鉄の男 マイク・タイソン

マイク ・ タイソン
1966-
最強最速のヘビー級ボクサー
元祖 鉄人伝説
1966年、米国ニューヨーク州ブルックリン区に生まれる。
父親は、タイソンが2歳の時に家族を捨てて蒸発したため、当時のアメリカで最悪と呼ばれたスラム街で兄弟と共に母子家庭で育った。
少年時代のタイソンは内気な性格で、近眼用の分厚いレンズのメガネを着用していた事から嘲笑の的にされ、不良少年達からイジメを受けたという。
しかし、ある時、タイソンが大切に育てていたペットの鳩をその不良少年達に目の前で殺される事件が起きる。
我を忘れるほど激高したタイソンは、直ぐさまその不良少年達を叩きのめし、その時、初めて自分の強さに気が付いたと言う。
その後は、タイソン自身も荒んだ生活へと突き進んで行く。
15歳までに51回もの補導歴を数えるほど札付きのワルへと成長したタイソンは、ついに"不良少年収容施設"と言われたトライオン少年院に収監されてしまう。
施設の更生プログラムでボクシングと出会い、指導していた教官はタイソンを見るなり直ぐにその才能に気が付いたと言う。
教官は、後日、ボクシングの名トレーナーとして知られていた友人のカス・ダマトにタイソンを引き合わせた。
ダマトは、タイソンの才能に驚愕し、彼の身元引受人を買って出た。
晴れて少年院を出所したタイソンは、ダマトの元でボクシングの英才教育を受ける事となる。
ダマトの指導する練習プログラムは、当時としては非常に画期的なものであり、タイソンの素質を十分に引き出した。
天井からロープで吊るした数個のバレーボール大きく揺さぶり、四方八方に揺れ動くボールを間を巧みに潜りながら、左右から強力なパンチを繰り出すという極めて実践的な訓練である。
また、コンビネーションの練習では、攻撃する身体の部位ごとに数字を当てはめ、ダマトが発した数字の通りに素早くコンビネーションを組み立て連打を浴びせる。
このシステム的な訓練により、無類のスピードと攻防一体の爆発的な攻撃力を備えたタイソンは、アマチュアボクシングの試合において52戦47勝という輝かしい実績を積み上げた。
オリンピックへの出場こそ叶わなかったが、1985年に19歳でプロデビューを果たすと破竹の勢いで王座へと駆け上がる。
プロ初戦を1ラウンドTKOで勝利したタイソンは、その後も28連勝を重ね、史上最年少の若干20歳にしてWBC世界ヘビー級王座を獲得した。
翌年、WBA、IBFの2団体の王座も獲得し、プロボクシング世界ヘビー級3団体の統一チャンピオンとなった。
その間に恩師であるカス・ダマトが惜しまれつつも他界してしまう。
ダマトを失ったタイソンは、糸の切れた凧の様に自身のコントロールを失い、「グリズリーに近づいても、ドン・キングには近づくな」と生前のダマトが常々警告していたにも関わらず、暗黒プロモーターで鳴らしたドン・キングに接近してしまう。
ドン・キングは、自身のプロモートを実現させるため、ダマトが残した最強チームの解体を企てた。
タイソンの妻を懐柔してコントロール下に置き、ダマトのボクシング理論を忠実に引き継ぐ最も信頼できるトレーナーを解雇させ、チームの結束に亀裂を生じさせた。
チームを失ったタイソンは、ドン・キングと正式に契約したが、周囲は妄信的な拝金主義者で埋め尽くされ、かつての様に質の高いトレーニングが行える環境では無かった。
リズムが崩れたタイソンは、生活の乱れから多数のトラブルを抱える様になり、空回りしながら次第に底なし沼へと陥ってゆく。
離婚、自殺未遂など多くの訴訟問題を抱えた挙句、ついに刑務所へと収監されてしまう。
出所後の1996年、それまでの呪縛を解き祓うかのように2団体統一ヘビー王者となり見事に返り咲いたが、既に全盛期を過ぎていたタイソンは、まもなく若手の強豪ボクサーに敗北を喫する。
その頃のタイソンは、かつての様な攻防一体のバランスが取れたボクシングとは異なり、1発の強打に頼る緩慢で雑なボクシングへと変わり果てていた。
2005年「ボクシングをもうこれ以上侮辱したくはない」との言葉を残し、タイソンは静かにリングを降りた。
引退後は、自らのアイデンティティを再構築する為に模索を繰り返した。
そして15年の歳月が流れた近年、50代半ばとなったタイソンは、チャリティーを目的としたリングに再び舞い戻った。
タイソンの挑戦は、まだ終わっていない。
プロボクシング戦績
58戦 50勝 44KO 6負
2無効試合
15歳当時の恐るべきシャドー
全盛期の凄すぎる映像
石の拳 ロベルト・デュラン

ロベルト・デュラン
1951-
~中南米の星~
石の拳を持つ男
中南米パナマ共和国出身のボクサーで、ライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の4階級を制覇した伝説の王者。
その強烈なパンチは「石の拳」と称された。
1968年16歳でプロデビューして以来、連戦連勝を重ねると、1972年、無敗のままWBA世界ライト級王座を獲得する。
翌年、ノンタイトル戦で敗れたため29連勝無敗の記録はストップするが、同年、パナマで行われたタイトル戦では、ガッツ石松氏を破り3度目の防衛に成功する。
後に世界ライト級王者となるガッツ石松氏は、石の拳と形容されるデュランの強打について「本当に石で殴られているみたいだ。これは勝てないな。」と前半ラウンドで感じていた事を明かしている。
その後は、ライト級タイトルを返上し、スーパーウェルター級タイトルに挑戦する。
当時、天才の名を欲しいままにしていたシュガー・レイ・レナードを僅差の判定で破り、王座奪取に成功。これにより2階級制覇を成し遂げる。
パナマの英雄として、国民的スターになったデュランは、その後も順調に勝利を重ねてゆく。
しかし、レナードとの再戦では、レナードの執拗なアウトボクシングに嫌気がさして試合を放棄してしまい、国内でもバッシングを浴びる事となった。

これを跳ね返すかの様に階級を上げて挑んだタイトル戦では、見事に王座奪取に成功し、これにより3階級制覇を成し遂げる。
その後、黄金期と言われた80年代のSウェルター級及び、ミドル級を主戦場に強豪選手達との死闘を繰り広げる。
無類の強さを誇るデュランであったが、時の強豪選手達もまた黄金期と呼ばれるに相応しい実力者揃いであった。
後に"ラスベガスの衝撃"と呼ばれた試合では、痛恨の強打を浴びてマットに崩れ落ちる一幕もあった。
もはや、衝撃映像の部類に入るほどの痛打に体調が心配されたが、幸いにも無事であった。
その後も変わらず試合を重ねた1989年、38歳となっていたデュランは再びミドル級王座に挑むと見事に勝利で飾り、4階級制覇を達成した。
ノンタイトル戦であっても精力的に戦い続けたデュランは、通算119戦を行い、KO及びTKOで敗れたのは僅かに4回だけという怪物的な戦績を残した。
2002年、パナマシティにて、引退を表明。
中南米の星として栄華を極めた天才ボクサーは、静かにリングを降りた。
2006年、偉大な功績を残したボクサーに送られる世界ボクシング殿堂に名を連ねた。
生涯戦績:プロボクシング
119戦 103勝 70KO 16負
スモーキンジョー ジョー・フレージャー

ジョー ・ フレージャー
1944-2011
最恐の左フックが世界を制す
米国出身のプロボクサーで、本名は「ジョセフ ・ ウイリアム ・ フレージャー 」と言い、その機関車のような突進力から“スモーキンジョー”と呼ばれた。
強度のスタミナを備え、リズミカルなステップから左右に上体を揺すり相手の攻撃を避けながらの左フックを得意とし、モハメド・アリをプロキャリアにおいて初めて敗北させたボクサーでもある。
1964年には、東京オリンピックにて、金メダルを獲得。
負傷欠場した選手の代役での出場であった。
翌年にプロデビューを果たすと怒涛の進撃で6連勝を重ねる。
1968年、ニューヨーク州公認世界ヘビー級王座決定戦に勝利、世界王座を獲得するとその後4度の防衛に成功する。
1970年、WBAの王座も獲得した事により、統一世界ヘビー級チャンピオンとなる。
Joe Frazier training & KO 動画
翌年、モハメド ・ アリと対戦し、辛くも判定勝ちで防衛に成功するが、その2年後に“怪物”ジョージ ・ フォアマンに敗れ、王座から陥落した。
その後、アリとは、2度に渡って対戦するが、いずれも敗北し、そのまま1981年に引退した。
アリやフォアマンなどの強者と壮絶な戦いを繰り広げたフレージャーであったが、実は、1964年頃から、練習中の事故により左目の視力が著しく低下し、相手の右パンチは、殆ど見えていなかった事を後に告白している。
それでも、目の事を知られてしまうと、ボクシングを辞めざるを得なくなる為、誰にも言わずに隠し通していたと言う。
映画 「ロッキー」にも、多大な影響を与えたボクサーとして知られ、劇中の主人公ロッキー・バルボアが、食肉工場に吊るされた肉塊をサンドバッグ代わりに叩いたり、ランニング中に長い階段を駆け上がって雄たけびを上げるシーンなどは、フレージャーが実際に行っていた事である。
その様な経緯もあって映画「ロッキー」には、ノーギャラでのカメオ 出演も果たしている。
生涯戦績
37戦 32勝 27KO 4負1分
フレージャー 5KO