを極めたい」との思いが強くなり、またもや中退してしまう。
将来性のある難関大学を2度に渡って中退したことに激怒した父親との確執が深まる中、もはや北村にはボディビルダーとしての成功以外は全て余事となっていた。
人生の道をボディビル一本に定めた北村の追求は更なる加速を生み苛烈さも増して行く。
究極的な北村のエピソードの中でも特に有名なのが、1985年のアジア選手権での凄まじい減量である。
社会人選手権で優勝した北村に急遽アジア選手権への出場オファーが舞い込んだ。
しかしアジア選手権までは4日間しか無い。先の大会での過酷なトレーニングと極度の減量で体は疲弊しきっていた。
焦りを覚えた北村は、筋肉に張を持たせようと高カロリー食事をするも歯止めが効かなくなり、僅か2日間で体重が13㎏も増加してしまった。
アジア選手権までは残り2日間しかない。13㎏以上の減量に迫られた北村は、電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅まで走って帰る超長距離マラソンに挑戦する。
結果、120㎞の道のりを15時間かけて走り抜き、14㎏の減量に成功した事で見事にアジア選手権ライトヘビー級で優勝し、ボディビルコンテストの最高峰、ミスター・ユニバースへの切符を手にした。
しかし、身長173㎝、体重115㎏というアジア人としては規格外の肉体を誇っていた北村は、ボディビル連盟より筋肉増強剤(アナボリックステロイド)の使用を疑われて出場停止の勧告を受ける。更に、そのトラブルが元で同連盟を脱会する事態にまで陥った。
筋肉を大きくする為ならどんな努力も惜しまないと語っていた北村であるが、彼の物事に対する尋常では無い努力とひた向きな姿勢からは薬物使用のイメージは浮かばない。
自著の中でも、薬物使用を完全否定すると共に陰謀めいた疑惑に巻き込まれた事も明かしている。
専業のボディービルダーとして、国内での活動の道を閉ざされた北村は、次第に芸能界へと足を踏み入れてゆく。
書籍の出版や技術的な指導を含めテレビ出演や雑誌などでも周知される一方、海外コンテストに活動の場を見出した北村は、更なるトレーニングと研鑽の日々を送っていた。
そして時は流れて2000年8月、その幕引きは突然に訪れた。
ボディビル世界選手権に出場するべく、20㎏にも及ぶ極度の減量に成功した北村は、異常な低血糖状態に陥り、急性心不全を引き起こして帰らぬ人となった。
短くも高密度な人生は、突如として終わりを告げた。一説には、体脂肪率が3%を切っていたとさえ言われている。
事故の数日前にも救急搬送された経緯があり、極限状態にあっても飴玉一粒ほどのカロリーでさえ拒むほど強固な意志を貫き通した姿がそこにあった。
強靭なフィジカルと卓越した知力、他者を思いやる慈愛に満ちた心と自らを律する強固な意志、全てにおいて一般人を遥かに凌ぐ能力を備えていた氏は、戦うべき本当の敵を自らの心の中に見出していたのかも知れない。
限界まで行うトレーニング
朝食作り
生ささ身ジュース
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不死身のパフォーマー ミリン・ダヨ

ミリン・ダヨ
1912‐1948
脅威の串刺しパフォーマー
近代七不思議の一つ
1945年当時、世界を震撼させた"不死身"のパフォーマー。
エスペラント語で"素晴らしい"の意味を持つ「ミリン・ダヨ」の名で数々の驚異的なパフォーマンスを行った。
本名は、アーノルド・ゲリット・ヘンスケンズと言い、1912年、オランダロッテルダムに生まれた。
幼い頃から身の回りで起きる奇妙な出来事を不思議に感じていたと言うダヨは、20代の頃は、デザイン会社に勤務するごく普通の会社員であった。
しかし、33歳になったある日、突然、自分の身体が不死身体になっている事に気付いたのだと言う。
かねてより唯物的で物質主義的な社会思想が戦争や不幸ばかりを招くことに反感を持っていたダヨは、この不死身の肉体を通して、人々が理解する現実以上の世界が存在する事を世間に知らしめようと考えた。
連日、街のパブに出向いて、そこに居合わせた人々に刃物を渡し、それで自分の体を突き刺してもらう過激なパフォーマンスを始めると、ダヨの名前は瞬く間に世間に知れ渡った。
更に多くの人々に"超現実"を示すため、アムステルダムへと活動の場を広げたダヨは、その地で自分の体をサーベルで貫く助手となる「グルート」に出会う。
ダヨとグルートは、毎日の様に街の音楽ホールのステージに立ち、フルーレ(フェンシング用の剣)やサーベルを用いて身体の前後左右を縦横無尽に貫く過激なパフォーマンスを行い、観客達の度肝を抜いた。
傷口から血は流れず、ダヨ本人も全く苦痛を感じていない様子に人々の目は釘付けとなったが、この非常に明解かつ、きな臭いパフォーマンスに科学者達は、直ぐさま懐疑的な眼を向けた。
人間の臓器を剣で貫いて無事で済むはずがない。至って正常な反応である。
科学者達は、大学の研究室にダヨを招いて、その場で"串刺し"を行ってくれるよう頼んだ。
ダヨは、快く応じるといつもの様にグルートがダヨの身体を貫いて見せる。
学者達は、その状態のままレントゲン撮影してくれるようダヨに申し出た。
ダヨが快諾すると、‶串刺状態″のまま数々の科学的な検証が行われる事となった。
レントゲン写真には、確かに肺や心臓など主要な臓器を剣が貫いている様子が映し出されていた。ダヨがいかに異常体質であると仮定しても、学者達は首を傾げるより他は無かった。

そして、剣で貫いた穴にゴムチューブを差し込んで、先端から水を放出させる実演により、明らかに物体が身体を貫通している事が証明された。
流石の科学者達も、剣やチューブがダヨの肉体を貫通している事は認めるしか無かったが、後の調査により様々な仮説が生まれた。
異常脂質によって傷口の止血効果が高く、大量出血に至らないとする特異体質説、予め身体に空けた穴にチューブを設置して、その内部を貫く事で重症を防ぐというトリック説などが唱えられたが、どれも解明には至らなかった。
特異体質にも限界があるし、チューブ設置の場合は、少しでも剣が外れると即座に致命傷に至るため、毎晩の様にそれも同時に数本の剣を縦横から突き刺すなど、むしろ非現実的であるという結論であった。

ダヨは、これらの奇跡について、自分に指示を与えてくれる守護天使の力によるものだと言い、天使達の啓示に従って実行しているに過ぎないと公表していた。
しかし、最後の時は突然にやって来た。ダヨが自宅にいる時、またいつもの守護天使の声が聞こえてきた。
その内容は、釘を食べなさいと言うものであった。そして、その食べた釘を麻酔をかけないで取り除いてもらえと言う不可解かつ凄惨な内容であった。
それまで何の疑いもなく守護天使の声に従ってきたダヨは、躊躇なく釘を食べる。
数日後に医師が確認するとダヨの体内には確かに釘が存在していた。
そして手術の段になって"麻酔をかけないでほしい"とのダヨの要望に反し、医師は麻酔をかけて除去手術を行った。
開腹手術を行うのだから当然の事である。
ダヨが、自宅でぐったりしているのをグルートが発見するのは、それから数日後の事であった。
いつもの様に瞑想している様に見えたが、どこか不自然に思い念のために確認してみるとダヨは意識を失っていた。
病院での検視により、大動脈破裂による死亡が確認された。"不死身の肉体"を持つを男の静かなる最後であった。
不死身を自覚して、パフォーマンスを開始してから僅か3年間の出来事であった。
これが、仮にトリックであったとしても、実際に異物が身体を貫いているのは事実であり、それ自体が既に驚愕のパフォーマンスだと言える。
或いは、ダヨの言う守護天使による力で、人々に対する何らかのメッセージであったのかも知れない。
今となっては、真実を知る術はないが、現代で同じ事が出来る人間は存在しないのではないだろうか。
串刺パフォーマンス 実写映像
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