打たれずに打つべし 白井義男

白井 義男
しらい よしお
1923-2003
戦後を照らした希望の光
日本人初、世界王者の軌跡
東京都荒川区出身のボクサーで、少年時代に夜祭の余興で行なったカンガルーとのボクシング対決に負けて以来、ボクシングにのめり込んだという。
1943年の戦時下にプロデビューを果たし、以降8連勝の快進撃を続けたが間もなく招集されて海軍に従事する事となった。
終戦後は、再びボクシングに復帰するが、海軍時代の功労により重い腰痛を患い引退寸前の危機に陥っていた。
その頃、ジムに出入りしていたGHQ職員であり生物学者でもあったアルビン・R・カーン博士に才能を見出され、ボクシング技術の指導や体調管理に至るまで彼の全面的な支援を受けて本来の素質を開花させる。
カーン博士の指導による徹底した健康管理に加えて、長いリーチと抜群の運動神経を活かした防御主体のスタイルに矯正した事で白井のボクシングは息を吹き返した。
1952年、晴れて世界フライ級タイトルマッチに挑戦すると見事に王座を獲得する。
白井の勝利は、敗戦に打ちひしがれていた当時の重苦しい空気を打ち破る切欠となり、世界王者となった白井の活躍は日本国民にとって希望の光であった。
その後、4度の防衛に成功するが、5度目の防衛は叶わず翌年に行われた再戦に敗れてそのまま引退した。
試合には敗れはしたが、試合中継の視聴率は史上最高の96%を記録した。
カーン博士は、白井に最先端の科学的なトレーニングを施した。当時の主流であった"打たれたら打ち返す"という消耗度の激しいボクシングを否定し、徹底した防御態勢から適格なパンチを当てるスタイルを確立した。
この"打たせずに打つ"と言われるスタイルは、その後の近代ボクシングの礎となる。
共に努力を重ねた白井とカーン博士は、選手とコーチの関係を超えた家族の様な間柄だったと言う。
それは引退してからも変わる事なく、子供がいなかったカーン博士は、白井を我が子の様に思い接していたと言う。
白井は、日本が生んだ世界王者の中で唯一、正式なジムに所属しない欧米スタイルのマネジメント方式によりチャンピオンになった人物である。

ボクシング名鑑などに所属ジム名として記載された「シライ」は、カーン博士と共に二人三脚で歩んだ自宅のプライベートジムであった。
プロボクシング戦績
58戦 48勝 20KO 8敗 2分
白井 義男
戦う牧師 ジョージ ・ フォアマン

ジョージ・フォアマン
1949-
ヘビー級王者から牧師へ
元祖、象さんパンチの伝説
アメリカテキサス州出身のボクサーで、少年時代は喧嘩や飲酒、窃盗に明け暮れる不良少年であったという。
"象をも倒す"と言われた無類の強打を誇り、1968年のメキシコシティオリンピックの金メダリストである。
1969年より、プロボクシングに参戦。並みいる強豪を退けて統一世界ヘビー王座に輝いた。
後に"キンサシャの奇跡"と言われたモハメド・アリとの試合に負けて28歳で引退する。
引退後はキリスト教の牧師となって教会兼、家庭環境に問題がある子供達が安全に過ごせる場として、ユースセンターを設立した。
その後の10年間に離婚による多額の慰謝料、センターの運営を任せていた会計士による多額の資金横領など不運が続き、教会やユースセンターの運営は行き詰まってしまう。
運営資金を獲得する為に再びリングに戻る決意をしたフォアマンは、練習を開始した。
40歳を目前にヘビー級のリングに上がるなど正気の沙汰ではないと冷笑を浴びるも、フォアマンの意思は固く、教会施設を頼りとしている子供達の為にも世界ヘビー級のリングへと上がる必要があった。
見事に復帰を果たしたフォアマンは、長いブランクと年齢を感じさせない快進撃を見せ、24連勝を重ねてタイトルマッチへの道を切り開いた。
2度に渡り世界ヘビー級王座に挑戦したが、惜しくも判定で敗れてしまう。
そして1994年、45歳となっていたフォアマンは、3度目の挑戦にして終に世界ヘビー級王座に返り咲いた。

周囲からは、"ビッグ" の愛称で親しまれるフォアマンであるが、その名の意味は彼の身体の大きさを意味するだけでなく、彼の心の広さと温かさを指した言葉であると言われている。
プロボクシング戦績
81戦 76勝 5敗
アマチュアボクシング
26戦 22勝 4敗
フォアマンの破壊力
パウンドフォーパウンド モハメド・アリ

モハメド・アリ
1942-2016
史上最速のヘビー級ボクサー
自由への戦い~
米国ケンタッキー州出身のアフリカ系アメリカ人であり、他にもイングランドとアイルランドの血を引いていた。
旧名は「カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア」と言ったが、イスラム教に改宗した際に本名とリング名を「モハメド・アリ」に改名した。
1960年のローマオリンピック ライトヘビー級の金メダリストであり、プロに転向した後も多数のキャリアを重ねると共に大規模な社会闘争へも力を注いだ。
通算3度の王座獲得と19回の防衛に成功し、並みいる強豪選手達との死闘を繰り広げ多くの名勝負を残した。
パワーとタフネスさが重視された当時のヘビー級において華麗なステップワークから鋭いジャブやカウンターを放つ、テクニカルなスタイルは観客を魅了し、その姿は"蝶のように舞い鉢のように刺す"と形容された。
相手のジャブに対して、ストレートをカウンターを合わせられるほどの並外れたスピードを持ち、マイクタイソンを含めてもヘビー級史上最速であるとの呼び声が高い。
ボクシングとの出会いは、少年時代のある日に父親に買ってもらった大切な自転車を盗まれ、警察署に届けに行った際に担当の警察官から誘われたのが切欠であるという。
警官は盗んだ犯人に鉄拳制裁を加えてやれとアリに言った。承諾したアリは、ボクシングトレーナーをしていると言う警官のジムに入門する。
ボクサーとなったアリは、アマチュア選手として目覚ましく活躍した。
州の大会で数度の優勝を重ねた後、1960年のローマオリンピックで金メダルを獲得、その後プロに転向すると間もなく世界ヘビー級王座に輝いた。
しかしベトナム戦争の本格化が見え始めた頃、、アリは"自分はベトナムに何の恨みも無い"との心情をマスコミの前で吐露したのを切欠に長年に渡る社会闘争へと踏み込んでゆく。
国民の過半数が戦争を支持する中で有名人としては唯一、大々的に戦争を糾弾する抗議を続け世間からの非難を浴びる。
徴兵を拒否した事でボクシングライセンスを剥奪されると共に刑務所への収監を余儀なくされた。
自身の輝かしいキャリアを投げ打って選手生命の貴重な時間を失ってでも、実直な姿勢を崩さないアリの姿が世間に影響を与え、次第に支持する者も増え始めた。
3年後の1971年、裁判所による有罪破棄の判決と同時にボクシングライセンスが復活し、再びリングに復帰した後は多数の名勝負を繰り広げ賞賛を浴びた。
1972年には、"格闘技世界一決定戦"と銘打たれたプロレスラー・アントニオ猪木氏との異種格闘技試合も行っている。
この試合でアリのパンチを警戒した猪木氏は、試合開始から終盤に至るまでリング中央に横たわり続け、観戦者の予想を裏切る試合展開を演じた。
身長190cm、リーチ203cmとヘビー級として申し分の無い体格を持ちながら、さながら中量級の選手であるかのようなスピードと華麗なステップワークを駆使して相手を翻弄する鮮やかな試合運びについて、今なお史上最も偉大なボクサーとして讃える者は多い。
生涯戦績
61戦 56勝 37KO 5敗
モハメド・アリ ディフェンス集
神業的なステップとヒッティング
元祖 太極拳伝説 張 三豊

張 三豊
ちょう さんぼう
1200年代
太極拳創始者の伝説
元・民の時代を生きた道教の導師であり仙人。内家拳の始祖であり太極拳を創始したとされる伝説的人物である。
幼少の頃より才知が抜群で、経典・歴史に精通しており、一度目を文章は、直ぐに暗唱する事ができたと言う。
1314年67歳の時に"火龍真人"と言う仙人から剣術や道教を学び、不老長寿の術を得たとされる。
1327年77歳となった張三豊は道教の聖地として名高い武当派剣法の総本山である武当山(ウーダンシャン)に上がる。
武当山とは、中国湖北省にある標高1600mの山と中腹にある道教の寺院である。
かの地で大極剣を極めると供に万物の根源である太極と陰陽五行からなる両儀四象(陰と陽の2つの力)の妙用により、太極拳を創造し、これにより仙人となった。
130歳なった張三豊は、一度息を引き取るも埋葬する段階で蘇る。
張三豊の名声が朝廷に伝わると1385年、明の洪武帝(朱元璋)は、137歳であった張三豊を招聘(しょうへい)するも辞退される。
さらに1417年に永楽帝が168歳になった張三豊を招聘するがまたも辞退された。
張三豊を題材とした小説やドラマ、映画など数多くの作品が作られている。
太極 張三豊
絶技 猛虎硬爬山 李 書文

李 書文
り しょぶん
1864-1934
八極拳の創始者
一撃で絶命させる拳打
中国、河北省出身の拳法家で李氏八極拳の創始者であると同時に"神槍"と称えられるほどの槍の名手でもあった。
貧しい農民に生まれ、生活苦から劇団に入ったが、練習中の怪我により家に戻された。
その後、武術家になる事を決心した李書文は、昼夜を問わず激し稽古に打ち込み、次第に誰からも一目置かれる存在になったと言う。
練習する際には、誰に対しても容赦がなく、常に対戦相手に怪我を負わせたり、死亡させてしまう事さえあった為、“李狼子”と呼ばれ恐れられていたと言う。
小柄で細身の体形であったが、見た目に似合わぬ怪力の持主であったと言う。
ある時、町一番の力自慢が李書文に力比べを申し込んだところ、李書文は長さ三尺(約1m)の鉄の棒を壁に突き刺し、これを抜いてみろと言った。
男は半日かけて棒と格闘したが、抜く事は出来なかったと言う。
また、李書文の得意技として知られる猛虎硬爬山(もうここうはざん)の鍛錬では、重さ100kg以上もある石製の農耕機具を2m以上も高低差のある畑の上段に投げ上げていたと言われる。
真剣勝負では負け知らずであり、山東省で行われた"鉄頭王"呼ばれる武術家との果し合いでは、「あなたは、私を三度打って良い、その後に私は一度だけ打つ」と言い放ち、怒気が上がった鉄頭王は渾身の力で書文を三度打つもびくともせず、次に書文が鉄頭王の脳天に強力な掌打を叩き込むと頭が胴まで沈み込んで即死したと言う。
当時、その比類なき強さを称えた“李 書文に二の打ちいらず”と言う、唄い文句が流行るほど、広く世間に知れ渡っていた。
また、数多く行った果し合いでは、初めの牽制の一撃で対戦相手を殺してしまう事さえあったと言う。
そして、"神槍"とまで讃えられた槍術は、六合大槍(長さ3m以上もある槍)を用いて、壁にとまった数匹のハエを壁を傷つける事なく全て突き落として見せたと言われている。
中国拳法大家による八極拳の指導
五祖拳の拳法家による壮絶な部位鍛錬
秘技 少林無影脚 黄 飛鴻

黄 飛鴻
ウォン・フェイフォン
1847-1924
~秘技 少林無影脚~
清朝末期の英雄伝説
中国最後の王朝・清朝末期の時代に活躍した武術家であり、中国近代史では、英雄として扱われる。
父親は"広東十傑"(広東の十人の達人)の一人に数えられた「黄麒英」(ウォン・ケイイン)であり、父親から南派少林拳の一派である"洪家拳"(こうかけん)を叩き込まれた。
洪拳とは、民の時代に西安に始まり、紅拳を元に様々な流派の技を組み入れて創始されたと言われている。
清朝において反政府組織であった洪門(三合会)として、少林寺に学んだとされる。
黄 飛鴻の一つに影が映らない程の速さで連続して蹴る"無影脚"(むえいきゃく)がある。
父親の厳しい教えのもと少年時代で既に師範クラスの腕前を持っていたと言われる。
自宅で漢方薬局を営む傍ら憲法道場も運営していた父親の後を引き継ぎ、清朝末期の治安が乱れた街中を自警団を率いて警護にあたっていたと言う。
彼を題材とした書物や映像作品は数多く作られており、余りにも伝説的な存在とされているため事実と相違する面も多分に見られるが、今なお近代中国史上最大の英雄の一人として人気を博している。
黄 飛鴻を題材にした映画
戦う大富豪 ジーン・タニー

ジーン・タニー
1897-1978
文武両道の秀才ボクサー
世界王者から財界人へ
アメリカニューヨーク州出身のヘビー級ボクサーで、ボクシング好きの父親からグローブを買ってもらった事を切欠にボクシングを始める。
19歳で志願して海兵隊に入隊すると軍内部のボクシング試合で頭角を現し、派兵された第一次世界大戦下のフランスでは、ライトヘビー級王者に輝いた。
付いたあだ名は、"The Fighting Marine"戦う海兵。
ディフェンスに優れた技巧派として定評があり、プロのキャリアでは"人間風車"の異名で知られる名うてのダーティーファイタに一度敗れているが、その後は連勝を続けた。
1926年、フィラデルフィアで豪腕のハードパンチャー「ジャック・デンプシー」の持つ、世界ヘビー級王座に挑戦しすると持ち前のフットワークを活かしてデンプシーの強打を封じ込め、世界ヘビー級王座を獲得した。
翌年にデンプシーの挑戦を受けてシカゴで再戦するが、7Rにデンプシーの強力なフックを受けてダウン。
カウント8で辛うじて立ち上がり、次の8Rには逆に右ストレートをお見舞いしてデンプシーをマットに沈め初防衛に成功した。

1928年、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの遺産相続者である大富豪の女性との婚約と同時にボクシングから引退した。
引退後には、数多くの事業を成功させると共に現役時代からシェークスピアや哲学書を愛読する様なインテリであったことから、イエール大学で講師を務めたり、俳優として映画出演したりと多彩な日々を送った。
リング内外での活躍による多大な功績により、1980年には、世界ボクシング殿堂にその名を連ねた。
タニーのボクシングは、この時代には珍しく理論的に組み立てられたスタイルであり、フットワークで距離を取って左ジャブから右ストレートを放つと言った近代的なボクシングスタイルを既に確立していた。
また、相手の動きを察知して素早く放つカウンター攻撃を得意とし、数多くの強打者を抑え込んで試合を制した。
戦いを理論的に組み立てる明晰な頭脳とそれを実行できる身体能力、さらに相手の微かな予備動作も鋭敏にキャッチする繊細な神経を持ち合わせた類稀なボクサーであった。
生涯戦績
87戦 77勝 45KO 1敗 3分
ジーン ・ タニー
ソーラープレキサスブロー ボブ ・ フイッシモンズ

ボブ ・ フイッシモンズ
1863-1917
三階級制覇を成し遂げた近代ボクシングのパイオニア
ソーラー・プレキサス・ブローと呼ばれるミゾオチをえぐるように打ち込むボディアッパーの発案者として知られ、全身に広がっていたそばかすから、「ルビー」の愛称で呼ばれていた。
イギリスのコーンウォール州生まれだが、9歳の頃に家族と共にニュージーランドに移住した。
1880年、ジェム・メイス(ベアナックル 元ヘビー級王者の名前)トーナメントと言われる大会で優勝する。
その3年後には、プロボクサーとなり、ミドル級、ライトヘビー級、ヘビー級と3階級を戦場に戦い続けた。
大降りのパンチが主流だった当時のスタイルの中にあって、フイッシモンズは近距離からもジャブを放つ革新的なスタイルを確立していたと言う。
1890年頃から主戦場をアメリカへと移し、ニューオリンズで行われた世界ミドル級王座戦では、相手選手を13度もダウンさせてタイトル奪取に成功する。
その後、防衛戦として数試合を行ったが、警察の介入による無効試合などが続き、2度目の防衛を果たした後は、階級を上げてヘビー級で戦い始めた。
1996年、ジェームス・J・コーベットの持つ、世界ヘビー級王座に挑戦し、14ラウンドにKO勝ちを収め、第3代世界ヘビー級王者となるが、その翌年の防衛戦で敗れ、王座から陥落してしまう。
2年後の1898年には、ニューヨークにて、ジョン・L・サリバンと対戦する予定であったが、ニューヨーク市がボクシング禁止令を発令した事により実現しなかった。
その後、1903年には、世界ライトヘビー級王座に挑戦し、20R判定勝ちで新王者となる。
これにより、ミドル級、ライトヘビー級、ヘビー級の三階級制覇を成し遂げた。
この後、ミドル級出身者による世界ヘビー級王座の獲得は、106年後のロイ・ジョーンズ・ジュニアまで誰も成功しなかった。
公式記録によれば、82戦となっているが、フイッシモンズによると、非公式も合わせて合計で350試合以上は行なっていると言う。
生涯戦績:プロボクシング
82戦 51勝 44KO 8負
5分 18無効試合
フィッシモンズ VS コーベット
大東流合気柔術 武田惣角

武田 惣角
たけだ そうかく
1859-1943
~上級武士の武術~
大東流合氣柔術 中興の祖
陸奥国(むつのくに)現在の福島県にて会津藩士の家に生まれた。
父親の惣吉は、宮相撲の力士であり、剣術にも秀でていたと言う。
幼少の頃より、相撲、柔術、宝蔵院流槍術、小野派一刀流剣術などを学び、13歳の時に上京して直心陰流剣術(じきしんかげりゅう)の道場に入門し内弟子となる。
その後、各派の剣術道場に出向いて他流試合を重ね、剣術の他には棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、手裏剣術、弓術など一通りの武技に精通していた。
10代の後半には、兄の急逝に伴い武田家を継ぐために呼び戻されたが、西南戦争に参戦するため直ぐに家を飛び出し、西郷隆盛軍に身を投じようとするが叶わず、九州各地を巡る武者修行の旅に変移した。
惣角は、道場を持たず請われれば何処へでも出かけて行って大東流合気柔術を指南したと言うが、いつどこで誰に何を教授したかの詳細な記録を残すと供に諸国を巡る中で様々な他流試合や野試合を敢行し、大東流合気柔術の実戦性を証明して見せた。
1904年頃、北海道を拠点として東北六県から関東まで広域に勢力を伸ばしていた博徒組織「丸茂組」を、単独で制圧したとする逸話が残されている。
幼少の頃は、寺子屋に行くのを嫌い「自分は一生字を書かない、人に書かせる立場になる」と誓ったため字が書けなかったと言われるが、後年その思いは実現する事になる。
裁判官、警察署長、軍高官などの社会的地位が高い人物らが次々と惣角の弟子や後援者となった為、それら弟子達に代筆させていたと言う。
猜疑心が強く、隙を与える事を嫌い、食事は相手が毒見するまで食べなかったとさえ言われている。
また、ある時に手裏剣術を教えている惣角を見て足の不住な生徒が笑った。「何が可笑しい」と惣角が問うと、その生徒は、「その様に尖っているものは、突き刺さって当然だ」と言い、おもむろに硬貨を取り出し、柱に投げつけたところ硬貨が柱に突き刺さった。
それを見た惣角は、以後は手裏剣述を教えなくなったと言われているが、これは創作話であろう。
また多数の門人の中には、合気道開祖として知られる上芝盛平もいた。
幼少時より、柔術剣術と各流派での修行を積み、剛力で鳴らしていた上芝であったが、惣角(そうかく)の多彩な決め技の前にねじ伏せられ、入門を決意したと言う。
惣角の外見は、羽織袴に高下駄を履いた出で立ちで頭には高山帽を被り、手には門人が寄贈した150cm程の鉄杖をつき、腰には脇差を差していたと言う。
柔道の鬼 牛島 辰熊

牛島 辰熊
1904-1985
~狂気の猛稽古~
異端の最強柔道家に迫る
明治神宮大会3連覇を初め、数々の武勇伝が語られると供に、その並外れた気性の荒さから「鬼の牛島 」と恐れられた。
柔道史上最強と言われる「木村政彦」の師匠であるが、牛島自身も木村に負けない実績を持つ強豪中の強豪である。
熊本県に生まれた牛島は、元々は剣道をしていたが、兄の影響で肥後柔術三道場の一つとされる扱心流(きゅうしんりゅう)柔術体術の道場に入門した。
この頃の熊本では技術体系が整備された講道館よりも、まだまだ古流の柔術が盛んであったと言う。
当時の対抗戦は、正に戦場を想定した苛烈な戦いであり、判定ではなく「参った」などの敗北宣言のみで勝敗を決していた。
時には、短刀に模した木刀を腰に差し、投げて組み伏せた相手の首元を木刀で掻き切る動作をして一本勝ちとなるルールさえあったと言う。
これは、古流柔術が、あくまで戦場での戦闘術であるとの考えに基づいている。
1929年、皇室の記念行事である「展覧試合」に参加した牛島は、予選は全て一本勝ちで進んだが、決勝戦で栗原民夫十段に判定で敗れた。
雪辱を誓った牛島は上京し、皇宮警察、警視庁、学習院などの師範を勤めながら猛稽古に励む。
あちこちへと出稽古に出かけ1日40本以上もの乱捕りを行なうなど猛稽古を重ね、稽古後は消耗しきって階段さえ登れなくなる程であったと言う。
食事も粥しか喉を通らずといった状態になるまで、さらに翌朝には硬直して動かない指を湯に漬けて少しづつ伸ばす必要があったさえ言うほどの凄まじい稽古であった。
これらの稽古で超人的な実力を身につけた牛島は、1931年、1932年と全日本柔道選手権を2連覇する。
しかし、1934年の皇太子生誕記念の展覧試合に出場した際は、敢え無く予選敗退となった。
寄生虫感染症により、体重が9kgも減って衰弱しきっていた牛島は、試合前の1ヶ月の間、洞窟に篭って座禅を組んだと言うが、体が動かぬのを精神力で補おうとした悲壮感には、如何にも牛島らしい姿が表われている。
結果は、敗北する事となったが、体調が万全であれば間違いなく彼が優勝していたと言われている。
しかし、武術家にとって「負けは死と同義である」と公言していた牛島は、即座に引退を決意し、以後は、木村政彦ら後進の指導に専念する事となる。
特に寝技を得意としていた牛島は、「柔道はあくまで武術であって、戦場で矢折れ刀尽きた時、最後は寝技によって生死を決するのだ 」と常々、口にしていたと言う。
その荒々しさ、性格の豪胆さを指して対戦相手からは鬼の牛島と恐れられ、畏敬の念を集めていた。
また、一面では思想家としての顔も持ち、石原 莞爾らといった当時の一流どころとも親交があり、戦争を止めさせる為に東条英機暗殺を企て逮捕される一幕もあった。
後に極真空手の大山倍達は、牛島を非常に慕うようになるが、牛島の柔道の強さだけに惹かれた訳ではなく、思想家としての生き様にも感銘を受けていたからとも言われている。
戦後の武道の衰退を嘆き、国際柔道協会としてプロ柔道を旗揚げしたが次第に行き詰まって潰れてしまう。
そして団体が消滅した後も、講道館は牛島にプロの烙印を押したままであった。
晩年になっても、その力は衰える事が無く、50代にして現役エース級の選手を相手に子ども扱いしていたと言う。
亡くなる前年の1984年には、講道館100周年を記念して九段に昇段しており、その実績からしても最高位十段でも不思議では無いと言われたが、異端視されていたためか柔道殿堂には入っていない。
武道の本質は勝つ事であると実直な思いを貫いた牛島の生き様は、今も多くの柔道家に語り継がれている。
一撃で屠る一本拳 本部 朝基

本部 朝基
もとぶ ちょうき
1870-1944
~琉球王家の秘伝~
日本傳流兵法 本部拳法
にほんでんりゅうへいほう もとぶけんぽう
琉球の名門、本部家に生まれた朝基(ちょうき)は、20代の頃から伝説的な強さを誇り、実践空手術における最強の使い手と讃えられた。
その身の軽さから、本部御殿の猿御前(サーラーウメー)と呼ばれ、御殿は王族が住む邸宅であると同時に王族への尊称でもあった。
本部御殿(もとぶ うどん)とは、本部王子朝平を元祖とする琉球王族であり、国王家の分家として日本の宮家に相当する地位にあった。
また、本部御殿は代々、本部間切(現・本部町)を領する大名であり、琉球王国最大の名家でもあった。
幼少の頃から武道を好み、首里手(しゅりてい)の大家、糸洲安垣(いとすあんこう)を家庭教師に招き、長兄の本部朝勇と供に師事した。
朝基は、「武こそは我」と言うほどに唐手の稽古に打ち込み、兄の朝勇が学ぶ「御殿手」の稽古を盗み見ては、叱責を受けたと言う。
御殿手(うどんでい)とは、琉球王家の長男のみに継承される秘伝の武術である。
しかし、兄の朝勇も晩年には、御殿手の技の幾つかを朝基に伝授したと言われている。
朝基は、稽古だけでは飽き足らず、当時の遊郭街に出かけては「掛け試し」と称した喧嘩に明け暮れていたが、敗れた事は一度も無かった。
朝基の唐手(空手)術は、膨大な基本稽古と巻きわら突きで養われた剛拳であり、後に巨漢のロシア人ボクサーを一撃で倒した拳打は、正拳と同じだけの全力で一本拳を叩き込むと言う凄まじいものであった。
“一本拳”とは、、唐手術における必技の一つであり、拳を形成する際に中指の第二関節のみが突出するように鋭角に突き立てて拳を握る事から「中立ち一本拳」とも呼ばれる。
指その物の鍛錬は勿論のこと、強力な握力も必要となる為、正拳と同じだけの力で突き込むとなれば相当な修行を要する。
それゆえ叩かれた相手は決して無傷ではすまない、正に殺人的な技となる。
後に、本部御殿手(もとぶ うどんでぃ)の上原清吉も、朝基との稽古が一番苦しかったと述懐している。
1921年、朝基は来阪し、その時にたまたま立ち寄った京都でボクサー対柔道家の興行試合を目にするや飛び入り参加を申し出た。
参加が承認されると対戦相手の外国人ボクサーを一撃の元に倒し、観客を驚かせた。
当時、52歳で行ったこの試合の模様が雑誌「キング」に掲載されると、日本出版史上初の100万部を突破すると共に朝基の武名と沖縄の唐手術の存在が一躍全国に知れ渡る事となった。
1927年、朝基は上京して唐手の指導を行った。東京では、船越義珍の門弟であった大塚博紀(後の和道流創始者)から、「本部さんは文句無しに強い人です」との評価を受け、空手道場「大道館」を設立する。
また、この頃、フェザー級の東洋チャンピオンであった不世出のボクサー、ピストン堀口が大道館を訪れた。
朝基は、堀口に対して「遠慮なく掛かってきなさい」と言うと、堀口のパンチをすべて捌ききり、堀口の眉間スレスレの所で突き込んだ正拳を止めて見せた。
堀口は、「駄目だ、全く歯が立たない、参りました」と一礼し、構えを解いたと言う。
1937年、朝基は、更なる唐手研究の為に帰郷する。
晩年になっても、武術に対する研究心は衰えず、技に対する意見が少しでも食い違えば即座に立ち合いを求めるなど、実践に重きを置いた姿勢は最後まで変わる事が無かった。
朝基は、掛け試しなど数多くの武勇伝による粗暴なイメージとは異なり、実際は、とても温厚な人柄であったと言われ、琉球王族であり、沖縄大名でもあった家柄によるものか、むしろ汪洋(おうよう)として度量の深い人物であったと言う。
朝基の唐手は、嫡子、本部朝正が宗家をつとめる本部流をはじめ、今も朝基ゆかりの弟子達の流派に脈々と受け継がれている。

本部朝基ナイハンチ型 スライド映像
拳 聖 澤井 健一

澤井 健一
1903-1988
太気至誠拳法創始者
拳聖が歩いた道
柔道五段、剣道四段、居合道四段を修めてなお更なる高みを目指すために中国へと渡り、形意拳の達人、王郷斉(おうこうさい)老師に弟子入りした。
当初、外国人の弟子は持たないと断る王郷斉であったが、沢井の度重なる請願の熱意に打たれ、弟子入りを許可したと言う。
敗戦後、家族と供に帰国した沢井は、1947年、王郷斉の許可を受けて「大気至誠拳法」を創立し、明治神宮にて少数の弟子と供に稽古を開始する。
中国拳法諸派の中でも特に他流試合に積極的であり、実践性を重んじる数少ない流派として有名である。
極真空手との他流試合5対5マッチを始め、元自衛官であり、ボクサーとしての経験もある漫画家の板垣恵介氏は、取材の為に沢井の道場を訪問したところ、唐突に「やろうか」と立ち合いを求められたと自著で告白している。
その際立った実践性の追求と、現代には似つかわしくないストイックな鍛錬方法などは、流儀を越えて今も多くの武道家や格闘家に大きな影響を与え続けている。
澤井健一氏による指導風景
大気拳 VS 極真空手
柔道の神様 三船久蔵

三船 久蔵
みふね きゅうぞう
1883-1965
~柔道の神様 ~
最高位十段の妙技に迫る
1833年、岩手県で生を受けた三船は、20歳頃になると上京し、講道館に入門した。
身長159cm、体重57kgと小柄な体躯でありながら、前田光世ら猛者達の集う当時の講道館にて、持ち前の負けん気精神を武器に精進を重ねた。
体格に劣る三船は、力技では叶わないと悟り、相手の身体に触れる事なく倒す技は無いものかと研究に研究を重ねたと言う。
その結果、最小限の力をもって瞬時に相手を投げ転がす“空気投げ”なる妙技を会得した。
空気投げとは、別名、隅落(すみおとし)とも呼ばれ、両手で掴んだ相手の身体に触れる事なく、素早く巧みな対捌きによって、相手を斜め後方へ崩しながら投げ落とす技である。
理論の加納、実践の三船と言われるほど、講道館の創設者である加納治五郎の理論に対して、三船は、自らの実演により技の神髄を示す事から柔道の神様とまで讃えられた。
空気投げの他にも、大車、踵返し、三角固めなど多数の新技を発明している。
スイスイと体を躱すだけで相手が面白い様に転がる空気投げの様子を当時の高段者達は冷ややかに見ていた。
三船自身も、格下の者に対しては非常に有効なものの、実力が同格以上の相手への有効性には、一抹の疑念を抱いていたと言う。
しかし、1930年、全日本柔道選手権大会の特別試合において、佐村嘉一郎七段を空気投げで見事に投げ落とし、大観衆の前で技の効果を証明して見せた。
三船によると、空気投げは相手の体が大きいほど、技が決まり易いと言う。
1945年、講道館より柔道最高位である十段が授与される。
その後、1965年の没後には、永遠の功績を讃え勲二等瑞宝章が授与され正四位に叙された。
十段の妙技が炸裂!
三船十段による10人掛かり稽古
今武蔵 國井 善弥

國井 善弥
くにい ぜんや
1894-1966
~自流こそ最強~
異端の剣豪 鹿島神流剣術 代十八代宗家
幾多の他流試合において相手の望む通りの条件で立ち会うも生涯負ける事は無かったと言う。
その圧倒的な実力から現代に蘇った宮本武蔵との意味を込め「今武蔵」と呼ばれていた。
いかなる相手と対戦するも、戦う前から勝敗が決着しているかの如く勝利するのが常であったと言う。
日本武道界からは、異端視されたが、日本古武道の強さを体現した武人である事は間違いない。
太平洋戦争終了後のある時期、GHQは、日本政府に対して米国海兵隊の銃剣術の教官と剣術による試合を申し出た。
日本武道の誇りと名誉を賭けた一戦であり、負ける訳にはいかない状況の中で時の国務大臣であり、小野派一刀流剣術宗家でもあった笹森順三は、異端視されてはいたものの実践武術に優れていた國井喜弥に白羽の矢を立てた。
試合の条件は、米銃剣術教官は、真剣(本物の刀剣)を装着した銃身を持ち、一方の國井は木刀で立ち向かうと言う理不尽なものであったが、試合が開始されるやいなや、國井は相手の動きを見切って素早く木刀で相手を制し、身動きが取れない状態へと持ち込んだ。
圧倒的な実力差に米銃剣術教官は、負けを認めざるを得なかったと言う。
修行時代の國井は新陰流免許皆伝の佐々木正之進と言う武術家の内弟子に入っていた。
寝食を供にし、師の身の回りの世話をするのも内弟子の役目であったが、師から発せられる指示は、いつも抽象的で曖昧な表現が多く、「何をもってこい」や「何もついでに、何しとけ」などと言うものであった。
それは、その場の状況を瞬時に察知する訓練でもあり、当初は判断を誤る事も多かったが、次第に師の意向が高確率で掴める様になったと言う。
例えば、新聞を広げて「あれを持って来いと言えば・・・・メガネ」という具合にである。これが、集中力の養成に繋がり、相手の動きを事前に察知するための良い訓練になったと國井は述懐する。
「自流こそが最強」と常に語り、明治神宮での奉納演武の席であっても他流派に立ち合いを求め、その事が問題となり数年間の出入り禁止になるなど、古武術界からも異端視され無視され続けた國井であるが、あくまで実力主義に徹してこそ真の武術家であるとの大原則を体現する現代に生きた剣術家であった。
鹿島神流十八代宗家 國井 善弥
世界武者修行の旅 前田 光世

前田 光世
まえだ みつよ
1978-1941
~講道館柔道七段の豪傑が世界を戦い巡る~
青森県中津軽郡の出身で、少年時代は野球をしていたが、上京し早稲田中学(後の高校)を経て東京専門学校(後の早稲田大学)に柔道場が新設された事をきっかけに講道館に入門し、柔道に打ち込むようになる。
その後、メキメキと頭角を現し、講道館昇段審査の際には、館長である加納治五郎から前田のみ15人抜きを命ぜられるほどであったが、これを見事に完遂したと言う。
四段位にあった1904年頃、柔道使節団の一員として渡米し、滞在費を稼ぐ為と柔道普及の両立を兼ねて異種格闘技戦を断行した。
アメリカ各地を巡りながら、数多くのボクサーやプロレスラー、拳法家などとの対戦に明け暮れる中、ある日、親日家として有名なフランクリン・ルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウス官邸にて試合を行う事となった。
同行していた講道館 四天王の一人である富田常次郎が体重160kgの巨漢選手に敗れる姿を目の当たりにした前田は、柔道の威厳を示すべく雪辱を誓い、一人アメリカに残る決意を固める。
自らの首に1000ドルの懸賞金を掲げて挑戦者を募り、アメリカ中を駆け巡って行く先々で数多くの対戦を重ねたが、そのことごとくを退けた。
その後もメキシコやヨーロッパ諸国を戦い巡り、最後はブラジルの地へと辿り着いた。その間、柔道着を着用した試合では、1000試合を超えるほどになっていたが無敗のままであったと言う。

ブラジルでは、ガスタオン・グレーシーと出会い、その息子であるエリオ・グレーシーとカーロス・グレーシーに柔術を教えた。
彼らは、前田から伝授された柔術に改良を加えて技術体系化し、後にグレーシー柔術として広く世間に知られる事となる。
1930年頃には、「オタービオ・ミツヨ・マエダ 」と言う名前も得て、ブラジルに帰化した。
前田光世と言えば、コンデ・コマの名で有名であるが、これはスペイン語で「伯爵」を意味するコンデという単語に金欠で困っていた時にふと思いついた「前田コマル」のコマだけをとって付け足したと言うエピソードがある。
そして1941年、入植先のアマゾンにて、その長きに渡る戦いの生涯を閉じる。死後80年を経過した今でも、前田光世を史上最強の柔道家として讃える者は少なくない。
前田光世 模範演武
東海の殺人拳 水谷 征夫

水谷 征夫
稀代のアウトロー空手家
その決闘の行方は
東海の殺人拳と形容されるアウトロー的武術家であり、当時、異種格闘技戦などで華々しく活躍していたプロレスラーのアントニオ猪木氏に対して、「格闘技世界一と言うなら俺と1億円賭けて決闘しろ」との挑戦状を送りつけた稀代の空手家である。
そのやり取りも秀逸で、水谷が鎖鎌で戦うと言えば、対する猪木は、ならば竹藪の中で戦うと返したとされるが、水谷は猪木に限らず当時の日本国中の武道家やプロの格闘家に対して同様の挑戦状を送っていたところ、アントニオ猪木氏のみが返事を返して来たのだと言う。
猪木は、この現代にまだ命掛けの決闘を行おうとする者が存在する事に驚き、水谷に敬意が芽生えたと言い、一方の水谷も猪木ほどの有名人が自分の様な無名の空手家との命掛けの戦いに応じて来た事に侠儀を感じたと言い、最後には、お互いを認め合って不戦の和解に至り、両者の名前を掲げた空手道の新流派を創設したと言う。
拳骨和尚の伝説 宗 道臣

宗 道臣
そう どうしん
1911年-1980年
~本気で受け止める心~
少林寺拳法創始者の探求
日本少林寺拳法の創始者であり、思想家。
武道を通した人間教育に心血を注ぎ、「半ば己の為、半ば人の為」との信条を旨として、綺麗ごとだけでは無く、あくまで現実的な世界に生きるう上で、それでも尚、他人を受け入れる広い心を持つべきだとの教えを説いた。
幼少の頃に両親を亡くした事により、剣術家で柔術家でもあった祖父を頼って満州に移住する。
成長と共に中国各地を巡る武者修行を行い、中国武術の達人達から多くの技術を学んだと言う。

その後、1947年に帰国したが、自分の事しか考える余裕が無い当時の人々の姿を見て胸を痛め、他人を思いやる心をもってもらおうと、精神修養と護身を旨とした拳法及び宗教団体として「少林寺拳法」を創始した。
また、現代人が失いつつあるアイデンティティの問題にも、いち早く取り組み、氏曰く、「己こそ己の寄るべ、良く整えし己こそ、まこと得がたき寄るべなり 」の名句は、正に現代人の心に響くものである。
どんな苦境に立たされても、生きているうちは何とかなる。決して負けた訳では無いのだから勇気を持って立ち向かうべきであり、その勇気を持つ為の自信を養う事が肝要であると説いた。
それら日本古来からの武道精神を軸とする精神性に関心を得た皇族の三笠宮崇仁親王や笹川良一氏とも生涯を通じて親交が深かったと言う。
宗道臣 特集
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
合氣道 開祖 上芝 盛平

上芝 盛平
うえしば もりへい
1833年-1869年
~合気道の開祖~
弾丸を躱す反射神経とは
数々の伝説を残す達人の中でも、一際異彩を放つ達人中の達人が上芝盛平である。その社会的功績を讃えて紫綬褒章、勲三等瑞宝章などの叙勲を受けている。
大東流柔術を初めとする柔術や剣術などの武術修行による成果を大本教や神道などの精神思想で纏め上げ、「和合の精神」「万有愛護」を理念とし「合気道」を創設した。
身長156cmの躯体から繰り出される技は、正に神技と言うに相応しく、巨体の力士でも難なく投げ飛ばすほどの理合いの境地に達しており、老境に至ってもなお数々の伝説を残した。
幼少時には、病弱で内向的な少年であったが、心配した父親が近所の子供達と相撲をとらせたりして盛平の体力と覇気を養うように勤めた。20歳になる頃には、短躯ながら75kgの筋骨逞しい重厚な体になっていたと言う。
その後、陸軍に入隊する事となり、日露戦争勃発後の1905年頃には伍長に昇進していたが、父親の反対により職業軍人の道を断念する事となり、後の1915年頃に大東流柔術の武田惣角と出会い入門する。
それまでの鍛錬により、剛力を誇っていた盛平であったが、当時54歳で身長150cmにも満たない惣角(そうかく)の理合に満ちた多彩な技に圧倒され、筋肉による力の限界を知ったと言う。
また、その後の1919年頃には、日本神道界の巨人である宗教家の「出口王仁三郎」と出会い、その思想に大きく感銘を受けた。
その後、1924年頃になると布教活動を目的とする王仁三郎と共に満州へと渡り、軍の特務機関斡旋の元で諸事に奔走しながら激戦の中を潜り抜ける。

満州での銃撃戦では、敵の銃弾が実際に飛んでくる少し前に同じ軌道で「光のつぶて」が飛んでくるのが見えたと言い、その光のつぶてを避ける事で実際の銃弾を避ける事ができたのだと語っている。
幾度も死の危機に晒されながらも、それらの奇跡体験が重なり、盛平と王仁三郎は、無事に生き延びて帰国を果たす。
その後も、”光のつぶて”や光の太刀筋などが事前に現れる現象が続き、それらを見切ることで相手が実際に振り下ろす木刀や当て身を難なく躱す事ができたと言う。
そして極めつけは、かの有名な行水中の黄金体体験である。
井戸端で行水をしていると、「突如として大地が鳴動し、黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」感覚に飲み込まれ、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神にある」との確信を得たと同時に「気の妙用」なる武術の極意に達したのだと言う。
その後も、皇族から政界、財界、警察、武道家、学校関係などで指導を行い、幅広く社会に貢献する人生を歩む。
入門に際しては、身元の確認できる2人以上の保証人を条件とするなど技の悪用を避ける為、厳格な規律を設けていたと言う。
1969年、86歳でこの世を去った翌日、長年に渡る社会的功績を讃え日本政府より「正五位勲三等瑞宝章」が追贈された。
生まれ故郷である和歌山県田辺市の扇ヶ浜公園には、盛平の力強い覇気を感じる石造が建てられている。
上芝盛平 指導映像
上芝 盛平 演武
最後の実践合氣 塩田 剛三

塩田 剛三
しおだ ごうぞう
1915年-1914年
~不世出の武術家~
実践合気道の神髄
父親が小児科の医師をしていた事もあり、何不住の無い裕福な家に生まれ育った塩田は、小学校時代から柔道や剣道を習い、18歳頃には、講道館柔道三段を取得する程の腕前になっていたと言う。
1932年、通学していた学校長の紹介により、上芝盛平の道場を訪れた塩田は、初めて見る合気道に胡散臭さを感じて、その場で道場主の植芝に手合わせを申し込んだ。
内心では、事前の打合せでも無ければ、倒されることは無いだろうと鷹を括っていたが、いざ植芝と向き合うと足がすくむ様な威圧感があり、次の瞬間には身体ごと数メートルも吹き飛ばされていたと言う。
合気道の凄さを身をもって経験した塩田は、即座に入門を決意し、その後の内弟子期間を含めた8年間を植芝の下で修行した。
身長154cm、体重46kgと非常に小柄でありながら、後に不世出の達人、生きた伝説とまで形容されたその豪傑ぶりは、正に達人と呼ぶに相応しい数々のエピソードに彩られている。
当時の米国大統領、ケネディ夫妻が来日した際には、ケネディの護衛を務める巨漢のSPを瞬時にねじ伏せて強さを証明して見せた。
また、反射神経を鍛える訓練では、水槽を軽く叩いて瞬時に反応する魚の動きに合わせて身のかわし方を練習するなど特異な鍛錬を行っていた事でも有名である。
塩田は、スピードとタイミングが重要であると説明し、日常の生活が即そのまま武道に繋がっていると説明していた。
達人の境地に達した塩田の身のこなしは、一見すると遊んでいるかの様にさえ見える。しかし、警視庁の機動隊で合気道研修を受けた者達によれば、あれは、まやかしなどでは無く、人体の構造を理解した本当の技であると評したと言う。
生前の塩田は、「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と語り、護身術としての武道の意義を説いていたと言う。
塩田剛三 演武の映像
殺 法 高松 壽嗣

高松 壽嗣
たかまつ としつぐ
1889年-1972年
~最後の実戦忍者~
戸隠流を初めとする多くの忍術、体術、古流武術を収め、その生涯において幾度に渡る実戦のエピソードは凄まじいの一語に尽きる。
不良集団60人を相手にした1対60の決闘に始まり、真剣を用いた勝負など文字通りの真剣勝負を地で行く、武神とまで讃えられた武術家であり、「蒙古の虎」との異名で恐れられた。
自伝によれば、実戦12回、試合7回とあるが、実戦とは、いわゆる”死合”を意味しており、命のやり取りであった事がうかがえる。
五体を極限までに鍛え上げ、身体そのものを武器化するなどの発想は、およそ常人では辿りつけない境地である。
特殊な鍛錬法によって猛禽類の爪の様に変形したその指先は、技と言うよりは、むしろ限りなく自然体であり、野生的な本能によって形成された純粋なる戦闘形態と言うべきなのかも知れない。
武術における究極とは、まるで野生動物の如く、その肉体自体を武器化する事になるのだろうか。
空手の源流 船越 義珍

船越 義珍
ふなこし ぎちん
1868年-1957年
~松濤館流空手創始者~
当時の唐手(現:空手)を初めて本土に伝えた人物として知られている。
1868年、現在の那覇市首里山川町にて生まれる。生家は、泊士族の名門家の分家であり、代々首里王府に使えた士族であった。しかし、父親の放蕩の末、船越が生まれる頃には貧しい生活となっていたと言う。
早産であった船越は、体格に恵まれず、幼少の頃から病弱であったため、母方の実家で育てられたと言う。
1885年、沖縄唐手の三大系統である那覇手の湖城流(こじょうりゅう)に入門するが、150センチに満たない小柄な体格が剛性を求める那覇手に合わなかったため僅か数カ月間で稽古を終えることとなる。
次に首里手の大家であり琉球貴族でもあった安里安恒(あさと あんこう)に本格的に師事する決意を固め、長い時間をかけて極意を学んだと言う。
現在の空手は、14世紀頃に中国から沖縄に伝えられ、大正時代になってから本土で知られる様になった。
その原型を辿ると沖縄に古来から伝わる「手」(ディー)と言われる固有の武術と中国由来の唐手(トーディー)に分けて考えられており、またそれらが組み合わさり発展した事で「唐手」(からて)になったとする説がある。
船越議珍によると明治時代の武術家は、沖縄固有の武術である「手」のことを沖縄手(ウチナーディ)、中国由来の武術を唐手(トーディ)と呼んで区別していたと言う。
また、沖縄手も三大系統に分類され、琉球王家の手から発展し、主に琉球士族が担い手であったとする「首里手」、他の一般の人々が担い手であったとする「那覇手」、また琉球第二の貿易港があった泊村(現:那覇市)で行われていた「泊手」がある。
船越が得意とした「ナイファンチ」や「クーシャンクー」は、首里手に伝わる古典の型である。
1922年頃に上京し、文部省主催の体育展覧会に参加するなど、随所での唐手普及活動に勤めた。
船越義珍による型演武
ボクシングの紳士 フロイド・パターソン

フロイド・パターソン
1935-2006
アメリカノースカロライナ州出身のへビィ級ボクサーで、下半身のバネを利かせた必殺ブロー“ガゼルパンチ”の発案者として知られる。
漫画「はじめの一歩」に登場する主人公、幕之内一歩が使う必殺技ガゼルパンチは、このフロイド・パターソンの技術をオマージュしたものである。
若干21歳で世界ヘビー級王者となり、マイク・タイソンに記録を更新されるまでは、ヘビー級王座の最年少記録保持者であった。
そしてこの2人を指導したトレーナーは、奇しくも同じくカス・ダマトである。
1952年のヘルシンキオリンピックの金メダリストであり、その洗練された立ち振る舞いから付いたニックネームは、ボクシングの紳士。
生涯戦績
68戦 55勝 40KO 8負 1分
フロイド・パターソン試合映像
ブラウン・ボマー ジョー・ルイス

ジョー・ルイス
1914-1981
米アラバマ州ラファイエット出身のへビィ級ボクサーで”褐色の爆撃機”の異名で知られた伝説のチャンピオン。
11年間の王座在位中に全階級を通じた最多防衛記録である世界王座25連続防衛の記録を樹立し、この記録は現在も破られていない。
また、ジャック・ジョンソン以来のアフリカ系アメリカ人の世界ヘビー級王者であった。
白人の神経を逆なでし続けたジョン・ジャクソンの経験から、黒人が王座に挑戦する機会は永遠に剥奪されたはずであった。
しかし、ルイスが世界へビィ級王座に挑戦出来たのは、その人柄によるところが非常に大きかったと言われている。
第二次世界大戦間近の1938年、ナチスによって差し向けられた刺客「マックス・シュメリング」と対戦する機会を得た。
第二次世界大戦前哨戦と銘打たれたこの対戦を前にして、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、ルイスをホワイトハウスに招待し、「敵国に勝つ為には、君の様な筋肉が要なのだ 」と言って激励したと言う。
一方、当のマックス・シュメリングはと言うと皮肉な事に「反ナチス派」であった。
試合の結果は、1Rに3回のダウンを奪ったジョー・ルイスが勝利し、人種の壁を越え一夜にして国民的英雄となった。
その後1949年に一度引退したが、50年には、再びリングにもどり8勝を掴んだが、無敵の王者ロッキー・マルシアノにノックアウトされ完全な引退を決意した。
生涯戦績
70戦 67勝 53KO 3敗
ジョー・ルイス VS マックス・シュメリング
ジョー・ルイス VS ビリー・コン
無敵の王者 ロッキー・マルシアノ

ロッキー・マルシアノ
1923-1969
★無敗のチャンピオン伝説
マサチューセッツ州ブロンクトン出身のイタリア系アメリカ人であり、ボクシング世界ヘビー級史上唯一、全勝無敗のまま引退した伝説のチャンピオン。
ブロックトンの高性能爆弾の異名を持ち、身長180cm、体重83kgとクルーザー級の躯体ながら、無類のタフネスさと脅威的な強打で並居る強豪達を次々にマットへと沈めた。
打たれれば、首がネジ切れんばかりの超絶的な右フックは、「スージーQ」と名づけられていた。
1951年、王者ジョー・ルイス戦では、ルイスをリング外に叩き出してノックアウトしたが、尊敬するルイスに勝ってしまったと言って試合後に泣きながら謝ったと言う。
1955年、「もう戦う相手がいない」との名言を残してリングを降りた。
映画「ロッキー」の名前の由来であるとも言われるが、真相は定かでは無い。
生涯戦績:プロボクシング 49戦 49勝 43KO
ロッキー・マルシアノ vs ルイス戦
ライン川の黒い槍騎兵

【 マックス ・ シュメリング 】1905年 - 2005年
~ドイツ人として唯一の世界へビィ級王者~
1927年、欧州ライトへビィ級王座、翌年にはドイツへビィ級王座を獲得し、渡米後の1930年には世界へビィ級王座へと挑戦する。しかし、4R目に受けたローブローにより相手が失格負けとなった為、倒れたままで世界へビィ級王者となった。
その後は、持ち前の実力で勝利を重ね、1936年には「褐色の爆撃機」と呼ばれた、ジョー・ルイスと対戦し、12RKOにて勝利し、一躍ヒーローとなる。
しかし、後にタイトルを獲得したジョー・ルイスに初防衛の相手として指名され再戦するも1R目で3度のダウンを喫し、敗北してしまう。
その後、第2次世界大戦の影響で、リングから遠ざかる。
その間、ナチス入党の勧誘を断ったり、ユダヤ人である
マネージャーをクビにせよとの勧告に従わなかったため、
徴兵され最前線に送られるなどの処遇を受けた。
戦争終結後、正式にボクシングを引退するし、事業で成功を収め、基金を元に障害者や恵まれない人々の為の奉仕活動
などを行なった。また、戦後、経済的に困窮していたジョー・ルイスに対し、匿名で経済支援を行なっていたと言われる。
戦績 : 70戦 56勝 39KO 10負 4分
黒人初の世界王者 ジャック・ジョンソン

ジャック・ジョンソン
1878-1946
人種の壁を越え掴んだ世界ヘビー級王座
米国テキサス州ガルベストンの出身に因んで"ガルベストンの巨人"の異名で呼ばれた。
本名は「アーサー・ジョンソン」と言い、"奴隷"の子として生まれた境遇から黒人初のプロボクシング世界ヘビー級王者に上り詰めた。
1913年には、黒人に限定した世界ヘビー級王者となっていたが、その後に白人も含めた完全なタイトルを手に入れようと試みるも人種差別に阻まれ続けた。
当時のボクシングでは、カラーラインと呼ばれる白人が黒人の挑戦を嫌厭(けんえん)できるルールがあり、初めてカラーラインを使用したのは、ジョン・L・サリバンだったと言われている。
それは差別と言うより、黒人の能力を恐れての事であったとするのが通説である。
当時、黒人はタイトル戦以外であれば白人と対戦する事も可能であった。
それは、アメリカにおけるプロボクシングのヘビー級王座が大変な栄誉である為に黒人と競うに値しないとの考えが根底にあったと言われている。
しかし、ジャック・ジョンソンは、1908年にイギリスの白人元王者ボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得て、2ラウンドでフィッシモンズを軽々とノックアウトした。
フィッシモンズはこの時、既に44歳となっており、かつての精彩は失われていた。
これをバネとして翌年には、カナダ人の現役ヘビー級王者トミー・バーンズとの対戦に漕ぎつける。
バーンズのマネージャーがレフェリーを務めるという驚異的な逆風が吹く中、ジョンソンは、崩れ落ちそうになるバーンズを何度も立たせて、また叩きのめすという白人への憎悪にまみれた試合が展開され、見兼ねた警官が試合を止めに入る形でジョンソンのTKO勝利となった。
だが、最後の決定打のシーンは、カメラが停められていた。
王者となった後も、ジョンソンは白人社会で憎悪の対象として罵られた。
再び、白人の手に王座を取り戻す為、次々と白人の挑戦者との試合が行われた。
白人vs黒人の試合が社会に求められていた事もあり、ジョンソン自身も金にならないからとの理由で黒人の挑戦者を嫌厭する様なった。
黒人が黒人に対してカラーラインを使うという予想外の展開により、黒人社会の人々は反発を覚えた。
その後、紆余曲折を経てカウボーイからボクサーに転身したウィラードに敗れて王座から陥落した。
生涯戦績
142戦 100勝 51KO 14負
14分 14無効試合
ジャックジョンソンVSバーンズ
ジャック・ジョンソンVSウィラード
小さな巨人 トミー・バーンズ

トミー・バーンズ
1881-1955
第6代プロボクシング世界ヘビー級王者
カナダ出身のボクサーで、身長171cm、体重78kgと小兵ながら前身がホッケーの名手であったという素早い動きと、体格に似合わぬ強打を武器に8連続KOを含む世界王座を11度防衛した伝説のチャンピオンである。
現代ほどの技術的な完成度にない当時であるとは言え、170cmそこそこの体格でヘビー級の王者となるには並大抵の努力では無かった事が想像できる。
1908年、ジョン・サリバンなどの歴代王者が、カラーラインを使用して嫌厭してきた黒人の強豪選手ジャック・ジョンソンの挑戦を受け、善戦したが体格差を埋める事ができず一方的に打たれ始めると警官がリングに入り試合を止めさせバーンズの敗北となった。
"カラーライン"とは、当時の白人の優位性を守るために制定された一種の人種差別的なルールであり、カラーラインを意思表示する事で白人は黒人からの挑戦を回避する事ができたと言うが、黒人に対する精神的な嫌悪と言うよりは、黒人の持つポテンシャルを恐れた為だとも言われている。
プロボクシング戦績
57戦 43勝 35KO 5敗
8分 1無判定
バーンズ vs ジョン・ジャクソン
戦うカウボーイ ジェス・ウィラード

ジェス・ウィラード
1881-1968
~カウボーイから世界へビィ級王者へ~
アメリカ合衆国カンザス州出身の身長2mを超える巨漢ボクサーで、黒人初の世界ヘビー級王者となり、当時の白人層から忌み嫌われていたジャック・ジョンソンからタイトルを奪った事で、一躍全米のヒーローとなる。
しかしその事で慢心が生まれ為か以降の戦績は、あまり芳しくは無かった。
1919年、オハイオ州トレドで行なわれた2度目の防衛戦では、新鋭の強打者ジャック・デンプシーに初回から滅多打ちにされてしまう。
初回で倒さなければファイトマネーは支払われないと告げられていたデンプシーの鬼気迫るパンチの連打を浴びながらも、幾度と無く立ち上がって応戦を続けたが、4ラウンド手前で遂に力尽きてその場に崩れ落ちた。
現代なら数発で確実にレフェリーストップになる程のクリーンヒットを無数に浴びてもなお立ち上がり続けたウィラードの丹力とデンプシーの執拗な攻撃の連続に観客達は熱狂した。
その結果、ウィラードは、顎や頬など7か所以上も粉砕骨折した上に歯は砕かれ、複数の肋骨を骨折するほどの重傷を負っていた。
この試合は、「トレドの惨劇」と名付けられ、近代ボクシング史上で最も凄惨な試合であると言われている。
何度倒れても立ち上がれば試合続行というルール無用の喧嘩スタイルは、競技としては未完全であるが、観戦する側は大いなる刺激と興奮を覚えた事だろう。
デンプシー戦では、敗者として強調されやすいウィラードではあるが、一方の見方としては決して諦めない不屈の精神力を示した豪傑として賞賛に値する。
身体とは、やはり精神が引っ張って行くものなのかも知れない。
プロボクシング戦績
36戦 24勝 7負 1分 4無効
ウィラードvsジャック・ジョンソン
ウィラードvsジャック・デンプシー
戦う銀行員 ジェームズ ・J ・ コーベット

ジェームス ・J ・ コーベット
1866年-1933年
~銀行員から世界ヘビー級チャンピオンへ~
米国カリフォルニア州サンフランシスコ出身のボクサーであり、銀行員からの転職に因んで「戦う銀行員」、紳士的な性格で相手に傷一つ負わせない天才ボクサー「ジェントルマン・ジム」などの愛称で親しまれた。
近代ボクシングの先駆者であり、それまでのスタンド&ファイトスタイルから、ジャブやフットワークを駆使するアウトボクシングのパイオニアであるが、当時は卑怯者の戦法として罵られた。
ベアナックル(素手/ロンドン・プライズリング・ルールズ)時代からの王者であり、その後にグローブ採用となったクインズ・ベリー・ルールズ時代の初代認定チャンピオンとして君臨した(ジョン・L・サリバン)と対戦し、21回3度のダウンを奪って第2代世界ヘビー級王者に輝いた。
プロボクシング戦績
22戦 12勝 5KO 4敗 4分
ジェームズ・J ・コーベット 試合映像
マナッサの殺し屋 ジャック・デンプシー

ジャック・デンプシー
1895年-1983年
~戦慄のデンプシーロール
アメリカ合衆国コロラド州出身のボクサーで、「マナッサの殺し屋」と謡われたハードパンチャー。
それまでの重心を後に倒した防御姿勢で戦うスタイルとは異なり、重心を前にかけた前傾姿勢で戦うスタイルのパイオニアであるとされている。
左右に振るウィービング(ボクシング技術)からの腰の入ったパンチの連打は、「デンプシーロール」と名付けられ、現代においてもハードパンチャーの代名詞的スタイルである。
1919年、「トレドの惨劇」と言われたボクシング史上でも稀に見るほどの凄惨な試合では、対戦相手の世界ヘビー級チャンピオン「ジェス・ウィラード」を初回から滅多打ちにして数回のダウンを奪った末、4ラウンドのゴングを聞くこともなく世界王座を奪取した。
対戦相手のウィラードは、顎や肋骨、頬骨など数カ所を砕かれる重症を負った。
デンプシーVSウィラード戦の映像
ハンサムな国民的ヒーローとして人気が高かったウィラードを滅多打ちの半殺しにしたデンプシーの凶暴な姿を見た観衆は、彼を英雄とは見なさずアンチヒーロー的な存在として認識したと言う。
この後も、名だたるヘビィ級の強者達との死闘を繰り広げ、第二次世界大戦で従軍した際は指揮官を務めるなど、時代と共に戦いの中を生き抜い人生であった。
引退後は、ボクシングプロモーターとして活躍しながら時代を謳歌する暗黒街の有名なギャングスター達との交流も重ね、ビジネスにおいても現役時代と変わらぬアグレッシブなファイトスタイルを貫いた。

”デンプシーロール”と呼ばれた攻撃に特化した打撃スタイルは、技術と言うよりは戦いに勝つべく強い意思が現れた天然戦闘形態と呼ぶに相応しい。
防御主体で勝ち残るには攻撃の数倍もの技術と質が必要になると言われるが、攻撃力こそが戦いを勝利に導く本質である事を、デンプシーのファイトスタイルが物語っている。
プロボクシング戦績
83戦 62勝 50KO 6敗 9分
6無効試合