健康の達人 肥田 春充

肥田 春充
ひだ はるみち
1883-1956
中心力が心と体を創る
超人が編み出した健康法
肥田式強健術の創始者であり、他にも思想家、著述家、哲学者などの顔を持つ。
医師であった父親のもと山梨県に生まれる。
幼少期の肥田は、病弱な体で痩せ細っていたため、「茅棒」(かやぼう)とあだ名され、2度に渡り死の宣告を受けるほど極めて虚弱な体質であったという。
18歳頃より心身改造を志す様になり、古今東西の健康法、運動法などを研究し、西洋式のウエイトトレーニングから東洋の丹田鍛錬法や氣学なども取り入れ、それらを纏めた独自の鍛錬法として「肥田式強健術」を創出した。
この鍛錬法は、腹と腰に同量の力を込める「腰複同量の正中心」を練磨するところに特徴があるが、身体だけでなく頭脳も飛躍的に向上させる効果があるとされ、肥田は僅か2年程の鍛錬で肉体改造に加えて、中央大学法科、明治大学政治科、商科、早稲田大学文学科と三大学四科へと進学した。
在学中は、剣道、柔道、弓道の選手として活躍したが、明治大学では初の柔道部を創設し、初代主将を務めた。
大学卒業後に「実験 簡易強健術」を出版すると瞬く間にベストセラーとなり、世に強健術ブームを巻き起こした。
その後、大日本帝国陸軍に入隊し、近衛歩兵連隊の中尉に就任した。
入隊後も強健術の研鑽を欠かさず、椅子に座ったままで行える「椅子運動法」なども考案した。
そして、1917年、肥田家の婿養子となり静岡県へと移り住み、その地で更なる強健術の研鑽に励む傍ら国事に奔走する様になる。
研鑽の日々を送り続けた1923年「腰腹同量の聖中心力」の悟得に至り、精神的な悟りも一層の深みを増し、禅の高層からもその境地を認められるまでになった。
更にそれまでの自然療法の研究結果として「天真療法」を完結させ、自身の半生と悟境を綴った著書「聖中心道 肥田式強健術」を世に発表する。
この本の中で中心力を応用した独自の中心力抜刀術や中心力護身術、中心力雄弁法、中心力鍛錬法などを発表している。
太平洋戦争前夜には、戦争を回避するべく思想家・活動家として民間人では唯一のA級戦犯に問われた大川周明らと協力し、自ら資材を投げ打って国事に奔走した。
開戦となった後も、陸軍大将である東条英機に2度に渡り終戦勧告を書き送るなど自らも自決する覚悟で挑むが、鍛錬により感得した「世界人類救済」の悲願を成就させるため死を思い止まったという。
その後は「世界人類救済」のため、宗教哲学の研究に没頭し、この研究を「宇宙大学」と名付けていた。
この時に著述した原稿は人の背丈程にも達したと言われ、その一部は肥田の死後、「宇宙倫理の書」として出版される事となる。
晩年の1955年頃には、社団法人「聖中心社」を設立し、永年の研究による宗教哲学に基づく平和運動を展開していたが、その翌年頃から人類の前途を憂うる余り、水も取らない49日間の完全断食修行を慣行し、そのまま永眠した。
生涯を通じて多くの軍人や政治家、学者、文人、武術家達と幅広く親交があり、肥田の多彩な才能と魅力溢れる人間性が多くの人々を引き寄せていたという。
また、古武術の大家として名高い竹内流の免許皆伝を僅か6ヶ月で取得し、竹刀を持てば対峙した対戦相手を突きの一撃で数メートルも吹き飛ばし、試し割では、杉板を足の形に踏み抜くなど、数多くのエピソードも残されている。
聖中心道 肥田式強健術
元祖 破戒坊主 武田 物外

武田 物外
たけだ もつがい
1795-1867
~不遷流柔術開祖
元祖 破戒坊主伝説
不遷流柔術の開祖とされ、幕末の曹洞宗の僧侶であると同時に武術家としても勇名を馳せた破天荒な人物として知られている。
その剛拳をゆえに「拳骨和尚」と渾名された。
幼少の頃より、頭抜けた怪力の持ち主であった物外は、後に各地を遍歴しながら多くの伝説を残し、晩年は、長州の「勤王の志士」達とも交流し、第一次長州征伐の調停役として活躍したと言う。
寛政7年(1795年)伊予松山範士の家に長男として生まれ、幼名は寅雄と言った。
5歳になると松山の龍泰寺の小僧となったが、この頃から手の付けられない暴れん坊であったと言う。
時は流れ文化3年(1806年)、12歳の時に伝福寺の和尚に引き取られ、弟子となって広島に移り住む。
この頃より、道場通いに励み、数多くの武術を習得したと言われる。
次第に名前が知られ渡るようになり、仲間同士の口論から地雷なども使用した大掛かりな合戦を計画するほどの豪傑となる。
その後の調べで、物外が一方の首謀者である事が判明し、寺から勘当を言い渡され放逐の身となった。
翌年には、大阪に出て托鉢修行をしながら儒教を学び、その後は雲水(禅宗の僧侶)となり諸国を遍歴する。
不遷流(ふせんりゅう)を称する物外の武術は、各流の武術を習合させたものであり、鎖鎌は山田流、槍は宝蔵院流、馬術は大坪流であったとされ、中でも最も得意としたのは鎖鎌であると言う。
諸国を巡る中、行く先々で様々な武術に出会い修行を重ねたと推測されるが、面白いエピソードも数多く残されている。
寺に居た頃、ある朝、誰の仕業か寺の釣鐘が下ろされていた。
このままでは朝夕の鐘を鳴らす事が出来ないため、寺の者達が総出で吊り直そうとしたが鐘はびくともしない。
困り果てたところに物外がやって来て、「うどんをご馳走してくれたら上げてやる」と申し出た。
僧侶達が了承すると物外は一人で鐘を持ち上げて元の位置に吊り下げたと言う。
むろん鐘を降ろした犯人は物外であり、その後もうどんが食べたくなると釣鐘を降ろしていたという。
他には、寺の柱を持ち上げて柱の下に藁草履を履かせる悪戯をしたり、またある時は古道具屋で見付けた碁盤を買おうとしたが持ち合わせが無く、金を工面して戻るまでは取り置きしてほしいと店主に頼んだが、何か手付がほしいと言われたので、それならばと碁盤を裏返して殴りつけ、「これでよかろう」と言うので見てみると、分厚い碁盤には物外の拳骨の跡がくっきりと残されていたと言う。
物外は、この拳骨の跡が付いた碁盤を何枚か残している。
また、興味深いエピソードとしては、新撰組の近藤勇と立ち合ったと言うものまである。
明治37年発刊「物外和尚逸伝」によると、京の町を托鉢していた物外が新撰組の道場を覗いていたところ隊士らに見つかり、からかい半分で道場に連れ込まれたが、物外は手にした如意(棒状の法具)で隊士達をたちまちに叩き伏せたと言う。
すると「やめろやめろ。君たちの手に負える坊様じゃないぞ」と局長の近藤勇が出てきた。
近藤は、名乗りをして竹刀での立ち合いを求めたが、物外は坊主に竹刀は似合わんので、この椀でお相手つかまつろうと言い、ずだ袋から二つの木椀を取り出した。
新撰組の近藤の名を聞いても尚、この反応にムッとした近藤は、それならばと槍を取り出した。
抜き身の槍を目の当たりにしても一向に怖気づく気配の無い物外を見て、怒気が上がった近藤は、エエイッと大喝して槍を突き出したが、ひょいと身をかわした物外に槍の首元を木椀で挟み込まれた。
すると近藤が引こうが突こうがびくともせず、慢身の力を込めて引っ張ったところ、隙を見た物外に木椀を外され、近藤は勢い余って後方に吹っ飛ばされ尻餅をついたと言う。
武 心 中山 博道

中山 博道
なかやま はくどう
1872-1958
~剣術家の眼差し~
武と競技の違いは心にあり
神道無念流剣術、杖術、夢想神伝流居合術範士。
大日本武徳会より、史上初の剣・居・杖の三道での範士号が授与された稀代の剣術家である。
旧加賀藩士の家柄で、現在の石川県金沢市に生を受ける。明治維新の混乱などで没落し、8歳にして商家へ丁稚奉公に出された。
働きながら剣術、柔術を学び18歳の時に神道無念流の道場に入門すると27歳で免許を取得、28歳で師範代を務めるまでになった。
その後、道場を継承した中山は、神道夢想流杖術及び、無双神伝英信流居合術を修め、大日本武徳会から前人未到の三範士号を授与を受ける。
道場の内弟子となった頃の中山は、身長160cm、体重60㎏足らずの貧弱な体格であったが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでと言う厳しい修行を行い、高度な技術を身に付けたという。
終戦後は、戦犯容疑者として収監を余儀なくされたが、その後は、剣道団体名誉職に名を留めた。
1957年、全日本剣道連盟より初の「剣道十段位」授与の打診を受けたが、十段位制度に反対した中山は受け取らなかった。
現代剣道に強い影響を与えはしたが、中山自身はスポーツ的な剣道には批判的であり、後年の全日本選手権大会を見て、「選手達の竹刀捌きは、私から見て器用につきてはいるが、所詮あれでは竹刀捌きであって、忌憚(遠慮の意)無く申し述べれば追第点をつけられる者は誰一人いない。よって、同大会を竹刀選手権と改称された方がよいとさえ存じている。」と手厳しく批判している。
また、「竹刀による競技でも差支えないと一部の人々は言うが、元来この二つは一つのものであり、二つに分けた事がそのもそもの誤りであって、武道に新古は無い」とも語り、「この区別は大変な誤りであり、竹刀剣道も古武道の形も皆一体となるのが当然であるが、今日の若い修行者は竹刀で修める稽古と形や居合の教えとは別ものであると考えているに相違ない。
これは、私等の重大な責任であると深く御詫び申しあげて置く次第である。」とも述べている。
また、居合については、競技的な勝敗を目的としない刺激の無い一人稽古の様式から、次第に慣れが生じ、ただ抜き切り差し納めるを繰り返すうち、自らの刀法が起用者然りとして漫じないまでも其れに近い考えとなる傾きが多い」と述べ、試し斬りにおいても単なる据え物斬りや曲芸斬りになることを批判している。
杖術、柔術、弓術などにも精通していた中山は、合気道創始者の植芝盛平とも親交があり、高弟を植芝の道場に派遣して剣術指導をさせるなどもした。
また、本土に伝わった頃の唐手を低俗な武道と見なす武道者が多い中、中山はいち早く唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による剣術である」と評価したと言う。
弟子への指導は大変に厳しく、範士や教士であっても打ち据えて叱咤したと言われ、門弟に対しては褒める事は滅多に無いが、門外の者には甘く、よく褒めたと言う。
道場内での衛生面には非常に気を使い、白色の稽古着、袴を採用した。白は汚れが目立つため頻繁に洗濯する者が増え、衛生状態が良くなったという。
当時、白袴は神官が履くものであり、剣道家が履くのは奇異とされたが、その後に普及し、現在でも皇宮警察の剣道家は白道着、白袴を正装としている。
中山 博道 演武の映像
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