霊長類最強の男 アレクサンドル・カレリン

アレクサンドル・カレリン
1967-
~戦慄のカレリンズリフト~
旧ソヴェトの至宝
ロシア連邦ノヴォシブルスク出身のグレコローマンレスリングの選手であり、身長191cm、体重130kgの規格外の体を持ち、オリンピックでのレスリング130kg級において、1988年~1996年までの3大会連続で金メダルを獲得し、その圧倒的な強さから霊長類最強と形容された。
13才頃からレスリングを始めたというカレリンは、積雪30cmの中でのランニングや、3時間不休でボートを漕ぎ続けるなどの過酷なトレーニングを行い、心身を鍛え上げたと言う。
超人的なパワーを持つカレリンの全盛期の背筋力は400kgにも達し、その怪力に関するエピソードは枚挙に暇がない。
自宅の引っ越しの際には、自ら100kg以上もある冷蔵庫やタンスなどを担いで階段を駆け上がり、8階の新居まで運び込んでいたという。
1987年から2000年までの国際大会においては、13年間の無敗を誇り、大会記録76連勝の金字塔を打ち立てた。
世界選手権9連覇、欧州選手権10連覇、公式試合での連勝記録は300回に達するが、2000年に開催されたシドニーオリンピックの決勝で惜しくも敗れた。
猛獣の様な外見に反して言動や立ち振る舞いは極めて紳士的であり、広くロシア国民の尊敬の対象であり、議員を努めた経験もある。
規格外のパワーを持つ、カレリンならではの秘技と言われているのが、「カレリンズリフト」がある。
相手の胴体を後ろからクラッチ(抱え込んで)して、後方へ俵返しで放り投げる技であるが、技術と言うよりは純粋な力技と言える。
それまでのレスリング界では、軽量級ならいざ知らず130kg級の相手を持ち上げて俵返しで空中に放り投げるという概念すら無かったため、選手達を恐怖に陥れた。
放り投げられた相手は、自らの自重によって頚椎などに深刻なダメージを負う恐れがり、カレリンに背後を取られた相手選手が、そのままフォール負けを選ぶ場面も、しばしば見られる程であった。
人類は、長い時間をかけて素手その他による格闘技術を昇華させてきた。
素手による技術と言えば、パンチやキックなどの打撃技や関節技、また、ピンポイントでの急所攻撃など世界には実に多くの格闘術が存在する。
しかし、最も破壊力のある技を想像した時、可能であるなら単純に相手を持ち上げて地面や壁に投げつける、又は踏みつけると言った攻撃になるのかも知れない。
技というよりは、単純な腕力勝負であり、ディフェンスが通用しない。
力の差が大きい場合には、生半可な技など通用しない事をカレリンズリフトが物語っている。
カレリンズリフト
最強の女流剣士 園部 秀雄

園部 秀雄
そのべ ひでお
1870-1963
~最強の女流武人~
直心陰流薙刀術十五代宗家
生涯で負けた試合は2回のみ。近代薙刀術史上最強の女流武人。
現在の宮城県大崎市、仙台藩士の家の六女として生まれた。
幼名を「たりた」と言い、後継ぎを望んでいた父親の「もう女は足りた」との思いから名付けられたという。
父親は、仙台藩馬廻役をしていた日下陽三郎という武士であり、騎馬を操り大将の周辺警護から伝令まで、側近警護を担う親衛隊のような要職についていた。
幼少の頃から父親の馬を乗り回す活発な少女であったタリタは、15、6歳になっていたある日、町内で開催された直心新陰流の門人達による剣術試合の見世物、「激剣興行」を観劇する。
華麗な剣裁きや立ち回りに魅了されたタリタは、父の激しい反対を押し切って一行と行動を共にする。
激剣興行では、「美少女剣士」として人気を博したと言う。
激剣興行に参加しながら、直心陰流( じきしんかげりゅう )薙刀術の指導を受け、稽古熱心なタリタは朝夕千回の素振りを欠かさず、腕前はめきめきと上達した。
2年後には、早くも実力を認められ、直心陰流薙刀術の印可状(免許)を受けると共に師匠から”秀雄”の名を拝命し、以後は、タリタから日下秀雄と改名する。
その後、二十歳を少し過ぎた頃に同じ激剣会の剣術家と結婚し、一子を設けたが直ぐに夫と死別してしまい、幼子を抱えての巡業は困難であることから子供は養子に出されたという。
それから10年の歳月が流れた1891年、直心陰流薙刀術の宗家を継承すると同時に剣術、鎖鎌術の2代宗家であった園部姓の武術家と再婚し、園部秀雄となった。
1899年、第4回武徳祭大演舞大会に唯一の女性武道家として出場し、幕末の京都において何度も人を切った実戦経験を持つ剣術家との異種試合に挑み、これを圧倒する。
その後も、夫が主催する道場で指導する傍ら、各所の学校でも薙刀術の指導を行い、1926年には、その永年の功績を讃え、大日本武徳会より薙刀術範士の称号を授与された。
名だたる剣術家や槍術家たちと数百回に及ぶ試合を行い、それらを総なめにしたと言う。
秀雄は弟子達に武道の生活化を説いていたと言われ、それは薙刀の稽古に集中するあまり女性のたしなみとしての家事などを、おろそかにしてはならないと言う意味であった。
秀雄自身、多忙であっても日々の掃除は欠かさず、雑巾はいつも降ろしたての様な綺麗なものを使っていたと言う。
直心新陰流薙刀術 演武の映像
カリブの女海賊 アン・ボニー

アン ・ ボニー
1700-1782
~カリブ海に輝く女海賊の伝説~
アイルランド共和国の最南端都市であるコーク県にて、弁護士をしていた父親とメイドとの間に私生児(父母が婚姻関係にない子)として産まれる。
父親は、不貞を犯した事への贖罪の思いから妻子と別れ、アンと母親を連れてアメリカサウスカロライナ州チャールストンに農場を購入し移り住んだ。
勝気で男勝りな性格へと成長したアンは、退屈な農場生活に嫌気がさして三流海賊のジェームス・ボニーと恋仲になり、父親の反対を押し切って西インド諸島バハマへと駆け落ちする。
そうして辿り着いたニュープロビデンス島の都市、ナッソーは、当時海賊共和国と呼ばれるほど無法者の拠点となっている町であった。
当初は、夫ジェームズと共に居酒屋を経営するなどして生計を立てていたが、ある時、店にジョン・ラカムと言う男がやって来た。
ラカムは、国の特赦により陸に上がっていた海賊であった。
アンはラカムの颯爽とした男っぷりに一目惚れし、ラカムもアンの美貌と勝気な性格が気に入り、二人は恋仲になってゆく。

ジョン・ラカム(キャリコ・ジャック)
アンは、夫に手切れ金として店の権利を譲り、海賊業を再開すると言うラカムに連れられ、にカリブの海へと船出する。
当時の掟では、女性は海賊にはなれず、乗船が認められていなかったため、アンは常に男装して誤魔化していたが、海賊仲間の間では女性である事は広く知られていた。
元来、勝気で男勝りな性格のアンは、屈強な海賊達に混じって大海原を駆け回った。
ある時、アンは、ラカムが襲った船の乗組員で新た手下に加わった者の中に美しい顔立ちの美少年を発見した。
アンはその少年がとても気に入り誘惑しようとしたが、それは自分と同じく男装して船に乗り込んでいたメアリー・リードであった。
美少年が女であった事実にアンはひどく落胆したが、ならば仕方が無いと割り切ると恋心はやがて友情へと変わり、それまで以上に強い絆で結ばれるようになった。
ほどなくアンとメアリーの異常に近い関係を怪しんだラカムは、メアリーに銃を向けるとアンとの関係を問いただした。
するとメアリーは、洋服の胸をはだけて自分も女である事を示しラカムを納得させた。
むしろ二人の関係を面白がったラカムは、特に問題ともせず、その後も変わりなく海賊業に勤しんだ。
かくして、大勢の荒くれ男達の中にただ2人の女海賊となったアンとメアリーは、友情を超えた深い絆で結ばれるようになり、共に助け合いながら男達よりも勇猛果敢に活躍した。
アンは大柄で戦闘力に優れた銃の名手であり、メアリーは剣技に秀でていたと言う。

メアリ・リード
ラカムの海賊団は、小さな商船などを専門に襲う比較的に小規模なグループであった。
それゆえに逃げ足も速く、大掛かりな掃討作戦では、なかなか捕まえられずにいた。
1720年、ついに業を煮やしたバハマ総督により派兵された捕縛船団は、ラカム海賊団を捉えるために八方からの総攻撃を仕掛ける。
この時、ラカムを含めた男達は、皆酒に酔って志気が下がっており、バハマ船団の急襲に怖気づいて、そそくさと船倉へと逃げ込んでしまった。
しかし、アンとメアリーの2人は、勇猛果敢に戦い最後まで抵抗したが、ついに捕らわれの身となった。
当時の海賊は、捕まれば縛り首と相場が決まっていたが、例外なく裁判でも死刑が言い渡された。
アンとメアリーが妊娠している事を主張すると処刑により胎児を死なせてはならない法律に基づき、刑の執行は出産終了後まで延期されることになった。
その後、彼女達の刑が執行された記録が無く、釈放されたのかどうなったのかは解らない。

ジャマイカの切手
一説によると、アンは有力者であった父親の助力を得て放免され、サウスカロライナに戻って再婚し、多くの子宝にも恵まれ長寿を全うしたとも言われている。
カリブの女海賊として、今なお語り継がれる彼女達の伝説は、未だ多くの謎に包まれたままである。
舞の如く 美田村 千代

美田村 千代
みたむら ちよ
1885-1966
伝説の女流武人
天道流 十五代 薙刀術範士
京都亀岡藩、士族の家柄に生まれ、幼少の頃より叔父の指導する天道流剣術道場に入門した。
稽古に熱中するといつまでも帰ってこないので、親は心配したと言う。
1904年大日本武徳会本部内にて薙刀術部を創設し、指導にあたる。
稽古が終わった後の美田村の足の裏が汚れていない事を不思議に思った者が尋ねたところ「私はいつも床から紙一枚上を滑っておりますから 」と答えたと言い、その足捌きはまるで"舞"のようであったと伝えられる。
1933年大日本武徳会より薙刀術範士号の授与を受ける。
女性でありながら各流派の高名な剣士達と幾度も他流試合を行い、勝利したと伝えられる。
天道流薙刀術 演武
不世出の大横綱 双葉山定次

双葉山 定次
ふたばやま さだじ
1912-1968
ハンデを乗り越え打ち立てた
前人未到の69連勝
大相撲 第35代 横綱
大分県出身の大相撲力士で、本名は、穐吉定次 (あきよし さだじ)と言った。
幼少の頃、吹き矢が右目に直撃した事で半失明状態となり、また兄や妹、母親までも亡くすという不運に見舞われるが、父親の仕事を手伝いながら勉学に励み、成績も優秀であったと言う。
父親の海運業の仕事の手伝いで錨(いかり)を巻き上げる作業をしていたところ、力士の命綱とも呼ばれる右手の小指に重症を負う事故に遭う。
しかし、視力や指のハンデをもろともせず、未経験ながら出場した相撲大会では、取り組み方が解らず力任せに相手を上から押しつけて倒したと言う。
その様子を新聞記事で見て才能を感じ取った双川喜一(元大分県警察部長)の世話により、名門として名高い立浪部屋に入門する。
1927年、双葉山の四股名で初土俵を踏み、相撲道に邁進する事となる。
四股名の双の字は、紹介者の双川の一字から採られたものである。
入幕前は、普通より少し強い程度であったが、1931年、19歳で新十両へと昇進すると、4年後には小結へ昇進、その翌年からの3年間で、実に69連勝という前人未踏の大記録を打ち立てた。
1937年1月場所で全勝優勝、5月場所でも全勝優勝を果たしたことで横綱に推挙される。

翌年、横綱に昇進した双葉山は、1月場所から5月場所までを全勝優勝で飾り、1750年代の伝説的力士、代4代横綱の谷風 梶之助の63連勝の記録を150年ぶりに更新した。
その後も連勝記録は更新され続けたが、重度の体調不良を抱えながら挑んだ70連勝目の大一番に敗れ、連勝記録に終止符が打たれた。
3年ぶりの黒星が付き、70連勝まであと一歩のところで逃した双葉山は、悔しさや絶望感の表情を見せることなく、いつも通りに一礼すると、東の花道に引き上げたと言われる。
その後も、紆余曲折を経ながら新たに36連勝を記録したが、1945年、肉体の限界を感じ取り引退を表明した。
新弟子時代からも、ほとんど失明状態にある右目については、なまじ見えるよりもその方が返って都合が良かったと語り、勝っても負けても態度を変えることが無く、寡黙に相撲道に生きた明治生まれの横綱は、今も人々の記憶の中に生きている。
この先、双葉山の連勝記録が塗り替えられる日はくるのであろうか。
双葉山 ヒストリー動画
拳の道 中村日出男

中村 日出男
なかむら ひでお
1913-2013
人知を超えた希代の武人
~脅威の正拳垂木切り
幼少の頃から武道家であった叔父に手解きを受け、武道の道を志す様になったと言う。
生涯をかけて空手道の真髄を探求するべく研鑽に励み、人知を超えた数々の絶技を習得した。
1930年、高等学校への入学と同時に武道専門学校にも入学する。
その後、武道専門学校で空手指導員を務める様になり、1943年、大日本武徳会より空手道六段錬士の称号が授与された。
その鍛錬法は苛烈を極め、拳や手刀の徹底した部位鍛錬(角材や砂の入った麻袋などに手足を叩き付ける)により、手足の武器化を目指した。
その”武器”を用いた実践演武の数々は、見る者を驚愕させ、人間の持つ攻撃力の可能性を示した。
中村の実践演武の中でも有名なのが「垂木切り」である。
垂木(たるき)とは、一辺が5センチほどの正方形に切り出された角材であるが、これを正拳や手刀を用いて切断すると言うものである。
普通なら折るという表現になるところを、中村のそれは切るという表現が相応しいほど角材の切断面が平らになるのが特徴である。
人間の手で叩いて角材を水平に切断する事など考えられないが、それを実現してしまうところに中村の凄さがある。
その様な非化学的な現象を起こせるに至った背景には、中村独自の拘りと壮絶な修行の日々があった。
数百キロの砂を詰めた砂袋への打拳、家の柱ほどもある太い木材の角部分に手刀を叩きこむ等の動作を幾万回と繰り返す事で、拳や脛(すね)を硬質かつ高密な肉塊に変化させると言う“部位鍛錬”と呼ばれる荒行である。
そうして造られた高密かつ硬質な部位を、武道の理合いに通じた打撃法によって高速で叩きつけた時、折れるのではなく切る事が可能になるのかも知れない。
また、私生活でも荒々しいエピソードが伝えられている。
タバコが人体に与える悪影響を知る為にニコチンやタールの含有量が多いタバコを1日に200本以上吸っていたところ、咽頭ガンを発症したという。
医者から手術の提示を受けたが、それを断り独自の方法で治療することを考えた。
中村曰く、先端を小さく折り曲げた針金を真っ赤になるほど高温に熱し、それを喉の奥に通してガン細胞を焼き切ったと言うのだ。
それを何度か繰り返すうちに咽頭ガンが完治するところとなり、周囲を驚かせたという。
武道家としての偉業も去ることながら、その発想の壮大さに驚愕するエピソードである。
強さと技の追求のみに重きを置いたとされる中村は、生涯において自流(流派)を立てず、共に研究する者が集まる会派としての道を選んだ。
スタイルや理論など形骸的なものを嫌い、ただ強さのみを求め続けた中村の姿勢は、正しく武人と言うに相応しいと言えるだろう。
垂木切りの演武
武器化した達人による試割
鉄の男 マイク・タイソン

マイク ・ タイソン
1966-
最強最速のヘビー級ボクサー
元祖 鉄人伝説
1966年、米国ニューヨーク州ブルックリン区に生まれる。
父親は、タイソンが2歳の時に家族を捨てて蒸発したため、当時のアメリカで最悪と呼ばれたスラム街で兄弟と共に母子家庭で育った。
少年時代のタイソンは内気な性格で、近眼用の分厚いレンズのメガネを着用していた事から嘲笑の的にされ、不良少年達からイジメを受けたという。
しかし、ある時、タイソンが大切に育てていたペットの鳩をその不良少年達に目の前で殺される事件が起きる。
我を忘れるほど激高したタイソンは、直ぐさまその不良少年達を叩きのめし、その時、初めて自分の強さに気が付いたと言う。
その後は、タイソン自身も荒んだ生活へと突き進んで行く。
15歳までに51回もの補導歴を数えるほど札付きのワルへと成長したタイソンは、ついに"不良少年収容施設"と言われたトライオン少年院に収監されてしまう。
施設の更生プログラムでボクシングと出会い、指導していた教官はタイソンを見るなり直ぐにその才能に気が付いたと言う。
教官は、後日、ボクシングの名トレーナーとして知られていた友人のカス・ダマトにタイソンを引き合わせた。
ダマトは、タイソンの才能に驚愕し、彼の身元引受人を買って出た。
晴れて少年院を出所したタイソンは、ダマトの元でボクシングの英才教育を受ける事となる。
ダマトの指導する練習プログラムは、当時としては非常に画期的なものであり、タイソンの素質を十分に引き出した。
天井からロープで吊るした数個のバレーボール大きく揺さぶり、四方八方に揺れ動くボールを間を巧みに潜りながら、左右から強力なパンチを繰り出すという極めて実践的な訓練である。
また、コンビネーションの練習では、攻撃する身体の部位ごとに数字を当てはめ、ダマトが発した数字の通りに素早くコンビネーションを組み立て連打を浴びせる。
このシステム的な訓練により、無類のスピードと攻防一体の爆発的な攻撃力を備えたタイソンは、アマチュアボクシングの試合において52戦47勝という輝かしい実績を積み上げた。
オリンピックへの出場こそ叶わなかったが、1985年に19歳でプロデビューを果たすと破竹の勢いで王座へと駆け上がる。
プロ初戦を1ラウンドTKOで勝利したタイソンは、その後も28連勝を重ね、史上最年少の若干20歳にしてWBC世界ヘビー級王座を獲得した。
翌年、WBA、IBFの2団体の王座も獲得し、プロボクシング世界ヘビー級3団体の統一チャンピオンとなった。
その間に恩師であるカス・ダマトが惜しまれつつも他界してしまう。
ダマトを失ったタイソンは、糸の切れた凧の様に自身のコントロールを失い、「グリズリーに近づいても、ドン・キングには近づくな」と生前のダマトが常々警告していたにも関わらず、暗黒プロモーターで鳴らしたドン・キングに接近してしまう。
ドン・キングは、自身のプロモートを実現させるため、ダマトが残した最強チームの解体を企てた。
タイソンの妻を懐柔してコントロール下に置き、ダマトのボクシング理論を忠実に引き継ぐ最も信頼できるトレーナーを解雇させ、チームの結束に亀裂を生じさせた。
チームを失ったタイソンは、ドン・キングと正式に契約したが、周囲は妄信的な拝金主義者で埋め尽くされ、かつての様に質の高いトレーニングが行える環境では無かった。
リズムが崩れたタイソンは、生活の乱れから多数のトラブルを抱える様になり、空回りしながら次第に底なし沼へと陥ってゆく。
離婚、自殺未遂など多くの訴訟問題を抱えた挙句、ついに刑務所へと収監されてしまう。
出所後の1996年、それまでの呪縛を解き祓うかのように2団体統一ヘビー王者となり見事に返り咲いたが、既に全盛期を過ぎていたタイソンは、まもなく若手の強豪ボクサーに敗北を喫する。
その頃のタイソンは、かつての様な攻防一体のバランスが取れたボクシングとは異なり、1発の強打に頼る緩慢で雑なボクシングへと変わり果てていた。
2005年「ボクシングをもうこれ以上侮辱したくはない」との言葉を残し、タイソンは静かにリングを降りた。
引退後は、自らのアイデンティティを再構築する為に模索を繰り返した。
そして15年の歳月が流れた近年、50代半ばとなったタイソンは、チャリティーを目的としたリングに再び舞い戻った。
タイソンの挑戦は、まだ終わっていない。
プロボクシング戦績
58戦 50勝 44KO 6負
2無効試合
15歳当時の恐るべきシャドー
全盛期の凄すぎる映像
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