不死身の分隊長 舩坂 弘

舩坂 弘
ふなさか ひろし
1920-2006
~生きた英霊~
アンガウルの戦闘
不屈の精神力と類まれな武術の資質を合わせ持ち、剣道六段、居合道錬士、銃剣道錬士、特別銃剣徽章並びに特別射撃徽章を受けるなど、剣術、射撃術には、一通り習熟していた。
第二次世界大戦の中でも激戦中の激戦と言われたアンガウルでの戦いを生き抜き、奇跡的な生還を果たした事から生きた英霊と称えられた。
白兵戦における絶大な戦果により、「戦史叢書せんしそうしょ」(防衛省公刊の戦史書)に唯一、個人名で記されている。
栃木県の農家の三男として生まれた舩坂は、幼い頃から近所でも有名なガキ大将であったと言う。
義務教育を終えた後も早稲田講義録などで独学を続け、満州国開拓を推進する専門学校に入学する。その後、1941年頃に陸軍宇都宮第36部隊に現役入隊すると程なく満州へと渡り、歩兵師団に配属された。
この時すでに剣道と銃剣術では秀でた存在であり、上官からもお墨付きを得るほどの腕前であったと言う。入隊以来、30回以上の賞状や感状を受け、射撃と剣術においては無類の才能を発揮していた。
1944年、戦況の悪化により、ついに舩坂の所属する部隊にも南方戦線への動員命令が下る。この時の舩坂は除隊を目前に控えていたが、戦況の急はそれを許さず、パラオ諸島の一つであるアンガウル島に向かう事となった。
15名の兵士を率いる舩坂は分隊長を務め、中隊の中でも一目置かれる存在であり部下からの人望も篤かった。
アンガウルの戦闘は、太平洋戦争におけるパラオ、マリアナ戦役最後の戦いであり、当時23歳の舩坂は、この戦いで多大な戦果を上げる事となる。
最終的には、1万人を超える米兵が駐屯するアンガウル島で、僅か1500名足らずの日本兵による無謀とも言える攻撃が開始されると、舩坂は、迫撃砲の筒身が真赤になるまで絶え間なく打ち続け、200人以上の米兵を殺傷したと言う。
しかし、水際作戦での激戦に次ぐ激戦により、中隊は次々と壊滅していった。負傷を負っていた舩坂も、大隊の残存兵らと共に島の洞窟へと逃れ、以降はゲリラ戦へと移行するより手立てがなかった。
僅かな武器と満身創痍の身体を引きずりながら戦闘を続けていた舩坂であったが、米軍の苛烈な攻撃を受けるに至り、ついに大腿部に重度の裂傷を負い動けなくなってしまう。
数時間後にようやくやって来た軍医は、船坂のあまりに酷い傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を置いて立ち去ったと言う。
舩坂は、重症を負いながらも、ひも状にした日章旗で大腿部を縛り上げて止血し、夜通し這いながらやっとの思いで洞窟陣営に帰りついたと言う。
通常では、まず助からない程の深い傷を負っていた舩坂であったが、翌日には、足を引きずりながらでも歩けるようになり、その後も幾度となく瀕死レベルの傷を負うも不思議と翌日には回復していたと言う。
後に舩坂は、生まれつき傷が治りやすい体質であった事に助けられたと語っている。
絶望的な状況に陥ってもなお舩坂は鬼神の如く戦い続けた。重症の身でありながらも、銃剣で1人の敵を倒すと同時に引き抜いた銃剣を直ぐさま、もう一方の敵に投げて突き刺すなど神憑り的な強さで修羅場を潜り抜けていた。
しかし、食糧も水も無い中での戦いは、次第に日本兵達を追い詰めるに至り、洞窟豪の中は重症を負った者が自決用の手榴弾を求める呻き声に溢れ、さながら地獄絵図と化していた。舩坂自身も腹部盲貫銃創の重傷を負い、もはや這う事しか出来なくなっていた。
盲貫銃創(もうかんじゅうそう)とは、弾丸が貫通せずに体内に残っている状態であり、速やかな摘出を要する一刻の猶予も許さない危険な状態である。
これまで幾度となく修羅場を潜り抜け、瀕死の状態からでも不屈の精神と体力で乗り越えてきた船坂も、自らの傷口から蛆虫が這い出る様子を見て、もはやこれまでと手榴弾のピンを抜いて自決を図る。
しかし、幸か不幸か手榴弾は爆発しなかった。自決失敗と言う現実に落胆した船坂は、なぜ自分だけ死ねないのかと深い絶望感を味わったと言う。
中隊、大隊ともに壊滅状況にある中、追い詰められた舩坂は、最後の力を振り絞って米軍司令部への単身斬り込み自爆攻撃を決行する。
手榴弾六発を体に括り付け、拳銃一丁を持って数夜を這い続ける事で、ついに敵の警戒ラインの突破に成功し、4日目には米軍指揮所のテント郡の手前20mの地点にまで潜入していた。
この時の舩坂は、大腿部裂傷、腹部盲貫銃創2カ所、胸部盲貫銃創1カ所、関節脱臼、打撲傷に加えて全身には無数の砲弾の破片が食い込んだ血まみれの重体であり、さらに長距離を匍匐前進(ほふく)していた為、軍服はボロボロに擦り切れ、さながら地獄の亡者か亡霊の様な姿であったと言う。
舩坂は米軍指揮官が指揮所テント内に集合する時に突入すると肚に決めていた。
総勢1万人もの米兵が駐屯するテント群を目前に手榴弾を握り締めた船坂は、静かにその時を待った。そして将校を乗せたジープが次々と司令部に乗り付けるのを確認すると、いざこの時と全力を振り絞って立ち上がり、指令部テントに向かって渾身の力で突撃した。
突如として現れた狂人的な風貌の人物に米軍兵士達は驚きのあまり啞然として立ち尽くしていたと言うが、直ぐさま銃撃を受けた船坂は、その場に昏倒した。
数日後に気が付くと野戦病院らしきベッドの上に寝かされており、決死の覚悟で突撃したにも関わらず、温情を掛けられて助けられた事に怒りを覚えた船坂は、周囲の医療器具を破壊して暴れま回った。
駆けつけた兵士が、船坂に銃口を向けて警告したが、向けられる銃口に自らの身体を押し当て「早く殺せ!殺すんだ!」と鬼気迫る形相で叫んだ。
この奇妙な日本兵の行動は、米軍兵士達の中で瞬く間に話題となり伝説となった。舩坂の捨身の行動は、多くの米兵を恐れさせたが、その勇気を称え勇敢なる兵士として畏敬の念を抱く者も大勢いたと言う。
その場に居合わせた米軍兵士の一人であり、後にマサチューセッツ大学の教授となるロバート・E・テイラーは、戦後、舩坂に宛てた一通の手紙の中で「あなたのあの時の勇敢な行動を私達は今も忘れられません。あなたの様な人がいる事は、日本人全ての誇りとして残ります。」と賛辞の言葉を述べている。
その後、アンガウルの野戦病院からペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移された舩坂は、ここで監視の目をかい潜り、収容所からの脱出に成功する。
この頃、「勇敢なる兵士」の噂は、ペリリュー島にまで伝わっており、所属部隊の身元を偽装する為に「グンソーフクダ」と名乗っていた舩坂は、要注意人物の筆頭格として警戒されていた。
捕虜となっても、いまだ闘志は衰えず、人知れず収容所から脱出した舩坂は、数キロもの距離を潜行して日本兵の遺体に辿りつき、遺体が持つ弾丸から抜き取った火薬を使って米軍弾薬庫の爆破に成功する。
その後、もと来た道を辿って収容所へと戻り、この爆破事件は、MPによる調査の甲斐も虚しく舩坂の犯行であることが発覚する事は無かった。
その後も2度に渡り、米軍基地の飛行場爆の爆破作戦を試みるが、事前に発覚したため未遂に終わる。そして、グアム、ハワイ、アメリカ本土の収容所などを転々とした後、1946年に帰国を果たした。
アンガウル島では、全軍が玉砕したとの広報が伝わっていたため、舩坂がボロボロの姿で生家に戻ると周囲の人々は動揺した。幽霊ではないかとの噂が飛び交うほど、暫くの間は疑いの目で見られていたと言う。
舩坂は、1944年のアンガウル玉砕の公報から帰国するまでの間、戸籍上では死亡した事になっていた為、故郷に帰って最初に行った事は、自らの墓標を引き抜くことであったと言う。
幾多の死線を潜り抜け、何度でも死の淵から這い上がった船坂は、帰国後も冷めやらぬ闘志を日本の復興に向けたいとの思いに駆られる。
戦地で体験したアメリカの先進性を学ぶ事が、今後の日本国の発展に繋がるとの思いを抱き、人々に多くの知識を広める為にと書店の経営を思いつく。
当初は、わずか1坪程度の他店に間借りした小さな店であったが、書店経営を通じて社会に貢献したいとの熱い思いがあった。
この舩坂の書店は、後に本のデパートと形容され多くの人に親しまれる大盛堂書店の創設へと繋がって行く。
また書店経営と並行して、剣道の修行も続けていた。剣道を通じては、作家の三島由紀夫との親交も生まれ、度々、意見を交わす間柄でもあったと言う。三島の愛刀として有名な「関の孫六」は、舩坂から贈られたものである。
舩坂は生涯の使命として、自らが体験した戦記などの多数の本を出版し、本の印税と読者から寄せられた義援金の助力も得て、アンガウル島や周辺の島々に散った将兵達への鎮魂を意とした慰霊碑を次々に建立した。
そして、どれほど多忙であっても、毎年の収骨慰霊を欠かさず、パラオ諸島の原住民に対する援助や戦没者遺族達との平和活動にも精力を注いだ。
出版で得た印税も自らに使うことが無く、全額を国際赤十字社に寄贈している。
生まれ持った強靭な肉体と精神力を盾に幾多の死線を戦い抜いた舩坂であるが、その背景には、人知を超えた何らかの超自然的な力が働いていた様にさえ感じられる。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
| ホーム |