ムエタイの芸術 サーマート・パヤクァルン

サマート・パヤクァルン
1962-
~天賦の才能~
伝説のムエタイ四冠王
11歳の時からムエタイの練習を始め、1980年頃からルンピニースタジアム(タイ国公認スタジアム)にて、ミニマム級、ライトフライ級、スーパーフライ級、フェザー級の4階級を制覇した。
サウスポースタイルのボクサーで、巧みなステップワークから少しのタイミングも逃さず急襲に転じることのできる天性の身体能力を備えていた。
1982年にプロボクシングに転向し、1986年にはWBC世界スーパーバンタム級王座を獲得する。
その後、1度の防衛には成功したが、翌年には王座から陥落した。
以降は、プロボクシングのリングから離れ、12年後の1994年、再びWBA世界フェザー級タイトルに挑戦したが惜しくも敗れ、2階級制覇には至らなかった。
プロボクシングでは、才能を発揮しきれなかったが、ムエタイのリングにおいては華麗なフットワークと試合運びで天才の名を欲しいままにした。
ムエタイの芸術とまで形容されたそのファイティングスタイルは、巧みな防御と的確な攻撃のバランスに優れ、乱打戦の最中にあっても、どこか余裕を感じさせる優美な雰囲気を纏っていた。
サーマートとは、タイ語で神から与えられた天賦の才と言う意味を持ち、パヤクァルンは虎を意味すると言う。

また非常に練習嫌いで知られ、世界タイトル戦の前でも最低限の練習しかせず、普段からタバコも吸えば酒も飲むと言う世界的なアスリートでは考えられない怠慢な様子も喧伝されているが、戦果のみが重要であると言わんばかりに一度リングに上がれば得物を狙う"虎"の如く、静かに相手を見据える野性味に溢れた姿があった。
また、格闘技だけでは無く、持ち前の丹精なルックスを活かして歌手やタレント業でも成功している。
ボクシング、ムエタイ合わせて5冠王に輝いた天才は、次なる標的に備え密かに爪を研いでいるに違いない。
プロボクシング戦績
23戦 21勝 12KO 2負け
ムエタイ戦績タイ国公認
ルンピニー 4冠王
サーマート・パヤクァルン
ハイライト ムエタイ編
サーマート・パヤクルアン
ハイライト ボクシング編
リングの赤い蝶 ベニー・ユキーデ

ベニー・ユキーデ
1952-
~リングの赤い蝶~
チャンピオンから俳優へ
米国カリフォルニア州ロスアンゼルス出身のキックボクサーで、父はスペイン人、母親はインディアンの血を引いていた。
父は元ボクサー、母はプロレスラーで10人の兄弟達も皆何らかの格闘技をしていたと言う。
そんな"格闘技大家族"の中で育ったユキーデは、幼少の頃より多数の格闘技を学んでいた。
青年期になると空手の大会で優勝を重ねるようになり、後にキックボクシングへと進み、実兄が創設した世界キックボクシング連盟のライト級のチャンピオンとなって活躍した。
その後、1977年に来日すると国内の有名選手達と多数の試合を行った。
試合着の赤いパンタロンとスピンキックや飛び蹴りなどの派手な技を駆使していたため"リングの赤い蝶"との異名がつき、エキゾチックなルックスから女性ファンも多かった。
オーソドックスなファイトスタイルから、突如として飛び蹴りを繰り出したり爆発的な打撃の応酬で相手を圧倒する場面が多く、緩急に富んだ見栄えのするファイトスタイルで観客を熱狂させた。
得意技とするバックスピンキック(後ろ廻し蹴り)はスピード、角度、タイミングにおいて高いレベルで完成された実効性と見た目を兼ね備えていた。
食事など健康面には非常に気を使い、酒やタバコは嗜まず、強い身体の養成に努めていたと言う。
試合前の健康診断を行うコミッションドクターは、これほど太く弾力性に富んだ動脈を持つ身体を診るのは初めてだ。これは、回復力に優れスタミナがあるという証だ。と述べている。
また、リング上の活躍だけに留まらず多数の映画に俳優として出演している。
1984年に公開されたジャッキー・チェン主演の映画「スパルタンX」では、キレのある格闘技術を駆使する凄腕のキャラクターを演じ、普通の映画俳優では表現できないリアリティに富んだ迫力のある格闘シーンを演出している。
映画「スパルタンX」格闘シーン
試合映像ハイライト集
プロキックボクシング戦績
61戦 58勝 49KO 1負
2無効試合
石の拳 ロベルト・デュラン

ロベルト・デュラン
1951-
~中南米の星~
石の拳を持つ男
中南米パナマ共和国出身のボクサーで、ライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の4階級を制覇した伝説の王者。
その強烈なパンチは「石の拳」と称された。
1968年16歳でプロデビューして以来、連戦連勝を重ねると、1972年、無敗のままWBA世界ライト級王座を獲得する。
翌年、ノンタイトル戦で敗れたため29連勝無敗の記録はストップするが、同年、パナマで行われたタイトル戦では、ガッツ石松氏を破り3度目の防衛に成功する。
後に世界ライト級王者となるガッツ石松氏は、石の拳と形容されるデュランの強打について「本当に石で殴られているみたいだ。これは勝てないな。」と前半ラウンドで感じていた事を明かしている。
その後は、ライト級タイトルを返上し、スーパーウェルター級タイトルに挑戦する。
当時、天才の名を欲しいままにしていたシュガー・レイ・レナードを僅差の判定で破り、王座奪取に成功。これにより2階級制覇を成し遂げる。
パナマの英雄として、国民的スターになったデュランは、その後も順調に勝利を重ねてゆく。
しかし、レナードとの再戦では、レナードの執拗なアウトボクシングに嫌気がさして試合を放棄してしまい、国内でもバッシングを浴びる事となった。

これを跳ね返すかの様に階級を上げて挑んだタイトル戦では、見事に王座奪取に成功し、これにより3階級制覇を成し遂げる。
その後、黄金期と言われた80年代のSウェルター級及び、ミドル級を主戦場に強豪選手達との死闘を繰り広げる。
無類の強さを誇るデュランであったが、時の強豪選手達もまた黄金期と呼ばれるに相応しい実力者揃いであった。
後に"ラスベガスの衝撃"と呼ばれた試合では、痛恨の強打を浴びてマットに崩れ落ちる一幕もあった。
もはや、衝撃映像の部類に入るほどの痛打に体調が心配されたが、幸いにも無事であった。
その後も変わらず試合を重ねた1989年、38歳となっていたデュランは再びミドル級王座に挑むと見事に勝利で飾り、4階級制覇を達成した。
ノンタイトル戦であっても精力的に戦い続けたデュランは、通算119戦を行い、KO及びTKOで敗れたのは僅かに4回だけという怪物的な戦績を残した。
2002年、パナマシティにて、引退を表明。
中南米の星として栄華を極めた天才ボクサーは、静かにリングを降りた。
2006年、偉大な功績を残したボクサーに送られる世界ボクシング殿堂に名を連ねた。
生涯戦績:プロボクシング
119戦 103勝 70KO 16負
剣 聖 黒田泰治 鉄心斎

黒田泰治 鉄心斎
くろだやすじ てっしんさい
1897-1976
剣聖が残したもの
富山県出身の剣術家であり、黒田家に伝わる民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿小天狗流棒術、誠小栗流活殺術を受け継ぎ、黒田家の子孫達へと技を継承した。
古武術の高度な理合を昭和に体現する事のできた稀代の武術家であったと言われている。
その武名は、多くの伝説に彩られ称号を鉄心斎と称していた。
10代の頃には、直径15cm程の柿の木を一刀のもとに切り倒したと言われ、また大陸で馬賊と戦った際には、相手の手に持つ小銃ごと真っ二つに切り裂いたと言われる。
また、水槽で泳ぐ金魚に気を当てて浮かすと再び気を当てて元気な状態に戻すといった妙技を始め、砂を詰めた孟宗竹3本を中に仕込んだ米俵ほどの巻き藁を刃引きした刀(刃の無い刀)を用いて一刀両断にするなど常識では考えられない技をやってのけた。
そして、"昭和の武蔵"の異名で知られる國井善弥が、鉄心斎に試合を申し込んだところ断られ、それでも執拗に申込みを繰り返していると「では、真剣で立ち合いましょう 」と鉄心斎は申出を受け返したが、國井は返事を返さなかったと言われる。
更に氣を使った幻術にも秀でており、何も無い空間から饅頭の幻影をつまみ出して人に食べさせると言う悪戯もしていたと言う。
直系 黒田鉄山氏による指導映像
コンマ1秒の居合抜き 切附
民弥流居合術
流れる様な抜刀と体捌き
弓 聖 阿波 研造

阿波 研造
あわ けんぞう
1880-1939
心で射る~
日本弓術の真髄
宮城県出身の弓術家であり、日置流弓術 (へきりゅう)の免許皆伝を受け"弓聖"と称えられた。
1917年の大日本武徳会演武会では、放つ矢の全てを的中させ日本一の栄誉に輝いた。
翌年、その功績を称え武徳会から弓道教士の称号が授与された。
技術的な弓術を否定し、弓道として"道"を究めると言った言精神性に重きを置き、狙う的と自分が一体となるならば狙わなくても、たとえ目を閉じていても的中せる事が可能であるとし、実際に目を閉じたままで放たれた矢は見事に的の中心を射抜いて見せた。
阿波の弓道における精神性を現した面白いエピソードがある。
阿波が説く、”心で射る弓”の合理性に疑問を抱いたドイツ人哲学者であり、阿波の門下生でもあったオイゲン・ヘリゲルは、的が見えているのになぜ狙わずに感覚で射るべきなのかと質問した。
すると阿波は、深夜の道場にヘリゲルを呼び出した。
全く的が見えない暗闇の中で阿波が2本の矢を放つと、1本目の甲矢は的の中心を射抜き、2本目の乙矢は、甲矢の矢筈(矢の末端)に当たり、甲矢を貫いて的中したと言う。
阿波によると1本目の甲矢は驚くほどでは無い、慣れ親しんだ道場なら感覚で的の位置も解ろうとした上で2本目の乙矢についてはどう考えるかとヘリゲルに投げ返した。
これに感銘を受けたヘリゲルは、以降の研鑽に励み、後に五段を取得するまでの腕前になったと言う。
生半可な感覚では、技術には及ばないものであるが、達観した"超感覚"を備えるなら、技術を凌駕する事を証明して見せた阿波の弓道は、今日の日本弓道の礎となっている。
スモーキンジョー ジョー・フレージャー

ジョー ・ フレージャー
1944-2011
最恐の左フックが世界を制す
米国出身のプロボクサーで、本名は「ジョセフ ・ ウイリアム ・ フレージャー 」と言い、その機関車のような突進力から“スモーキンジョー”と呼ばれた。
強度のスタミナを備え、リズミカルなステップから左右に上体を揺すり相手の攻撃を避けながらの左フックを得意とし、モハメド・アリをプロキャリアにおいて初めて敗北させたボクサーでもある。
1964年には、東京オリンピックにて、金メダルを獲得。
負傷欠場した選手の代役での出場であった。
翌年にプロデビューを果たすと怒涛の進撃で6連勝を重ねる。
1968年、ニューヨーク州公認世界ヘビー級王座決定戦に勝利、世界王座を獲得するとその後4度の防衛に成功する。
1970年、WBAの王座も獲得した事により、統一世界ヘビー級チャンピオンとなる。
Joe Frazier training & KO 動画
翌年、モハメド ・ アリと対戦し、辛くも判定勝ちで防衛に成功するが、その2年後に“怪物”ジョージ ・ フォアマンに敗れ、王座から陥落した。
その後、アリとは、2度に渡って対戦するが、いずれも敗北し、そのまま1981年に引退した。
アリやフォアマンなどの強者と壮絶な戦いを繰り広げたフレージャーであったが、実は、1964年頃から、練習中の事故により左目の視力が著しく低下し、相手の右パンチは、殆ど見えていなかった事を後に告白している。
それでも、目の事を知られてしまうと、ボクシングを辞めざるを得なくなる為、誰にも言わずに隠し通していたと言う。
映画 「ロッキー」にも、多大な影響を与えたボクサーとして知られ、劇中の主人公ロッキー・バルボアが、食肉工場に吊るされた肉塊をサンドバッグ代わりに叩いたり、ランニング中に長い階段を駆け上がって雄たけびを上げるシーンなどは、フレージャーが実際に行っていた事である。
その様な経緯もあって映画「ロッキー」には、ノーギャラでのカメオ 出演も果たしている。
生涯戦績
37戦 32勝 27KO 4負1分
フレージャー 5KO
幕末の虎 近藤 勇

近藤 勇
こんどう いさみ
1834-1868
~時代の寵児~
勇み足の青春群像劇
武蔵国多摩群上石原村 (現:東京都調布市)の農家の三男として生まれ、幼名は「 勝五郎 」と言った。
1849年、勝五郎15歳の時、天然理心流の剣術道場、試衛館に入門する。
稽古に励み腕前はメキメキと上達した。勝五郎は、師である近藤周斎から認められ、近藤家の養子となり「近藤 勇」と名乗る様になった。
1860年、徳川家の一支系である清水徳川家臣の長女と結婚し、翌年には、天然理心流四代目を継承する事となり、流派一門の宗家として重責を担う事となった。
1863年、第14代将軍「徳川家茂」の警護のため「浪士組」を結成する為、試衛館の門人達と共に京へ向かう。

京都守護職を務める会津藩士 松平容保(まつだいら かたもり)に嘆願書を提出し、京都守護職配下として壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を名乗り活動を開始した。
その働きが認められ、 「朝廷」から「新撰組」の隊名が与えられると近藤が局長に座り、副長として土方歳三を据えた。
1864年、近藤以下新撰組は、長州藩、土佐藩などの浪士らが祇園祭の手前6月下旬の強風の日を選んで「御所」に火を放ち、松平容保以下の大名を殺害すると共に「孝明天皇」を長州に連れ去ろうとする計画を練っているとの情報を聞きつけ、直ちに探索を開始した。
謀反一味が、「池田屋」に潜伏している事を突き止めると、抜刀隊を編成して突入し、壊滅させる事に成功した。
この働きにより、新撰組は、幕府と朝廷から多大な褒賞金と感状を賜り、幕臣 (旗本)としての取立てを受ける。
しかし、その後の新撰組内では、大きな派閥闘争が起こり、反対派の暗殺には成功したが、その報復により近藤は銃で狙撃され負傷する。
療養の為に鳥羽、伏見などの戦いには参加でできなかったが、その後に幕府の命を受けて出陣するも、敢えなく新政府軍に囚われの身となり、斬首刑に処せられた。

近藤 勇の愛刀は、長曽祢虎徹興里( ながそねこてつおきさと )とされているが、江戸時代の名工である長曾根興里の作刀となれば、当時でも破格の値が付く名刀中の名刀であるため、いかに近藤と言えども実物を手にしていたとは思い難い。

また、武士の死に装束とされる薄水色に白地で染め抜いたダンダラ羽織は、忠臣蔵の赤穂浪士の着衣である陣羽織のオマージュであり、主君への忠義を貫き武士の鏡とされた彼らに対する強い憧れがあったと言われている。
このダンダラ羽織は、実際の戦闘時の着衣ではなく、新撰組の精神がシンボライズされた一種のアイテムであるとされている。
最後の武士道 土方 歳三

土方 歳三
ひじかた としぞう
1835-1865
幕末を駆け抜けた最後の武士道
武士よりも武士らしく~
武蔵国多摩群の石田村(現:埼玉県周辺)出身の幕末の武士であり、「新撰組」では、鬼の副長として隊士から恐れられた。
10人兄弟の末っ子として裕福な農家に生まれるが、歳三が生まれた時は既に父は他界しており、その後、6歳になる頃には、母も肺結核で亡くなった。
幼い頃より武士になるとの志しを持ち、生家には「武士になったら、この竹で矢を作る」と言って竹を植えていたと言う。
生家に伝わる秘伝薬、「石田散薬」を行商しながら、各地の剣術道場を巡っては稽古に励んでいた。
真紅の面紐に朱塗りの皮胴など、洒落た武道具を使用していたため、対戦相手からは「洒落者」として見くびられる事も多かったが、いざ竹刀を持って立ち会えば圧倒的な実力で相手を捻じ伏せたと言う。
1859年、20代中頃になった歳三は、義兄(姉の夫)の縁から近藤勇と出会い、天然理心流に入門する。
その翌年に発刊された武術英名録にも土方歳三の名が記されており、この頃、既に相当な実力を有していた事がうかがえる。
暫くして近藤勇が天然理心流四代目宗家を継承すると、歳三は天然理心流試衛館の仲間らと供に将軍 「徳川家茂」の警護のための浪士組に応募して京へと向かう。
同年、壬生浪士組 (みぶろうしぐみ)としての活躍が認められ、近藤らと供に「新撰組」を発足し、近藤は局長、歳三は、副長の地位に就き、以降は近藤の右腕として京の治安維持に奔走した。
1864年に起きた池田屋事件の際は、歳三の冷静沈着な判断により、手柄を目論んで駆けつけた他の藩士らを池田屋内に立ち入らせず、新撰組単独で成し遂げたため、その恩賞は破格のものとなった。
天下に新撰組の勇名が轟くと供に幕府から近藤勇を与力上席、隊士を与力とする旨の内示を受ける。
しかし、歳三は与力(よりき:下級武士)よりも、あくまで大名を目的として次の機会を待つよう、近藤を説得したと言われる。
また、歳三は新撰組を統率する為に厳格な規律「局中法度」を制定し、隊規に反した者は、たとえ幹部であっても容赦なく切腹を命じた。
この局中法度(きょくちゅうはっと)の中には、「武士らしくない行動」と言う一文があり、歳三の価値観や理念から逸脱する者は、この規律により切腹を命じると言う理不尽な側面もあった。
記録を見ると新撰組隊士の中でも、19歳や20歳そこそこの若年者が数多く殉職しているが、その死亡原因の多数を占めていたのが、この隊規違反による切腹であったと言われている。

1867年、多数の功績により、ついに幕臣 (旗本)として取り立てられたが、同年、徳川慶喜が将軍を辞して大政奉還を受け入れ、幕府は事実上崩壊した。
翌年の1868年には、鳥羽、伏見での戦いに始まる「戊辰戦争」が勃発し、歳三は新撰組を率いて戦うも、新政府軍の銃火器の前に退負する。
剣を頼りに生きていた百戦錬磨の新撰組も銃器の前では歯が立たず、西洋軍備の必要性を痛感させられる戦いとなった。
この戦い以前から歳三は、「もう刀の時代ではない」 ことを感じ取り、西洋軍備に力を注いでいたものの、刻の流れの速さには追い付けず、各所を戦い巡っては敗走を重ねた。
鳥羽 、伏見の戦いで敗退した幕府軍が大阪から江戸へと逃れるも、歳三は尚も戦いを繰り返し、新撰組隊士数名を伴い最後の地となる函館、五稜郭へと向う。

1869年4月、蝦夷地(えぞち)に上陸した新政府軍は、鈴の音を鳴らして多人数で包囲したと思わせる作戦を実行し、追い詰められたと勘違いした土方軍は動揺する。
しかし、歳三は、包囲しようとするなら逆に音を隠して気づかれない様にするはずだと冷静な判断を下し、部下達を落ち着かせた。
新政府軍による函館総攻撃が開始されると籠城戦を嫌った歳三は、僅かな兵を率いて出陣した。
新政府軍の軍艦が、味方の軍艦に撃沈されるのを見るや「この機会を逃すな」と大喝し、敗走してくる味方兵の前に忽然と立ちはだかると「我この柵にありて、退く者を斬る! 」と発し、敵前逃亡する者を、後方から容赦なく切り伏せた。
しかし、土方自身もこの戦乱中に腹部を弾丸に射抜かれて敢え無く戦死する。
これには、諸説があり、敵の弾丸に当ったとする説と降伏を強情に反対する土方を排除するために味方に暗殺されたとする説がある。
鬼の副長と恐れられ、臆する者には容赦なく刃を浴びせた歳三は、一般的に冷酷な人物として扱われる事が多いが、函館戦争まで付き従った側近の1人は、「温厚で、隊内では母の様に慕われていた」と語っている。
本当の強者になるほど、冷酷な厳しさを持ちながらも反面では、無垢なる愛情を持ち合わせると言われるが、土方も、同様に相反する二面性を矛盾なく兼ね備えていたのかも知れない。

土方歳三の愛刀は、和泉守兼定二尺八寸、 脇差は堀川国広一尺九寸であったとされ、通常よりも長い刀を好んでいたと言われる。
猛者の剣 沖田 総司

沖田 総司
おきた そうじ
1844-1868
幕末に輝いたカリスマ天才剣士
無敵の三段突き~
幕末に活躍した武士であり、「新撰組」一番隊組長にして激剣師範を務めた若き天才剣士。
陸奥国(現:福島県周辺)白河藩士の長男として江戸の白河藩屋敷 (現:東京都港区)にて生まれる。
出生年については諸説があり、2年ほどの差異がある。沖田については資料が少なく、不確かな部分も多いが、幼少時には既に父母と死別していたと言われている。
9歳頃になると、「天然理心流」の道場である試衛館の内弟子となり、後に新撰組局長となる近藤勇らの同門となる。
若くして試衛館の塾頭を務め、近藤らと供に出稽古に出かけていたとの記録が残されている。
1863年、20歳頃の沖田は、近藤勇らと共に浪士組結成の為に京に上る。その後も近藤らに付き従い新撰組を結成すると一番隊組長を務めた。
一番隊は、剛剣ぞろいの新撰組の中でも常に重要な役割を果たし、芹沢鴨を初め多くの要人暗殺を手がけたと言われる。
1864年、有名な池田屋事件においても土方らと供に先陣を切って切り込んだが、悪化していた重度の肺結核により戦闘中に喀血(かっけつ)し、以後は病気療養の為に戦線を離脱した。
幼いころから剣技の才能に溢れていた沖田は、天然理心流の他にも北辰一刀流の免許皆伝を得ていたと言われている。
竹刀を持った稽古では、土方歳三を初めとする新撰組の猛者達や師匠である近藤勇までも子供扱いしていたという。
その剛剣は「猛者の剣」と形容され、得意技とされている「三段突き」は、一度の踏み込みで三度の突きを繰り出すという、凄まじい殺傷力を備える高等技法であったと伝えらえる。
一番隊組長としての鬼の顔とは裏腹に、冗談を言っては笑っている陽気な性格でもあったと言われ、よく新撰組の屯所界隈の子供達と遊んであげていたと言う。
作家の司馬遼太郎氏は、作品の執筆に向けた取材で現地を訪れた際、幼い頃に沖田に遊んでもらった事があると言う老婆の証言を取材している。

沖田の愛刀は、「菊一文字則宗」 であったと言われているが、近藤の長曾根虎徹と同様に当時でも既に国宝級の逸品であった為、流石の近藤や沖田でも所有していたとは考えにくいとするのが一般的な解釈である。
一説によると沖田の刀は、「大和守安定」または、「加州清光」であったのではないかとされている。
華麗なるファイター シュガーレイ・ロビンソン

シュガー ・ レイ ・ ロビンソン
1921-1989
オールタイム~
パウンド・フォー・パウンド
史上最高の天才ボクサー
アメリカ、ミシガン州デトロイト出身のプロボクサーで、世界ミドル級、世界ウェルター級王者。
本名を、「 ウォーカー・スミス・ジュニア 」と言い、全期間、全階級を通じて最高のボクサーと称される“オールタイム・パウンド・フォー・パウンド”の評価を受けた。
1940年当時、現代のボクシング技術と比較しても遜色の無いリズミカルなフットワークに加えて、ジャブからダブル、トリプルのフック、ストレートへと繋げるコンビネーションなど高い技術を有しており、現代風ボクシングのパイオニアと言われる。
ミドル級では、5度に渡り王座を獲得し、過去から現代までのボクシングの歴史の中で並ぶ者が無いとさえ言われる。
少年時代に、デトロイトのスポース施設で「褐色の爆撃機」ことジョー・ルイスと出会い、彼の鞄持ちなどをしていたが、両親の離婚に伴って、ニューヨークのハーレム「ヘルズキッチン」へと移住した。
生活の為に映画館前で「タップ」を踏んで小遣い稼ぎなどをしていたが、13歳の時に警察署のジムでボクシングを始めると、その抜群のセンスに周囲から注目を受けた。
15歳になるとアマチュアの試合に出場し、180cmの長身と高い技術力で各上の年長者を終始圧倒したと言う。
その姿を観戦していた1人の記者が、「なんと“スウィート”(素晴らしく華麗な)なボクサーなんだ」 と感嘆の声を発したところ、その声を聴いた彼のトレーナーは「そう、シュガーのようにスウィートさ」と答え、かくして「シュガー・レイ・ロビンソン」の名が誕生する。
その後は、アマチュアボクシング界での快進撃が始まり、1939年にフェザー級、1940年には、ライト級のゴールデングローブを獲得し、アマチュアでの戦績は、85戦全勝、69KOと言う大記録を打ち立てた。
1940年には、ライト級でプロデビューを果たし、世界チャンピオンとなっていたジョー ・ルイスのトレーニングキャンプに参加する。
プロデビュー以来40連勝と言う途轍もない記録を打ち立てた後、世界ウェルター級王座に輝いた。
その後も世界の強豪を次々となぎ倒し、1950年には、ウェルター級王座を保持したまま、ペンシルベニア州ミドル級王座決定戦に出場すると見事勝利した。
後の防衛戦で欧州へと遠征に向うロビンソンは、豪華客船の一等船室の殆どを借り切り、マネージャーやトレーナーのみならず、スパーリングパートナーとその家族、通訳、コック、理髪師、マッサージ師や歌手までも引き連れた華々しい旅団となり、その姿はまるでマハラジャの様であったと言う。
翌年の1951年には、シカゴにてNBA(後のWBA)世界ミドル級王座に挑戦し、壮絶な死闘を制して王座を獲得する。
2度目の防衛に成功した後、3階級制覇を目指してミドル級王座を返上すると、同年、世界ライトヘビー級王座に挑戦したが、13回TKO負けを喫してしまい、試合後に引退を表明した。
しかし、1955年にカムバックを果たしたロビンソンは、復活を賭けて鬼気迫る進撃を開始する。
世界ミドル級王座に挑戦すると2ラウンドKO勝ちを収め、34歳にして通算3度目の王座に返り咲く。
その後、2度に渡って王座から陥落するも、1958年、実に5度目の王座獲得を成し遂げ、同年の「 リングマガジン ・ ファイト・オブ・ザ・イヤー 」に選出された。
その後、防衛戦を行なわない事を理由として、NBA( WBA )より王座を剥奪され、既に40歳となっていたロビンソンは、往年の華々しさに陰りが見え始めていたものの、再び世界王座に挑戦した。
しかし、6度目の王座獲得には至らなかった。
全盛期の派手な散財と事業の失敗などが重なり、40歳を超えても尚、生活の為にリングに上がり続けるしかなかったロビンソンに対して、評論家達は引退すべきだと酷評したが、ロビンソンは、「彼らは私に一杯のコーヒーも奢ってくれたことは無い、私は彼らの為にでは無く、私自身の生活の為に戦うのだ 」と反論した。
その後は、連敗続きとなり、1965年、無冠のままリングを去った。

同年、ニューヨークのマディソンスクエアガーデンにおいて、純白のガウンに身を包んだロビンソンは、かつての4人のライバル達が見守る中、リングに上がると四方に向って礼をした。
詰めかけた大観衆は惜しみない拍手を送り彼の偉業を讃え、史上最高のボクサーの名に相応しい引退セレモニーは閉幕した。
後年、ウェルター級で“スーパーエクスプレス”と形容された超天才ボクサー「シュガー・レイ・レナード」は、憧れのロビンソンにあやかって、シュガー・レイの名を冠した。
<生涯戦績>
200戦 175勝 109KO 19負 6分
Sugar Ray Robinson
栄光のドラゴンロード ブルース・リー

李 振藩(リ・ジュンファン)
ブルース ・ リー
1940-1973
カリスマ俳優と武術家の双眸
父親は、中国人で広東演劇の俳優、母親も演劇関係者で、ドイツ系の中国人であった。
長期アメリカ巡業先のサンフランシスコチャイナタウンの病院にて、辰年(1940年)、辰の刻(午前に8時)に生まれたと言う。
本名を「李振藩」(リ・ジュンファン )と言い、俳優名を「李 小龍」(リ・シャオロン)と言った。
後に高名な武術家となり俳優としても活躍する事となるリーは、生後3カ月の時点で両親の仕事の関係から初の映画出演を果たしている。
その後、アメリカ巡業を終えた一家は、イギリス植民地下の香港へと帰国した。
第二次世界大戦中は映画製作が禁止されていたが、終戦後に再開され、8歳頃から子役として映画出演するようになった。
幼少期から手の付けられない暴れん坊で、両親は戒めの意味を込めて中国武術の名門、詠春拳の葉門(イップマン)門下に入門させた。

詠春拳のイップマンとブルース・リー
詠春拳は、詠春(えいしゅん)という女性により創始された拳法で、指先を使用した目突きや急所攻撃など非力でも最大の効果が得られる必殺技が多彩であり、剛拳と言うよりは素早い身のこなしを重視する拳法である。
葉門(イップマン)は、その詠春拳の大家として無類の強さを誇った達人中の達人であった。
また、時を同じくして上海精武体育会の香港分会にて北派小林拳も学んだ。
青年期のリーは、生来の気性の荒さから不良グループと度々、喧嘩を繰り返していた。
「俳優の不良息子」との悪評が広まり始めたころ、リーの将来や体裁を心配した父親は、香港から離れさせる為に渡米を命じる。
18歳のリーは、僅か100ドルの所持金で渡米し、シアトルに落ち着くと新聞配達のアルバイトをしながら職業訓練学校に通う。
程なくして高校卒業の資格を得たリーは、ワシントン大学の哲学科へと進学した。
この頃から勉強する傍ら、中国武術の指導を目的とした「振藩國術館」(ジュンファンコクジュツカン)を設立する。
同じ頃、高校で哲学の講師などもしていたが、同じ大学の医学部に通うスウェーデン系イギリス人(リンダ・エメリー)と結婚したのを機に大学を中退し、以降は道場経営に専念する様になった。
この頃から世界中のあらゆる武術や格闘技の技術書を読み漁って研究するようになり、東洋、西洋の偏りを持たず現実的で合理的な技術体系の整備に勤しんだ。
また、戦う際の精神面にも着目し、戦闘時の心の在り方など独自の考えを加え、その集大成として全局面対応の武術として「截拳道」(ジー ・クンドー)を創始する。
武術界に横行する伝統的な縛りを嫌い、後進の修行者が新しいものに取り込んで発展させる事にも、積極的な考えを持っていた。
截拳道の大きな特徴の一つに利き腕を前にして構えると言うものがある。
他の格闘技では、利き腕を後ろにして構える事が多いが、ボクシングやフェンシングからも影響を受けていたリーは、リードジャブの重要性に気づき、戦闘時の最初の攻撃こそ、より早く、より強力である事が望ましいとの見解に辿り着く。
また、最速のヘビー級ボクサーであり、カリスマ性も備えていた「モハメド・アリ」を深く尊敬し、アリの試合映像を全て所有すると共に何度も繰り返し見ては、その動きを自分の身体に流し込む練習をしていたと言う。
打撃技から寝技に持ち込むという、現代でこそ常識となっている総合格闘術のパイオニアであり、派手な打撃技が絶賛されていた当時にあって、見た目こそ地味でも実効性の高い三角締めなどの決め技を常に研究をしていたと言う。
そして、肉体鍛錬やその方法についても合理性を追求し、様々な練習法や器具を発明した。
現在の総合格闘技でも使用されるオープンフィンガーグローブは、指関節を自由に動かせるよう設計した、リーのオリジナル製品であり、映画「燃えよドラゴン」の冒頭シーンでも使用されている。

自らの信じるマーシャルアーツの完成を求めて、様々な場所に出向いては、武道理念や実用性をデモンストレーションして回っていたリーは、1966年、アメリカのロングビーチで開催された国際空手選手権大会で披露した詠春拳の模範演武がTVプロデューサーの目に止まり、TVドラマ「グリーン・ホーネット」への出演が決まる。

片腕2本指のみの腕立て伏せ
これを切欠にテレビ番組への出演が多くなり、共演者達に個人的な武術指導を行うなど、次第に存在感も増すが、突然に理由も無くドラマの主演から降板させられるなど、当時は、まだ東洋人俳優を欧米人並みに扱える土壌が整っていなかった。

TVドラマ グリーンホーネット
しかし、1970年、香港の大手映画会社から独立を果たし、後に香港映画の父と形容される レイモンド・チョウの映画会社(ゴールデン・ハーベスト)との出演契約を交わし、その翌年には、初の主演映画「ドラゴン危機一髪」が公開された。
ドラゴン危機一髪は、香港映画の歴代興行記録を塗り替える大ヒットを飛ばし、リーは、一躍トップスターに躍り出る。
その翌年には、自らの製作会社も立ち上げ、制作、監督、脚本、主演とマルチに活躍し、香港映画界で不動のトップスターの地位を気付いた。
しかし、まだこの頃は、アジア圏で活躍する一介の映画スターに過ぎず、世界的に名が知れ渡るには、もう少し時間が必要であった。
そして、1973年、ついにアメリカと香港の合作映画「燃えよドラゴン」の撮影が開始された。
かつて主役を降ろされた雪辱を晴らすべく、リーは、並々ならぬ思い入れを持って撮影や指導に没頭する。
その為、撮影スタッフ達とのテンションが乖離してしまい、非常にナーバスになっていたリーは、映画の撮影であるにも関わらず、適役の俳優に本気の攻撃を仕掛けるなど、鬼気迫る精神状況に陥っていた。
しかし、それが絶妙の緊張感と異様さを演出し、映画が公開されると瞬く間に世界中に大ヒットを飛ばすと同時に空前のカンフーブームを巻き起こした。
世界中の著名な格闘家の中にも、リーの映画に触発されてその道に進んだ者は決して少なくはない。
また、劇中で語られる哲学的で達観したセリフも人気となり、世界的な映画スターとしてのカリスマ性も確立した。
戦闘時のリーが発する「怪鳥音」と呼ばれる独特の気合は有名であるが、当時、アテレコが主流であった香港映画において、怪鳥音の部分だけは、リー自身の声を使用する念の入れようであった。
そんな絶頂期にある中、リーは突然、原因不明の病に倒れる。
1973年未明、吹き替え収録中に昏倒し、意識不明の重態となり入院した。
その後、一度回復して退院したが、同年、再び昏睡状態に陥り、32歳の若さでこの世を去った。

映画「燃えよドラゴン」は、世界中で大ヒットを飛ばし、世界的な大スターとなったリーであるが、奇しくも、本人は映画の公開前に他界しており、リー自身は、自分が世界的なスターとなった事実を知らない。
死因は、脳浮腫と診断されたが、その死は未だ多くの謎に包まれたままである。
燃えよドラゴン 推手からの格闘シーン
燃えよドラゴン 多人数との格闘シーン
燃えよドラゴン 鏡の戦いシーン
デモンストレーション映像
トレーニング&イメージ詰め合わせ
永遠のチャンプ 大場政夫

大場 政夫
おおば まさお
1949-1973
青春を駆け抜けた永遠のチャンプ~
東京都出身のボクサーであり、第25代WBA世界フライ級王者。
5度の防衛に成功したが、不慮の事故により逝去した。
現役世界王者のままこの世を去ったため「永遠のチャンプ」と讃えられている。
ギャンブル好きの父親の影響で家計が苦しく極貧の環境下で育ったという大場は、父がプロボクシングファンであった事もありプロボクシングの世界王者となって母に家をプレゼントする事を人生の目標に定めていたと言う。
1965年、義務教育を終えると直ぐに有名ボクシングジムに入門し、翌年には、KO勝ちでデビューを飾るとその後も国内外の強豪選手を相手に激戦を繰り広げた。
心身共に成長して実力を付けた大場は、1970年、WBA世界フライ級タイトルに挑戦すると見事に王座を獲得した。
その強烈な右ストレートは、当時のアメリカのロケット弾に準えて「オネスト・ジョン」と呼ばれた。
そして、自らのファイトマネーで購入した一軒家を両親にプレゼントするという目標も叶え、5回の防衛も継続中で順風満帆、追い風を受けて快走中であった1973年、愛車のシボレー・コルベットを運転中に事故に遭い23歳の若さでこの世を去った。
怒涛の如く駆け抜けた大場政夫の伝説は、永遠のチャンプとして今も日本ボクシング界の語り草となっている。
プロボクシング戦績
38線 35勝 16KO 2負 1分
大場政夫VSチャチャイ・チオノイ
捨て身の連打 ピストン堀口

ピストン堀口
1914-1950
日本ボクシング伝説の男
脅威の176戦~
82KOを誇った拳聖の足跡
栃木県出身のボクサーで、父親は警察署長をしていた。
本名である堀口恒夫が選手名であり、一般的に知られる「ピストン堀口」は、正式なリング名でもなく、そのファイトスタイルがピストン戦法と呼ばれていた事により、いつの間にかピストン堀口の名が定着するようになった。
日本ボクシングの象徴とも言われ、拳聖と讃えられるほど戦いの連続であった。
日本及び東洋フェザー級、日本ミドル級王座を獲得しており、4人の兄弟達も皆ボクサーであったと言う。
中学時代には、柔道部の主将を務めるなど県下でも有名な強豪選手であった堀口は、同じ中学の先輩であり“日本ボクシングの父”と讃えられた渡辺裕次郎から度胸と才能を買われ、上京すると渡辺が主催する日本拳闘倶楽部に入門した。
入門から僅か半年後の初試合でKO勝ち収めると翌年にはプロデューを果たし、その後も次々と試合を重ね実に47連勝という大記録を打ち立てた。
かくして東洋チャンピオンとなった堀口は、世界クラスの実力を備えていたが、太平洋戦争などの影響もあり世界王座を獲得する機会には恵まれなかった。
対戦相手をロープ際に追い詰めて休まぬ左右の連打を浴びせるラッシュはピストン戦法と名付けられ、10分間の連続ミット打ちでも息切れしないほどの驚異的なスタミナを有していたと言う。
対戦相手が放つ無数のパンチを顔面に被弾しながらも一向に気にする事なく、ひたすら前に出て捨身のラッシュを相手に浴びせる闘争心むき出しのスタイルが観客達を熱狂の渦に巻き込んだ。
一説には、この堀口もまた、漫画「あしたのジョー」のモデルではないかと言われている。

日本では熱狂的な人気を得たピストン戦法であったが、1936年にハワイで行った試合では、フットワークやディフェンスを主体としたアメリカのボクシングに比べると野蛮であり、ボクシングと呼べるものではないとの酷評を受けた。
これを切欠に攻撃中心の戦法からディフェンスや精神面の修養を行う様になり、合気道の植芝盛平の道場を訪ねるなど武道における理合(りあい)を学んだ。
戦後は、ボクシングの他に探偵業などもしていたが、ボクシングを引退した直後の1950年、泥酔して線路上を歩いていたところを貨物列車に跳ねられ命を落とした。
神奈川県茅ヶ崎市の海前寺にある堀口の墓碑には、「拳闘こそ我が命」との力強い文字が記されている。
プロボクシング戦績
176戦 138勝 82KO 24負 14分
唄/ピストン堀口 リングの王者
小よく大を制す 嘉納 治五郎

嘉納 治五郎
かのう じごろう
1860-1938
~講道館柔道の創設者~
摂津国御影村(現:兵庫県神戸市東灘区御影町)に生まれる。
生家は、地元では屈指の名家であり、酒造及び廻船業を生業とし、幕府の廻船方御用建を勤めるほどの地位についていた。
また、勝海舟のパトロンでもあったと言う。
1873年、治五郎は、明治政府に招聘( しょうへい )された父に随行して上京し、書道や英語などを学んだ。
1877年、現在の東京大学に入学するが、かねてから自分の虚弱な体質を気にしていた治五郎は、非力でも強者に勝てる様になりたいと思い、柳生心眼流や天神真揚流などの柔術を学ぶ。
1881年、東京大学文学部を卒業した後、柔術二流派の技術を取捨選択し、近代的な体系整備のもと独自の「柔道」を創始する。
その翌年の明治15年、現在の東京都台東区にある永昌寺の大広間にて将棋や囲碁の様に段位制を取り入れ「講道館」を設立した。
起倒流皆伝(きとうりゅう)を受けた治五郎は、柔術のみならず、剣術、棒術、薙刀術などの武技についても、柔道と同様に理論化する事を考え、香取神道流や鹿島新當流などの師範を招いて、「古武道研究会」を開き、技術交流を行なった。
それらの功績として、1905年には「大日本武徳会」(戦前の武道振興、教育、顕彰を目的とした社団法人 )より、柔道範士号が授与される。
また、教育者としての顔も持ち、1882年には、学習院教頭、翌年から通算25年間に渡り、筑波大学、熊本大学などで学校長を勤めた。
文武両道の視点から多数の教育者、武術師範らとの交流を重ね、1887年「哲学館講義録」を共著で執筆すると、その翌年の明治21年には、全国の旧制中学校の授業で「柔道」が採用される。
更に日本のスポーツ界への道も開き、1909年(明治42年)には、日本人初のIOC国際オリンピック委員会の委員となり、1911年には、「日本体育教会」を設立した。
そして、1936年(昭和11年 )には、IOC総会で、1940年の東京オリンピックの招致に成功するが、その後の戦争激化により、実現はしなかった。
世界を戦い巡った古流柔術の猛者でコンデ・コマこと前田光代、柔道の神様こと三船久蔵らの師であり、小説「姿三四郎」のモデルとされている。
元来、戦場で敵を殺傷する技術として生み出された古流武術を近代的な体系整備によりスポーツとして普及させた加納治五郎の功績を讃え、「柔道の父」又は「日本体育の父」との呼び名で、今も多くの柔道家、教育者から崇敬の念を集めている。
不動心 呂 洞賓

呂 洞賓
りょうどうひん
794年
唐時代の中国の仙人であり、道教の代表的な八人の仙人(八仙)の一人である。
師匠であり同じく八仙の一人である鍾離権(しょうりけん)より秘法を授かり道士になったと言われる。
その姿は背に剣を背負った書生の姿で描かれる事が多く、同じく八仙である、韓湘子(かんしょうし)や女仙の何仙姑(かせんこ)などを導いたとされる。
幼い頃より聡明で1日に万言を記し、好んで華陽巾(かようきん・隠者の被る頭巾)を被り、黄色い襴衫(らんさん/唐時代の着物)を着て胸に黒い板をぶら下げていたと言う。
出世を目指して科挙(歴史上最難関とされる中国の官僚登用試験)を2回受験するが落第した。
そんな折に長安の酒場にて鍾離権(しょうりけん)と出会い修行の道に誘われたが、出世の夢を諦めきれず断った。
ある時、呂洞賓(りょどうひん)は、黄粱(粟ご飯)を炊いている間の僅かな時間にうたた寝し夢を見た。
夢の中では科挙に合格して出世し良家の娘と結婚して沢山の子をもうけ、そうして40年が過ぎた頃に重罪に問われ家財が没収されて左遷に遭い、家族は離れ離れとなった。
そこで目が覚めたが黄梁 (こうりょう)はまだ炊けていなかった。
微かなうたた寝の間に一生を垣間見た事で俗世の儚さを悟った呂洞賓は、鍾離権を探し出して弟子入りを申し出ると、鍾離権は呂洞賓に十度の試練を与えた。
第一の試練は、呂洞賓が外出から戻ってくると家族全員が死亡していたが、彼は嘆く事なく淡々と葬儀の準備をしていると家族は生き返ったが、呂洞賓は驚かなかった。
第二は、呂洞賓が市場に物を売りに行き値段を決めて取引が成立したが、相手が約束を破り金を半分しか払わなかった。しかし呂洞賓は何も言わなかった。
第三は、物乞いが呂洞賓に施しを求めてきたので物を与えた。しかし物乞いは更に物を求めて呂洞賓を罵倒した。しかし、呂洞賓はただ笑って謝るのみであった。
第四は、呂洞賓が山中で羊を放牧していると一匹の虎が羊の群れを追いかけてきた。呂 洞賓は羊を下山させ虎の前に立ちはだかると虎は去っていった。
第五は、呂洞賓が山中の小屋で読書をしていると17歳ほどの美女が現れて3日間の誘惑を受け続けたが最後まで心を動かさなかった。
第六は、呂洞賓が外出から戻ると家財が全て盗まれていた。しかし怒ることもなく畑を耕し始めた。すると土の中から金塊が出てきた。しかしその金塊をまた土に埋め直した。
第七は、呂洞賓は街で銅器を買って帰ったが見るとそれは全て黄金で出来ていた。直ちに銅器の売主の元へ行きこれを返した。
第八は、気の狂った道士がおかしな薬を売っていた。その薬を飲むとたちどころに死んでまた生き返ると言うので、その薬を買って飲んでみたが何も起こらなかった。
第九は、呂洞賓は大勢の人々と共に河を渡っていたが突然に風が吹き荒れ、荒波がうねり人々は恐れおののいたが呂洞賓は動じなかった。
第十は、呂洞賓がひとり部屋に居ると奇妙な化け物が現れ呂洞賓を殺そうとした。しかし正座したままで少しも動じなかった。続いて数十もの夜叉が襲いかかってきた。
血だらけの化け物が泣きながら、お前は前世で私を殺したので、その償いがほしいと訴えた。呂洞賓は自分が殺したのなら償うのが道理だと言い、刀で自殺しようとした。
すると突然、空中に大声が響き渡り、鬼神達はみな姿を消した。
見るとただ一人手を叩いて大笑いする者がいた。
それは鍾離権であった。あなたを十度試したが心が堅く何事にも動じない。きっと仙人になれるだろうと言い呂洞賓を弟子にしたと言う。
真っ白に燃え尽きる 斉藤 清作

斉藤 清作(たこ八郎)
1940-1985
捨身のノーガード戦法~
リングからお茶の間へ
プロボクシング日本フライ級王者であり、引退後は芸能界へと進み、たこ八郎の芸名で俳優からコメディアンまで幅広く活躍した。
宮城県の農家の生まれで8人兄弟の次男であった。
少年時代に友達らと泥だんごの投げ合い合戦をしていた際に左目に直撃を受け、ほとんど見えない状態に陥ったと言う。
当時、裕福な家庭では無かったので病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていた。
高校時代にボクシング部に入部すると宮城県大会で優勝を果たす。
その後、上京して正式にボクシングジムに入門したが、左目の障害を隠す為に視力検査の表を丸暗記してテストに挑んだと言う。
2年後の1962年には、第13代日本フライ級王者となり、髪型を河童のように刈り込んでいた事から"河童の清作"と呼ばれた。
斎藤のファイティングスタイルはノーガード戦法とも呼ばれ、相手に打たせるだけ打たせて疲れさせて相手のスタミナが切れた頃を見計らって反撃に転じるという壮絶なる捨身の戦法であった。
一説には、ボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」のモデルではないかと言われている。
全日本フライ級タイトル防衛戦
左目のハンデを相手に悟らせないために敢えて打たれ続け、耳元で「効いてない、効いてない」と囁きながら対戦相手を恐怖に陥れる狂気じみた戦法を取っていた。
しかし、打たれ続けたことで頭部へのダメージが蓄積し、深刻なパンチドランカー症状が出現したため引退を余儀なくされる。
引退後は、同郷のよしみから当時人気コメディアンであった由利徹氏に弟子入りすると役者としてデビューを果たす。
芸名である"たこ八郎"は、当時行きつけの居酒屋でよく頼んでいた(たこきゅう)から由利が名付けたものだと言う。
当初は師匠である由利の自宅に住み込んでいたが、深刻なパンチドランカー症状により住み込み弟子としては無理だと判断した斎藤は、自ら由利の家を出て友人宅を泊まり歩くようになる。
受け入れた友人達も「迷惑かけてありがとう」と話す彼の純朴な姿を見て暖かく迎え入れたと言う。
常に酩酊状態にあるかの様な表情と話しぶりが怪しげな風貌を創り出し、役者やコメディアンとしての芸風に役立った。
映画「幸せの黄色いハンカチ」の劇中で見せる高倉健との格闘シーンでは、かつての片鱗を伺わせるキレのある鋭い動きを見せている。
幸せの黄色いハンカチ 登場シーン
1985年、神奈川県の海水浴場にて飲酒後に遊泳していたところ心臓麻痺を起こして逝去する。
かつて、もし俺が死んだら葬儀委員長をしてほしいと冗談まじりに聞いていた漫画家の赤塚不二夫氏が葬儀委員長を務め、親交があったタレントのタモリ氏は「たこが海で死んだ。何も悲しい事はない。」との追悼を述べた。
師匠である由利徹は、このたこ野郎が逝きやがったなと言って泣き笑いし、出棺は、三本締めによって送り出されたと言う。
全力で命を燃やす。“命はもっと粗末に扱うべきなのだ”とのセリフを起想させる。
そして、不器用であるほどにリアリティを感じさせる斎藤清作の生き様は、熱意を忘れかけた我々現代人の心に響くものを感じる。
プロボクシング戦績
41戦 32勝 10KO 8敗 1分
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